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詩 『夏休み』 [詩・散文詩]

夏休み 2010-7-27 火曜日

踵がタップダンスの開始を告げた時

夏休みの空が一斉に流れ込んで来た

カヌーや朱印船に乗ってね

我先にと争いながら

「静粛にしたまえ!諸君!

争いには何の叡智もないのだ!」

 

inventions.JPGまるで赤ん坊のようなファッションの小太り女が

ドットホイ、ドットホイと一人で叫んでいる

と思ったらそれは千人のコーラスだったのだ

グランドキャニオンの峡谷を埋め尽くした

娘達の叫びだったのだ

これでビッグバンを再現していたのだった

あぁ、小さな文字が無数に印刷された浩瀚な書物を

覚えこんでどうするというのだ

そんなことをしても

たった一リットルの土中の生物について語ることができないだろう

 

(鶏の骸骨のような女の残像)

「今朝から狂った貿易風が吹いていましたね。」

エルニーニョとラニーニャが手を繋いでタンゴを踊る

ボリビアとアルゼンチンには寒波が雪娘たちを連れてやってきた

それなのに、オーロラを見ながらウォッカを呑んで乾杯をしていたロシアには

酔っ払って扉をあけると竈から熱風が吹きこむのだから

人々はすっかり愉快になって

頭から湯気を出しながら走る、走る

ウラーッ!ウラーッ!

 

これですっかり夏休みの準備万端

Have a nice vacation!

Thank you. You, too!

*今回の絵は2010年7月26日月曜日に手帳に描いたものに彩色。新しい道具を考案したが、どこもちっとも新しくない。あぁ、つまらない。

さて、皆様は夏休みの計画は立てられましたか?計画を立てるということ自体が、如何にも陳腐なことであるかもしれませんが。私はいつも通り、幾つも立てておりますが、その内の一つは・・・やっぱり秘密にしておきます。完成した段階で「実はあの時・・・」と言う方が楽ですから。


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シュルレアリスト風に その1 [詩・散文詩]

記事のネタを十分に考える時間がない時、私は雑説という名の大学ノートを参照することがある。発表したいことはいくつもあるが、悩むのは、過去の作品を発表すべきなのか、新作の発表をすべきなのか、である。まぁいいや。これが私の決め台詞である。まぁいいや。

シュルレアリスト風に その1

境界線には赤錆びた鉄板を並べよう

それこそ竹矢来のように

一匹の蟻も入り込むことのないように

あぁ、愛しの女郎蜘蛛のスザンナを

蟻共が神輿担いで運び行くよ

汗に塗れた豚が擦寄って来ないように 

風が吹いて水分を随分と飛散させてくれる時

忠八の鴉型飛行機が海水着を着た若い女の周りを大きく旋回する

ナポレオンと呼ばれたその豚は生ゴミのような吐息を漏らす

空色の大瓶から瀧のような、

そう、それこそ瀧のようなアストリンゼンを注ごう

その魂からその悪臭が洗い流されるように 

ナポレオンは静かな寝息を立てて浅い眠りについた(平和な一時) 

渡し舟がいたので私はこれ幸い船頭に一声掛けてから飛び乗った

川面には一陣の涼風あり漣が鰯の大群の群舞を思わせる

めでたや 

      2010625日(金曜日)多摩急行のなかにて

尚、ここ公開せる挿絵は、上に述べし雑説にある砂時計を持てる猫なり。何か奇妙なもの、不思議なるものが好きな人間ゆえ、手持ち無沙汰なる時、この男、斯様な絵をしきりに描く癖あり。(So-netさん、改行がおかしいですよ!イメージしているレイアウトが滅茶苦茶じゃ!)

a cat holding an hourglass.JPG

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作品2010-2-06土曜日 [詩・散文詩]

201026日(土)

 

abstract2010-2-10wed.JPG肥満体と青空 - 人間の理屈は往々にして屁理屈

甲高い声が冬の空に響く

彼女はカシラダカのようにきょろきょろしている少し年上の女に席を譲った

こんな時、時間はそれこそチューブから押し出された練り歯磨きのように

ゆっくりと変化してゆく

その肥満体は青空を背にして娘に喋り続ける

殆ど止まることなく喋り続ける

青空の東には、怪しい雪雲が接近してくる

この透明な青さ、眩しい太陽は

いつまで囀っていられるのだろう

 (人間は人間に対して利己的であり、人間以外に対しては更に利己的である。利己のためにはいくらでも理屈は作られる。嘘八百を並べることもお手の物。自己の存在は常に正当化される) 

市松模様のLouis Vuitton

人間の欲望が価値を生み出す

黄金の国ジパングでは鉄が貴金属

ダイヤモンドの国スワジランドでは自由と平等が宝石である

女旱に男旱

ことほどさように人間が価値を決定する

絶対的価値ではなく、いつだって相対的価値が人間の間では重要なのである

肥満体と青空は途中で馬車を降りた

 

今、太陽の光は弱まり

がらがらの郵便馬車を嘲っている

梅の木はくの字に切りなさい

と親方が言う

それ以外のひらがなを描こうものなら

植木鋏が飛んでくるから始末が悪い

ほら、太陽が雲に呑み込まれたじゃないか


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作品 2010-2-5 [詩・散文詩]

作品 2010-2-5 金曜日 

ラヂオ体操する太陽2010-2-7.JPG家に取り囲まれた樹

その梢の向こうで太陽がラヂオ体操に励んでいる

私の知っている太陽は

意外にひ弱で

レオタード姿はさながらニジンスキーだ

あぁ、牧神の午後かい

確かに今日は日向で転寝するための一日のように見える

 

若い女の巻いた髪が

水牛の角の反りを思い出させるからと言って

ここは南国ではない

トロピカル・カクテル・ティキティキを注文しようとしても

ボタンインコのメードさんは出てきてはくれないよ

冬にしては強い日射しを浴びて

深緑の葉、そう、あの鬼の洗濯板のような

逞しい葉の枇杷が

灯台守の主題歌を歌っている

蒸気機関車は線路沿いの道に並んで

黒い声、青い声、白い声を張り上げて手を振る子供達に

エネルギーを貰って

得意そうに彼らの間を駆け抜けてゆく

愉快だねぇ、ホーシュ君!

私の作文方法 2010-1-28 木曜日 

新百合ヶ丘から、太った年輩女が足早に車内へ入ってきて、空いた席に坐った

この文章をシュルレアリスト風に書きなおしてみよう

朝日が昇ると僧侶達の読経が始まる

その読経を阿僧祇劫の彼方で支えているのが

アルキメデスの梃子ともなりうる禅寺丸の樹である

その寺院の陰から、

少々時季はずれの獅子舞

の頭がローラースケートを履いて飛び出してきた

そして寺の境内をぐるぐる走り始める

「お父さん!もうやめてよ!僕好い子になるからさ!」


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貧爾手帳 - その10(これにて完結) [詩・散文詩]

mom where are you.JPG 夏の空 その三 

今日だってこれも夏の空だい

すっかり薄暗くて灰色の空だ

それでも蝉たちは懸命に鳴くことをやめない

彼らの子孫は七年後まで地上に出てこない

たしかに空の所々には青空がある

申し訳のように青い夏の空が見える

しかし、昨日吹き荒れた風が

夏の活力を吹き飛ばしてしまったかのように

力のない夏日だ

烏たちも思い出したかのようにしか

鳴かないし

伐られた樹々の精たちの姿もいよいよ力ない

子供の頃 夏の日は何かをなすべき時だったのか

時は同じように流れているのか

オマル・ハイヤームは土塊(つちくれ)をみて何を考えたのか

サーキと酒を酌み交わし

享楽に耽って人生を

生きている命のことを忘れようとしていたのか

フロイトは精神分析を心理の考古学として考えていたそうだ

エドガー・ケイシーの夢解きは

古文書の解読によってなされた

この二人の発想は同じなのではないか

アトランティス大陸よ

エジプトよ

古王国時代だろうか エジプト人たちは

猫の木乃伊を作った

mirra-mummyult. f. Pers. Mum wax※∬ 薄橙色の太陽光が 

ジャロジー窓から本棚に注いでくる

これだって夏の日だ劇的であるばかりが夏の仕事ではない冷静であり且つ静謐な世界の象徴であってもいいではないか 

貧爾の好きだった生クリーム  

チーズ 

菓子パンなどが埋葬されたのは大雨の降る前日の土曜日 

こんなに淋しく時間の流れる夏の日があってもいいじゃないか

桃子が死んだのは西暦二〇〇〇年八月十三日日曜の午前十時頃

寅三郎が死んだのは西暦一九九六年八月二十日頃二十日だとすれば火曜日であるそして

貧爾は西暦二〇〇二年八月十三日火曜日午後二時十五分

宗太郎は西暦一九九六年十一月六日 水曜日午後一時半

あぁ、そして梅子が姿を消したのは西暦一九九二年頃のことだった

しかし、不誠実な私はその不在に何の関心もなかった何の記録もない

悲しい噂が一つあっただけだった「梅子に似た猫が轢かれていたよ。」

それは私の心が不在の時私の心が虚ろな時 

こんな淋しい夏の空もあるもんだいこれでも夏の空だい will you help me.JPG     

あとがき  この『貧爾手帳』は二〇〇二年八月三日から八月二十一日の水曜日までの、手帳に記した記録である。B六判二十一行の手帳で七十七頁になる。内、十一頁が挿絵だ。個人名及び固有名詞を変えたり、削除したりし、一部文章の意味の通りにくいところを直したりした。それ以外は、手帳に書いたものをそのまま文書にしてある。本来、文章は時間の流れに従って並べたり、主題の固まりをまとめたりした方が分かり易いのであるが、あえて、自分が手帳に書き付けたままにした。そうした方が、却って、私の感情の流れがよく分かると考えたからである。 貧爾は死んでからも私たち夫婦にその思い出、話題を提供し続けている。二〇〇四年一月十四日水曜日から二十日火曜日まで、下北沢のザ・スズナリで、妻は『家族日記』(昭和が終わろうとしていた頃のある家族の物語)と言う芝居を知合いの女性と二人で自主公演した。脚本を書いたのは中島淳彦氏である。この制作に当たって、妻は、それこそノイローゼになりそうな位苦労をした。公演案内のチラシを作る作業も予想外に大変だった。原画を描く、知り合いの業者にデータ送付、色の調整、作品の表題文字のレタリング、大きさ調整、レイアウトを更、チケット用画像編集、DM用の手紙にカットを入れる、など。蜿々とその作業は繰り返された。このポスターとチラシの原画となっている絵の中央には一組の老夫婦が夕日を見て笑いながら立っている。これは私たちだと妻は言った。その妻の足元には、やはり貧爾が西日を見ながら座っている。結局この公演は、初めての自主公演としては大成功で、千人以上の観客を集めることができた。そして、今や、貧爾のカットは妻の印章になっている。 

チラシその1.JPG

 

*『家族日記』のチラシ。私は妻の使った色彩が好きで、このチラシを何枚か保管している。右の絵は一部を拡大したもので、老夫婦の足元には貧爾がおり、夕陽を一緒に見ている。これが妻の老後の夢なのかもしれない。レタリングも妻が、何度も描き直しをしながら、自分なりに納得のできるまで作業をしていた。

※ソネットブログの改行がうまく出来ないので、詩の最後部分は一行余計に改行されています。チラシその2.JPG


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貧爾手帳 - その9 [詩・散文詩]

 

hinji in my hands.JPG二〇〇二年八月十六日 金曜日 十四時十九分 雨 

 

今は大雨が降っている。おまけに雷も鳴り響いている。それこそ昨日もそうだったのだが、この温暖化しつづける地球、その先端をゆく日本国の愚かしさを打ちのめすかのような、鬱憤を晴らすような雨が降る。

 街路樹の山帽子には水不足で枯れかけているものが何本かあったのに、一昨日と昨日は気が付いた。しかし、それらの木々の前に住んでいる住民は、山帽子が乾き渇き苦しんでいるのに気づきもしない。それでいて自分の家の庭木には水をやるのだ。我が家を飾る花には水遣りを忘れないのだ。その身勝手さを見るに見かねて、空が雨を降らしてくれたのだ。稲妻が走り、雷鳴を轟かしながら大粒の雨滴を乾ききったアスファルトや埃だらけの地面に叩きつけているのだ。一刻でも早く、この愚行が終わるように。まるで、この雨の音は、鍛冶屋の金槌のようだ。精神を叩きなおしている槌のようだ。

 西欧では大洪水が古都を襲った。プラハの町はあちこちが水の中だ。私はこの大洪水が日本ではなく西欧に起こったことは幸いであると思った。彼らは、この異常気象を早くから指摘もし、対処しようと逸早く取り組んできたからだ。いつも後塵を拝してばかりいる日本政府など、私は全く信頼していない。欧州人たちは、この異常さを体験することによって、愚かな他の国々の人々や、欲望を捨てられない傲慢な日本人たちに、あるべき姿を示してくれることだろう。日本で洪水が起こっても、治水やダム建設を推進する土建屋ばかりが、そして彼らと癒着した政治屋たちばかりが、水を得た魚のようになって喜ぶだけなのだろう。

 私は妻と何度も同じ話をする。人間は強欲で、闘争心が強く、利己的で、排他的で、およそこの宇宙にとってよいことは何も無い存在だ。しかし、他の動物はそのようなこともなく、唯自然の摂理のままに生まれ死んでゆく。その姿の何と偉大なこと。

 貧爾の死に際して、私はいくつかのことを心に誓い、妻にも宣言した。八月二十二、三日に行われる彼女のパフォーマンス公演は手伝いに行くこと。また、今まで私が一方的に下らぬと斥けてきた、夫婦一緒に旅行に行く話なども、これからは前向きに考え、海外旅行でなければ行くことにしたこと。これは彼女には言っていないことだが、私が妻のためにも作品を書き続けること。今までは自分のためだけだったのだが、これからは妻にも喜ばれることも一つの目標にすること、などだ。

 

夏の空 その二

夏の空には置き忘れてきた何かが残されている

何を残してきたのだろう

夏の陽射しは余りに強すぎるので

思い出を作るにはあんまり暑い

だから大事なことを言おうと思っていても

すっかり忘れてしまうのだ

思い出があることは確信できる。しかし、

思い出の俤が陽炎の彼方で燃えているだけだ

あの麒麟の鬣のように

大地に焼き付けられた思い出

一瞬の閃光と地獄の熱によって

写真のように焼き付けられた像

何か悲しい物語を語り聞かされた後のような

空しさが漂う

もう、命の水筒には一滴の水も入ってはいない

それを振り回しても何の変化も訪れない

遠くで女声合唱が鎮魂曲を歌っている

海の底のように静かな金曜日

縫い閉じられた瞼

あるいはこじ開けられた瞼

一体この世に幸福ということばが存在するのやら

 

一面を蔽った雨雲は

雨乞い師たちの祈祷の成果

台の上に置かれた猫の亡骸は

夏の日の思い出になることだろう

この雷雲と大雨の御蔭で

忘れない思い出になることだろう

 

君、そこをぶんぶん飛び回るのは止したまえ

眠った子が目を覚ますだろう!

 

jiro & hinji.JPG二〇〇二年八月二十一日水曜日 十二時零分 晴れ

 昨日は風が吹いて、大分涼しくなった。『永訣の朝』は昨日、相当手を加えて聞きやすくした。まとまりを持たせるために休止をいれたりcalandoを入れたり、速度調整が相当に必要だった。

 あめゆじゅとてちてけんじゃの部分が一貫性を持つために入れられているのだが、それが少々耳に付くほど反復している。

 何度も何度も聴きなおす。最終部分は長調にして「わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」が明るい未来を暗示するようにしている。

 

十二時二十分

 

また少し速度を調整した。少しずつ歌いやすくなっていると思う。書き始めは余りに暗すぎて、悲しみばかりが残る曲だったのだが、私も時と共に悲しみから解放されたのだろう。徐々に曲に明るさが戻ってきた。

*     *     *     *     *     *     *

 私は貧爾の最期をもう一度思い出して書いておかなければならない。既に一週間という時間が経過しているので、あの強烈な印象は薄れてはいるのだが。

 貧爾は肩のぼり君と呼ばれていたが、釜のぼり君とも呼ばれていた。死は突然訪れたように思われたが、既に彼は大分前から具合が悪かった。唾液が止まらなかった、と言うよりは、口内炎が出来ており、痛みのために口を閉じることが出来なかった。それでいつも口を開けていた。そのため口が可也臭かったのである。涎が糸を引く口を開けたままで、彼は電気釜の上に昇って、取っ手を前脚で抱き込んで坐っていたのである。勿論それは秋や冬の、暖が恋しくなる季節のことであった。食事の時は、貧爾君を蓋の上から降ろしてから、ご飯をよそったものである。

 あの貧爾の最期の断末魔の苦しみの姿は予想外であった。私は単に静かに息を引き取って行くだけなのだろうと思っていた。しかしそうではなく、二時十五分頃に、突然痰が絡んだようで、呼吸困難に陥り、ぐっつ、と言う音と共に大きく背中を反らせた。脚を突っ張った。舌は口の外へべろりと垂れ下がっている。目は鬼のように恐ろしい。凄い形相だ。私は慌てて、ビニール製の哺乳瓶を取ってくる。これは以前、私が貧爾に強引に水を飲ませようとした時に使ったものだ。その哺乳瓶の先には細長い円錐形のストローが付いている。その空の瓶を圧して、貧爾の口にストローの先を押し込む。空気を送り込む。少し空気が入ったか、貧爾は大きく息を吐き出す。しかし、呼吸はしていない。何度も空気を入れる。息を吐かないので、今度は胸に手を当てて肺に圧力を掛け、空気を搾り出す。すると、再び大きくがーーーっつ、と息をしたように見える。しかし、貧爾は自力では何もしない。ストローで空気を送る。胸を圧す。これを何度も繰り返すが、貧爾が反応しなくなる。命が遠ざかって行くような気がする。心臓を触って見る。鼓動が感じられる。頑張っているのだ。なんとかこの虐げられた肉体を保とうと、懸命に動いているのだ。何と健気な心臓だろう。私は貧爾に声援を送った。頑張れ!頑張れ!もう一度蘇れ!地獄を三度見た猫の息子!

 あぁ、しかし、十分後には心臓も止まった。完全に止まってしまった。緊張して強張っていた体は、私が押し続けたせいか、柔らかくなっていた。鬼のように恐ろし気な形相も、すっかり和らいで、永久の眠りにつく安らかな顔になっていた。

 この小さな肉体が、これだけ懸命に生きようとする姿を見ることは、私に命と言うものを考え直させずにはおかなかった。自分だけの命を考えてはならない。瞬間だけの命などを前提に生きてはならない。

*     *     *     *     *     *     *

 貧爾の思い出のために、縫いぐるみの犬シンノスケをピアノの上に置いた。このパンダのような犬の縫いぐるみは、貧爾が家に連れてこられてから間もない頃、兄弟代わりにして遊んでいた相手なのである。喧嘩の練習のために、貧爾はこの自分と同じ大きさの犬に向かってゆき、爪を引っ掛けたり、咬みついたり、蹴ったりし、さんざん乱暴を働いたものである。その可愛い姿が、我が家の写真家である妻によって、しっかりと納められている。シンノスケはほんの十五センチの高さしかない。耳の先端まで入れると十八センチ位。貧爾は可也真剣に勝負を挑んでいた。

 シンノスケは薄汚れているが、貧爾の蹴りを食った後は、どこにも残っていないところをみると、なかなか侮りがたい相手だったのかもしれない。子猫の蹴りなど所詮知れたものだったのか。

※上の写真は、外に居て人を近づけなかった貧爾を、私がやっとのことで落ち着かせて両手に入れて家の中に運び込んで来た時の写真。眼にヤニのようなものが付いていたので、盲目の猫かもしれない、と母が言っていたので、妻と「いよいよ哀れな猫だね」と話していたが、ちり紙で眼の汚れを擦り取ると、眼が明いた。

「貧爾手帳-その8」で紹介した2枚は、まだ警戒中で、近付くと威嚇する状態。この段階で既に眼が明いているので、盲目ではないことが分かる。

※二枚目の写真は、新参者の貧爾に優しく接する虎次郎。彼はいつも優しかった、と妻が懐かしむ。


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貧爾手帳 - その8 [詩・散文詩]

where is mom.JPG 夏の空 

夏の空は淋しい

白っぽい青空に霞んだような千切れ雲が

それこそゆっくりと移動してゆくのだから

もう赤蜻蛉が飛んでいるのだろうか

向こうのグラウンドの日向には、右へ、左へ、平行移動する虫が飛んでいるのが見える

給水塔も強い西日を受けて立っている

その姿は

海辺で恋人達がやって来る日を

永遠に待ち続ける漁師のようだ

丘の上を通り過ぎてゆく西風は

夏の日の思い出を一層虚しくしてくれる

何も考えぬことの方が、何か悪事を企むよりはよい

椅子に寝そべってプラタナスの梢を見上げると

水底を覗いているような気分になれる

幹から幹へ蝉が移るのが見える

呼吸するかのように大枝が揺れる

昔私は草原に寝転がり大空を見上げたことがあった

名状しがたい淋しさがあった

決して手に入れることのできない

万物を拒絶する 絶対的な力を持った何かがあった

(チャイムが五時になったことを告げた)

子供の頃、私は父や母の時代を私の時代として共有することを望んだ

親の経験は私のものでなければならなかった

共有できないと言うことは、両親の体験から切り離されてしまっていると言うことだった

 

そして、今、私は妻と時間を共有することを求めている

一緒に生活しているだけでは十分ではない

話をするだけでは十分ではない

買い物を一緒にするだけでも十分ではない

大切なことは、彼女と言う存在の重みを知り

妻と言う存在を命と同じくらいひたむきに守ることだ

 

思い出を作ってくれる夏

それは淋しい

が、同時に思い出を思い出す夏は楽しい

白い雲は何処へ飛んで行くのか

いつかどこかで見たことのあるような雲は

いつかどこかへ飛んで行く

 

翼を広げた丹頂鶴を思い出させるヒマラヤ杉は

日向に仲良く三本で立ち

出番を待つ踊り子達のように見える

 

いつの日かやって来ることを信じて

その少女が自分の作った城に花嫁衣裳を着て

男はその亡霊のような城を作ったのだった

まるで砂上の楼閣のような小さな城を

城には全てが揃っていた

厨房、浴室、居間、広間、寝室、書斎、図書室、倉庫、犬小屋、厩舎、水族館、鳥小屋、地下室、地下牢、独房、礼拝堂、厠、子供部屋、撞球室、車庫、衣裳部屋、天体観測部屋、貯蔵庫、中庭、柱廊、小劇場・・・

あぁ、しかし、花嫁はやって来なかった

どこかの名士の金満家に嫁いでしまったのだった

その知らせを聞いた時、彼は動じなかった

僕には理想の(ひと)がいるのだから

現実の女を想うのは気違い沙汰だと言って

彼はその小さな城の管理人になった

鍵を持って部屋、部屋を見回るのが彼の仕事だった

彼はこの仕事を始めて

すっかりこの仕事が気に入ってしまった

特大の名刺を作って知人友人に配ることにしたのだったが

しかし、

名刺をデザインする前、印刷する前、と言うよりも

思いついたその日

即ち結婚の知らせを聞いたその日

彼の体は海中を漂ってしまっていた

海の青さと空の青さ

どちらが本当に青いの、と尋ねた音楽家がいたっけ

勿論空の青だね

だって空は暗黒で出来ているから

海はかないっこないって、クラムボンが言っていたよ

その青い海と磯で作られる白い漣

だから夏の空は淋しいんですよ

(狼のようなシベリアンハスキーが水飲み場に連れてこられた

捻られた蛇口から水を飲む。

蛇口に咬みつくかのように口を近づけて水を飲む。

パシャッ、パシャッと大きな音を立てて水を飲む。)

 

*     *     *     *     *     *     *

 

十九時零分

 

感ずることのあまりに新鮮にすぎるとき

それをがいねん化することは

きちがひにならないための

生物体の一つの自衛作用だけれども

いつまでもまもってばかりてはいけない

(宮沢賢治:『青森挽歌』より 第二巻百九十九頁)

 

二〇〇二年八月十四日 水曜日 二十一時五十五分

 

一昨日は朝食に紫芋と米の残りで雑炊を作って食べた。とにかく食欲が無くなった。

 そして昨日はコップ半分のジュースを午前九時頃に飲んだ後、珈琲牛乳を作ったが、コップの五分の一ほど飲んでから、夜まで全く何も口にする気がしなかった。

*     *     *     *     *     *     *

 胸が抉られるようだという表現があるが、私はこれは実際に思い出と言う記憶が抉り取られるのだから、そんな風に感じるのだと思う。

*     *     *     *     *     *     *

 一寸前に『永訣の朝』を書き始めたが、どうも思っていたよりも遥かに悲しい曲になってしまった。ピアノで弾いてみたのとは全く違うものをパソコンでは書き始めてしまうのだ。何故だろう。私の頭の中ではピアノの鍵盤で弾くのとは異なる音が出てくる、要求してくるのである。だから私はパソコン無しには作曲することが出来ない。

 そもそも、猫が人間のように手足を投げ出して寝ること自体が不自然なのだ。貧爾は本当に、身体全体が疲れ切っていたのだ。この疲労と痛みと呼吸困難から解放されたかったのだ。我々はそれを見て、送り出してやらなければならない義務があるのだ。

 一番の供養は、いつも覚えていること、頻繁に思い出すことだ、と私は妻に何度も言った。だから私たち夫婦は貧爾たちの写真を焼き増しすることにした。そして身近なところに飾っておけば、すぐに思い出すことができるから。

  

lonely hinji.JPG二〇〇二年八月十五日 木曜日 十九時三十五分 晴天

 

今日は散髪のため床屋改めカットブレイク×××に行った。昨日は休みだったので、もう一度行ってみたのだ。今日は青赤白三色の看板が回転していた。

 店のご主人は、五十年前に一年半ボクシングジムに通っていたことがあった。その頃ピストン堀口、沢田などのプロボクサーたちが有名だったようだ。堀口は七人のヤクザに絡まれて、七発で全員を打ち倒した、と言う武勇伝が伝わっていたそうだ。ヤクザたちは相手がピストン堀口であることを知らなかった。堀口はプロボクサーで東アジア地区王者だったので、相手が素手で掛かってくるなら殴らせておこうと思っていた。しかし、ドスを抜いて掛かって来たのでやむをえず鉄拳を使わざるをえなかった。そして七人のごろつきどもを一発ずつで沈めてしまったのだった。相手はヤクザとは言っても、ボクサーからしてみれば素人だから、隙だらけさ、と床屋の主人は痛快そうに言った。

 このご主人も熊襲のような酔った大男を倒したことがあった。横浜で働いている頃、この熊襲がサラリーマンの男に因縁をつけているところを目撃した。この熊襲は相手が詫びているのに、更に言いがかりをつけて、金を巻き上げようとした。そこで我らが青年は止めに入った。すると、熊襲は青年の胸倉を掴んだ。そこでご主人は一発脇腹にお見舞いしてやった。相手は苦しさに蹲った。「だってさ、相手は素人だもん。隙だらけさ。打つ時は腹は正面じゃなくって、脇が効くんだよ。ここをやられちゃうと息ができなくなるもの。俺も練習中喰らったことあるけど、苦しいよ。息できねぇもの。でもさ、アッパーカットはもっとすごいよ。ここんとこ(と顎の下を指して)こうやって入れると、すぐ伸びちゃうよ。」床屋のご主人の話は体験談なので面白い。ロードワークでは二時間ほど汗を流し体重を減らすのがきつかったそうだ。伊勢佐木町、長者町、曙町、三ノ宮、二ノ宮をぐるりと回った。

 ご主人がポツリと言った。「チビ死んじゃったのよ。いないでしょう?」

「どうしたんですか。」

「実は、乳癌だったんですよ。雌犬なんだけど、子供を産まないと、乳が張って乳癌になることがあるらしいんですよ。」

「人間もそうだって言いますよね。最近新聞にも出ていましたけど。」

「そうなのよ。やっぱし。人間も母乳で育てないとね。あの、ミルクみたいの飲んじゃうとね・・・七月十四日に死んじゃった。」

 シェットランドシープドッグのチビちゃんは、七月十四日の午後八時五十分に永眠した。七月七日生まれのチビちゃんは十三才だった。

 七月初めに毛が伸びて暑いから、少し切りに行こうとペット用の美容院へ連れて行った。そうしたら脇のところにしこりがあるので、これを獣医さんに看てもらってから、毛の方は切りましょうかと言うことになった。医師の所へ連れて行くと、これは癌だと言われてしまった。犬は癌になると早いので、余りもたないと言われた。美味しいものを食べさせてやろうと言うことで、ビーバートザンへ行って美味しそうな缶詰を六個買った。しかし、一缶の途中までしか食べることはなかった。

 医師の言葉通り、あっという間に癌は広がり、もう命は幾許もないと宣告された。いつも通り、ご主人は八時半に店を閉めてしまうと、「じゃぁ、チビ、散歩に行こうか。」と言っていつもの道を歩いた。二十分も歩くと、チビが突然苦しがったので、慌てて抱いて店の中に運び込んだ。既に瞳孔が開いてしまっていた。息子さんと二人で胸部を圧したり、口から息を吹き込んだりしたが、変化がなかった。しかし諦めず、近くの獣医さんに、まだ呼吸しているみたいなので来て貰えないかと頼むと、直ぐに来てくれた。しかし、既に呼吸も心臓も止まっていた。医者は言った。「よく二十分も散歩できましたね。」それほどチビは衰弱していた筈なのに、無理を押して最期の瞬間をご主人と一緒に過ごしたのだった。苦しがるかもしれないと言う医師の言葉に反して、殆どくるしまずにご主人と息子さんに看取られて死ぬことができた。

 チビちゃんが死んでしまったので、荼毘に付した。「他の犬と一緒に焼くと安くなりますが・・」と案内されたが、チビちゃんの骨が分からなくなってはいけないので、一頭だけ別に焼いてもらうことにした。骨壷に骨全てを納めてもらって持ち帰った。

 ご主人は毎日、朝は水と餌を霊前に供えて「おはよう、チビ!」と声を掛ける。仕事が終わると「おやすみ、チビ!」と言う。

 チビはこの家の人々と自分との関係を作り上げていた。一番のボスは息子さんで、ご主人は母親的な存在。他はチビちゃんの目下の存在だった。だから、孫娘のえり子ちゃんなどには偉そうに吠えたりしたそうだ。生後一ヵ月半でこの家に来て、一匹で箱の中に置いておくと、恐がって泣叫んだので、三日間ほどご主人が懐に入れて眠ったそうだ。それでご主人のことを母親のように慕っていた。息子さんの方は、粗相をした後に、新聞紙を丸めて叩いたりしたものだから、すっかり怯えて、従うようになった。そして、困るとご主人の所へ逃げて来る犬だった。

「あんまり泣かねぇんだけど、俺泣いちゃったよ。おふくろが死んだ時と、これで二度目だね。やっぱりこれだけ懐いているとね。あれからもう一ヶ月だね。」

 先日、霊感の強いと言う小学生が散髪にやって来た。そして散髪台の上に乗ってから

「あっ、そこにチビいるね!」と台の脇を差した。そして

「あっ。今度は入り口の窓のところへ行った。」続いて

「今度は奥へ行った。」と言った。これはご主人が「チビは死んじゃったんだよ。」と言う前のことである。何故少年にチビが見えたのかは分からない。母親は「この子は霊感が強いので気味が悪いんですよ。」とご主人に言ったそうである。

 いずれにせよ、動物も死後、魂が残っている、彷徨していると考えると嬉しくなる。少年はチビがいつもやっていた生活通りの像を彼の頭の中ではっきりと見ていたようである。

 私はこの話は、きっと妻に話しておきますよと約束した。貧爾の魂もまだこの家にいることを、チビちゃんが証明したことで裏付けたいと思うのだ。

 

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貧爾手帳 - その7 [詩・散文詩]

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貧爾と妻 二〇〇二年八月十四日 水曜日

 

貧爾は妻にとっては息子でした。手のかかる面倒ばかり掛ける子供でした。特に昨年は大変な年でした。何を思ったのか、マーキングを始めたのです。尻尾を垂直に立てて、お尻を標的に向けると、水鉄砲のように放尿するのです。カーテンにも机の脚にも、段ボール箱にも、そしてある時はセーターを着て彼を抱っこしている私の胸にも、黄金の生暖かい液体を放射するのでした。そして何を思ったのか、玄関を厠と心得て、靴やサンダルの上で小用を足す癖すら身に付けてしまったのです。

寅次郎と一緒に生まれた桃子が、何故か風呂場の足拭きを厠としていて、しばしば小水をその上でする癖がありました。私はこの桃子に対して、よく腹を立て怒鳴ったものでした。しかし、この桃子の癖は、せっかくおまるで用を足すのですが、最近お尻が外にはみ出してしまう次郎に比べれば遥かにましでした。次郎はおまるの外に糞や小水をしてしまうので、それを片付けるのは結構面倒です。気づくのが遅れると床はすっかり水浸しになっています。床のフローリングが剥げたのも、次郎が一部原因だと思います。

 この貧爾のとんでもないマーキング癖が付いてから、妻の不眠はいよいよ酷くなり始めました。なにしろ貧爾が矢庭に立ち上がって鳴こうものなら、これは集中豪雨注意報なのですから。時には鳴かないで、トイレの猫砂を掻く仕草でザッザッザッザッと床やら、芝居のチラシなどが散乱している場所を掻き始めることもあります。こういう時は警戒警報発令時で、すぐさま措置を講じなければなりません。貧爾を抱き上げて、おまるに連れて行くのです。そこで彼は不本意ながら用を足す、と言う図式になっているのです。

 とにかく至る所青山あり、ではなく、警戒警報が発令されてしまうので、臭い或いは色を付けられて困るものには、防衛が必要になりました。妻はパソコンやプリンターやスキャナーを、全て段ボールの鞘を作って守ります。唯でさえ整理整頓の出来ていない我が家は、貧爾君の御蔭でますます倉庫か物置の様相を呈してきたのであります。

 

 踊りのパフォーマンスの練習に行っていた妻に、私は電話を掛けました。貧爾が死んでしまったことを告げるために。でも予想通り、妻は携帯電話を留守電にしていましたので、私は用件だけ残しました。「直哉だけど、貧爾、死んじゃったよ・・・」と。私は万感が胸に溢れ、もう何も言うことができず、すぐに電話を切りました。

 夕方、貧爾のために刺身を買って帰ってきた妻は、貧爾の亡骸を見ると駆け寄り、声を上げて泣きました。「医者に連れて行って御免ね。あんなに大量に輸液したから苦しかったんだね。だから早く死んじゃったんだね。」と言いながら。私は妻に言いました。「医者に連れて行ったのは決して間違っていない。連れて行かなければ、今朝あのまま死んでしまっていたかもしれないんだから。行ったから、午後二時まで頑張ることができたんだから。君の選択は間違っていない。正しい。自分を責めてはいけない。」私は妻の姿をじっと見守っていました。とにかく、今はこの貧爾の死を悲しむことが一番大事なのだと自分に言い聞かせながら。

 妻と私は貧爾の身体をシャンプーで洗うことにしました。尿で汚れた体を元通りの美男子に戻す義務が私たちにはあるからです。風呂場まで、硬直した体の貧爾を両手に捧げて連れて行きました。香りの良いシャンプーを選ぶと、妻と私は痩せ細った貧爾の身体を洗い始めました。最初は少々控えめに。あとは大胆に。あぁ、しかし、黄疸の出ている肌の色は元には戻らないし、屎尿と涎に塗れた足と下腹部の毛は、いっかな元の美しさに戻りませんでした。それでも尿の臭いが発散していた身体はみるみるシャンプーの香りとなって、すっかり愛らしい貧爾君になりました。

 乾いたタオルで水を拭きます。それでも湿った毛が体中に密着していて、いかにも濡れ鼠のようです。

 風呂場から居間へ戻すと、妻はヘアードライアーを、私は地下室の奥にしまってある旧式の扇風機を取ってきます。羽に埃を被っている扇風機を濡れた布で拭いてから、私は風を送ります。濡れた身体から乾いた布やちり紙で水分を取っていると、いつもの柔らかい毛が戻ってきました。すっかり美男子が戻ってきましたとも。

 妻は「どこに置こうか?」と言います。私はパソコンの置いてある机を指したのですが、妻は「そこはこれから作業があるから・・・」と言いました。私は私たちが食卓として使っている台の上を片付けました。発泡スチロールの箱(これには妻が北海道で知り合った人が送ってくれた鮭が入っていました)を本棚の上から下ろすと、妻は汚れていると言って、すぐに風呂場へ洗いに行きます。この箱の中に貧爾を寝かすことにしました。

 私は宗太郎の時にもそうしたように、ピアノを弾きに地下の書斎へ降りました。シューマンの『森の情景』の終曲『別れ』を弾くためです。この曲は決して淋しくないのですが、どこか夢見るようで、美しいもの、名残惜しいものとの別れには、とても相応しいように思われるのです。

 楽譜を取り出すと、私はゆっくりと弾き始めました。Abschied AdieuそれとADIEMUSの“Beyond the century”も。病弱だった貧爾は二十一世紀まで生きられないのではないかと、私は心配していたのでしたが、その強い生命力で二十世紀を越えて生き延びてくれたのです。その生命に感謝をしながら。

貧爾の葬式

 

すっかりきれいになった貧爾は発泡スチロールの台の上に、敷布に包まれて眠っています。その貧爾は二階でご本尊様の右側に置かれています。その貧爾を妻がお経を読んで、一心に冥福をお祈りしています。

 妻は私に、貧爾のために題目三唱して欲しいと言いました。私はその言葉に従い、小さな小さな声で南無妙法蓮華経と唱えました。

 宗太郎の時も、桃子の時も妻は一人でお葬式をしました。桃子の時など、亡骸を抱いて庭の中を一緒に散歩しました。なにしろ、桃子は家猫だった梅子と仲が悪くなり、外猫になってしまって、冬でも外で暮らしていたのです。だから大好きな庭をぐるりと一巡してやったのです。私には桃子の時や宗太郎の時には、妻の寂しさが十分に分かりませんでした。私も多少悲しくて涙が出たのですが、妻の気持ちは十分には分かっていなかったのです。が、貧爾という猫が居なくなることになってみて初めて、私は妻の優しさ、大きさが分かりました。こんなに悲しいものだったとは、などと思っている私などよりも、妻の悲しみはもっと大きいのです。もっともっと遥かに大きいのです。その悲しみの大きさと優しさの大きさを私は貧爾の死を通して知ったのです。

 

二〇〇二年八月十四日 水曜日 十四時五十八分 晴れ

 

今日も暑い日になっている。私は、貧爾のお墓を掘っていた。十分ずつ位掘って、間に三十分休憩を取った。なにしろ酷い陽射しなので、日射病になってはいけないと、それなりに気をつけているのである。

墓地は、欅の幹で作られたテーブルが置いてある場所で、樹木の傍である。そこは貧爾が私たち夫婦の所へ初めて現れた方角である。出来るだけ西方浄土に近い西側が言いと思っていたので、私は妻のこの提案に大賛成だった。

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 十六時過ぎ

 

平尾の公園にて。鈴懸の大木の葉を、心地よい夏風がざわめかせる。人が殆どいない公園では鳩たちが七羽ほど地面を歩き回りながら餌を探している。

 今日は散髪をする計画だったのだが、すっかり予定が狂ってしまった。十二日から十四日まで休業だったのだ。そんな気もしたのだったが、掛けようとした電話の一本も掛けなかった私自身が作り出した失敗である。しかし、休みであるような予感もあったので、その時はその時で、と考えていた。だから実のところ、この公園に来ることは予定通りの行動なのである。

 最近はどこもかしこも樹を伐ったり、根を抜いたり、草を刈ったりばかりしているので、虫達も随分棲みづらくなった。幸い、この公園には何十本或いは数百本の樹が植わっているので、虫達も元気だ。喧しいほど蝉たちが夏を謳歌している。油蝉もツクツクホウシもミンミンゼミも鳴いている。

 一羽の鳩がカワワワワワワワと羽で風を切りながら、低空飛行をして公園の向かい側の樹木の方へ飛んで行く。

 団地のビルの屋上に、一つ衛星放送用のアンテナが見える。あれが形だけで実のところ何の映像も受信することのない無用の長物だったら、あのアンテナの所有者は相当に愉快な人に違いないだろう。ロールスロイスのような不経済で尚且つ多くの排気ガスを吐く公害車を所有していて、実際は水槽としてメダカやら鯉を飼っているのだったら、それもなかなかのものだと思う。帯広で催されている展覧会で、中国の芸術家が、巨大テントに火薬の帯を幾条も張って、火をつけて喜んでいるらしいが、私は芸術というものも、環境に全く配慮しないようなこんな作品は許せない、と思うようになっている。

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貧爾手帳 - その6 [詩・散文詩]

Hinji & I.JPG二〇〇二年八月十三日 火曜日 十六時五分

 

妻が電話を掛けてきた。私の残しておいた留守電を聴いて掛けてきたのだ。悲しみが再び訪れる。私はこれから貧爾のことを思い出して、何度涙するのだろう。私はこういう悲しみはそんなに多くない方が仕合せだと思う。が、こんなに私が悲しく感じられるほど貧爾のことを愛していたことを知って嬉しく思う。

 この子は病弱だった。そうでなければ相当な悪(わる)になっていたに違いない。

 ふと目をやると、貧爾の腹が微かに呼吸をして波打っているように見える。錯覚かもしれないが、何故だろう。呼吸も荒くなく、安らかに眠っているように見える。

 (「貧爾と私 その1」は初回に公開しているので、その2から)  貧爾と私 その二

 

我が家の猫はピアノの音を聞くと驚き逃げるのが今まで普通だった。しかし、貧爾は私の子供だけあって、ピアノを私が弾いてもピアノの上にいたり、机の上にいたりして、ゆったりと寛いでいた。妻が貧爾のために曲を書いてよと言っていたのだったが、私は他の曲ばかり書いていて、まだ着手していなかった。だから私は、この音楽家猫に相応しい特別な曲を捧げたいと思うのだ。

 まずは『永訣の朝』の読み方、意味を教えてくれた貧爾に捧げる曲として、『永訣の朝』

を完成させたい。この曲は高校生の頃にハミングしながら旋律をつけていたら、父が「N、泣いているのか?」と尋ねられた曲だ。伴奏なしに歌だけ歌っていると、哀しくなる曲。途中で放置していてあったものだが、ギターの伴奏とクラリネットで書き上げてみよう。

  貧爾と私 その三 八月十三日 十七時十分 

 

猫には魂があるのかしらん。人間にはどうなのか。僕は魂があることにしておきたい。そうすれば、僕達は再び死後の世界で再会できるからだ。尤も、もしそうだとしたら、会いたくない魂にも会わなければならない理屈なのだが。でも、それでも貧爾の魂に僕の死後再会できたら、そりゃぁ嬉しいだろうさ。とは言うものの、貧爾君の放尿癖は困ったものだが、それが生きていると言うこと、存在していると言う証なのだから仕方ありません。

 世の中には犬死と言われる死に方をした人々もいます。横死、変死、客死、夭折などと言うことばもあります。家族に看取られずに、淋しい思いをしながら、恐ろしい思いをしながら、悔しい思いをしながら死んでゆく命たちも無数にあります。二〇〇一年九月十一日のワールド貿易センターの崩落によって多くの人々が亡くなりました。四千人を超えていました。その報復攻撃で、アフガニスタンの一般市民たちも殺されました。淋しすぎる死、口惜しすぎる死から見れば、苦しみを伴っても、平和な死の方が悲しみが少ないのでしょうか。いえ、そうではありません。平和に於ける死は、死そのものを悲しみとして、その対象として見ることができるのですが、戦争や事故に於ける死は、死そのものよりも、その背景の方が人々のより多くの関心事となるのです。

 

貧爾と私 その四 十七時十八分

 貧爾は私たち夫婦が仲良く話をしていると、その間に入ってくると言う癖がありました。夫婦仲良くしていることに貧爾は安心を見出したのでしょう。そう言えば、次郎は一時期私を恐れ逃げてばかりいましたが、私と妻の仲が元に戻り始めると、徐々に私にも甘えるようになりました。猫と言うのは斯様に鋭い観察者なのです。彼らは我々が気にも留めずにいる些細な事柄でも、本質的なことはしっかりと理解しているのです。そして本能的に行動して私たちの目を覚まさせてくれるのです。

 貧爾は私たち夫婦の子供のような存在でした。(ふと見やると、貧爾の腹が、呼吸をしているように見えます。でもそれは錯覚にすぎません。)

 妻は貧爾のことをLeonardo da Hinjiと呼びました。Leoが獅子なので、 a lion rampantの印象もぴったりな訳です。

 

 貧爾と私 その五 十七時三十三分

 

子猫だった頃、貧爾はよくじゃれつきました。なにしろ母親に狩りを習ったことがないので、手加減というものを知りません。子猫に真剣にじゃれつかれ咬みつかれた私の手は、蚯蚓脹れがいつもついていました。私たちが母親代わりだったのですから・・・

 二階の箪笥には一時期寝台用のマットレスが立て掛けてあったのですが、それがちょっとした城壁のような楽しい空間を作り出していました。箪笥の側に入ると城壁の中に入ったようになり、外に出ると、城壁を外から攻撃するような具合になる訳です。私はマットレスの峰から見下ろして、壁の中に紐を入れたり、外に出したりするのです。出来るだけ鼠などが逃げる様を想像しながら、紐を壁伝いに素早く動かしたり、フェイントを使って方向転換したりして。これはなかなか興奮する狩猟ごっこです。貧爾は紐に噛り付くのですから、こちらも鬼ごっこしている子供のように真剣です。つかまってはいけない、と真剣に逃げ回ります。

 元気の良い頃、貧爾は私が二階に上がると、嬉しそうに駆け上がってきて、私が隠れん坊を始めるのを、箪笥の隅から様子を窺って待機しているのでした。こんな可愛い様子で待たれては、私だって遊ばない訳にはゆきません。出社前のほんの五分ほど、私は貧爾と遊んだものでした。

 でも、いつの日か、野良猫にうつされた猫エイズのために、この元気な貧爾はどこかへ行ってしまい、憂鬱で不機嫌な貧爾になってしまいました。私がベルトの端や紐を振って見せても、もう貧爾はあの輝いた目をした姿を見せてくれないのでした。病気と言うものはこんな風に生命を蝕むものなのです。私は私が二階に上がると着いて来る貧爾が、段々唯私の方を見ているだけになってしまったのを覚えています。何ともいえない物悲しさ、寂しさにとらわれたものです。

*上のボールペンによるスケッチは、SINLOIHIのスイセイカラーで描いた『貧爾と私』の元にした画です。よくこうやって抱っこしたものです。

 

 


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貧爾手帳 - その5 [詩・散文詩]

hinji1.JPG二〇〇二年八月十三日 火曜日 十時五十分

 

たった今、貧爾は動物病院へ連れて行かれた。

 

昨晩は、結局のところ、起き上がれないので、貧爾は合計三回尿をもらした。妻も私も、添い寝していても、時々苦しそうに詰まった鼻と口から音を立てるので、その度に急いで起きて、紙で拭き取る。心拍数は百三十以上ではないかと思う。寅次郎の脇に指を入れて、猫の脈拍はどの程度のものなのかを調べようとするが、そもそも猫の鼓動はそれほど大きくないので、全く分からない。

この暑い日に、と言っても気温は三十度だが、寅次郎は日向ぼっこをしに、ガラス戸とカーテンの間に入り込んで行く。

昨日、私は貧爾は一日しか持たないだろうと信じた。それほど衰弱して見えたのだった。しかし、不死身、不死鳥の貧爾君は、苦しみながらも呼吸をして、心臓は破れんばかりに動いて血液を循環させている。いよいよ体重は減り、骨が目立つ。今は写生ではなく思い出しながら描いている。寝相を変える時が辛そうだ。

私の体には貧爾の醸し出すもろもろの臭いが染み付いている。鼻にも臭いの記憶が残っている位だ。

*    *    *    *    *    *

住民票コード通知票が届いた。新聞を賑わせている住民基本台帳だ。導入を見合わせる自治体もあるのに、川崎市では諾々として国の決定に従うのだ。

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十二時五十七分

 

(多分一時間ほど前に、貧爾は病院から帰ってきていた。病院に貧爾を連れていった後、妻は舞踏発表の本番に備えて稽古場に出掛けて行った。)

貧爾の呼吸が小刻みで、荒々しくなっている。時々長距離を走る時に、一定のリズムが出来た後にやるように深呼吸をする。

 

十三時三十五分

 

貧爾は更に大きな吐息を時々つくようになった。呼吸が苦しいのか、何度か寝返りを打つ。息は荒い。足が痙攣するように動く。あれだけ律動的に動いていた尻尾も動かなくなってしまった。

 

十三時三十八分

 

呼吸が激しくなっている。昨夕と比べると、五倍位の速さで、マラソンでもしているかのようだ。彼は、今、生きるためにやれるだけの努力をしているのだ。

 

八月十三日 火曜日 十四時十五分

 

呼吸停止。

 

十四時二十五分

 

心臓停止。永眠。

 

十四時三十三分

 

肩や頬、耳などが小刻みに動く。蘇生したのかと喜ぶ。

が、もう鼓動は指に伝わってこない。

 

P1010003.JPG十四時四十五分 貧爾君と私

今、私の隣にa lion rampantのような格好をして横たわっているのは、私の大好きな貧爾君です。私は彼が私のいないところや知らないところでこっそりと死んでしまうのが耐えられなかったので、今仕合せです。なにしろ、貧爾君が喉を詰まらせて苦しみにもがいていた時、私はその様子を見ていて、すぐに涎を拭いたり、口の中に空気を吹き込んだり、心臓の辺りを手で圧したりすることが出来ました。私が手でぐいぐいと何度も圧すと、貧爾君は三回位大きな息をつきました。でも、詰まった痰を切ることは出来ませんでした。結局は窒息死なのでしょう。でも、私は貧爾君が最後の最後まで必死に生きようとする姿を見て、私もきっとそうしなければならない、そうしようと思いました。

貧爾君は私に『永訣の朝』の読み方を教えてくれました。大切なもの、大事すぎるものが、自分とは別の世界へ、後で再会するのは分かっているのですが、行ってしまう辛さ苦しさ悲しみを、この小さな体で教えてくれたのです。

このところ詩は書かずにいたのですが、貧爾君の死を目の当たりにすることによって、この手帳の後半全部を貧爾君に捧げる詩を書こうと思いつきました。実は昨晩から徐々に書かねばならないと感じ始めてはいたことなのですが、やはり永眠してしまうと、感じではなく、現実の仕事として捉えられることになります。

構成はどうしようか、などと当然ながら考えます。まずは、心に浮かぶ思い出の全てを出来るだけ細かく記しておくことです。そうすれば、後でいくらでも推敲できますからね。

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 昨日、私は貧爾に付き添っていることに決めてから、妻が帰ってくるまで五時間半以上貧爾と一緒にいた。

私には、先週入院する直前、私の肩に乗って、辛そうではありながら、頭を撫でると喉をならしていたその姿が忘れられない。私は、決して貧爾を私のいない、あるいは家の中以外では死なせたくなかった。死がもっと早く訪れてしまっていたかもしれないと何度も思った。だから、妻が夜十時過ぎに戻ってくるまで、命がもつかどうか心配で、また、私だけに見取られて死んでしまうのでは可哀相だと思うと、何度も涙が出てきた。しかし、幸い、「地獄を三度見た猫(おにぎり)」の息子(柄が似ているので多分そうだと思い込んでいるのだが)だけあって、しっかりと呼吸を続けていてくれた。

 私は妻から電話が掛かってくると、大変な焦燥感に駆られた。妻も「信号のところまで行くから、出来るだけ貧爾の所に居てあげて!」と言う。しかし、私は一刻も早く妻を連れ戻したいので焦る。十時四十五分新百合ヶ丘発に乗ると言うことなので、十時四十四分に自転車に乗って駅へ向かった。私の気持ちが焦っているからだろうか、電車の到着よりも早く駅に着いてしまった。

 買い物袋二つを、妻から奪うように取ると、私は彼女に自転車の鍵を渡して、早足で家へ向かう。最後の五十メートルは小走りになった。もしかして、たった十五分間の間に異常が起きたらと思ったのだ。家の鍵を妻に渡し、私は自転車を片付けた。早く妻を貧爾に会わせたかったからだ、一刻でも。貧爾は私たちの子供のようなものなので、両親が揃っていれば勇気百倍、元気が出るに決まっていると踏んでいたのだ。

 効果はさほどではなかったが、なによりも瀕死の貧爾に妻がまた会えたことが私には何よりも嬉しかった。もう歩く力も残っていない貧爾に。妻は鮪の刺身を買ってきて食べさせようとした。しかし、もう貧爾の体は固形物を受け付けないようだった。

 刺身と言うと、私が後悔していることがある。先週、貧爾がもっとずっと元気だった時、貧爾は鰤か何か脂っぽい焼き魚を欲しがった。しかし、獣医からは腎臓の負担になるので、乾燥餌以外には食べさせないように注意されていた。貧爾はまずい乾燥餌や栄養剤しか与えられていなかったので、珍しく空中に鼻先を突き出し、その焼き魚を欲しがったのだった。私は、やりたいと思い妻に二度ほど相談したが、医者から忠告されているので、止めめましょうと言うことになった。あぁ、しかし、一度、最後に一度、好きなもの、美味しいものを少しでも食べさせてやりたかった、と後悔しているのである。この決断は、命を少しでも延ばす方を選択した結果でやむをえなかったのではあるが、それでも好きなものを食べる姿を残像にしておきたかった。 

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 今年の夏休みの計画はいろいろあるが、その一つがデジタルカメラを買い、可愛い貧爾の写真を撮り、それを職場で使っているパソコンのメニュー画面の背景にしようと言うものがあった。これは、以前に描いたスケッチをそのまま画像に取り込んでもよいし、今後新たに撮るのもいいが、と思っていた。

 計画はどんどん実行に移して行かないと、やらなかったことの後悔の方が多く残るのかもしれない、大切な思い出よりも。

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 私は貧爾に救われた。妻に不実だった私は、一時妻から遠ざかろうとした。そして、一旦作られた溝はなかなか埋まることはなかった。妻と私は共通の話題を、昔のように話すことがなくなっていた。

 あぁ、そこへ、死にそうな叫び声で現れたのが貧爾だった。妻は写真の腕に磨きを掛け、美しい可愛い写真を何枚も撮った。その写真集はまるで我が家の部屋が別荘の一室であるかのように写っているのだ。私は妻には写真の才能があると思う。

 
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