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新二伯父の思い出 その3 [吉江新二の思い出]



伯父吉江新二の思い出 その三  2016/09/11  日曜日

 新二伯父が生まれたのは赤穂であった。医者だった俊夫伯父が自身の思い出を記した『満天星』の中で弟のこともあれこれ書いている。先ずは、新二と言う名の由来。

吉江新二 作品 40F 1957DSCN3109.JPG「僕が生まれたのは、伊那町(市)である。
 それから一年程して、父が母と結婚する前に下宿していた、赤穂の松屋旅館の土地を得て、我が家を建てた。その家に移って間もなく、弟が生まれた。新二とは、新しい家での二男と言う意味である。以来、双生児の様にして育ち、親密な、心の通った、彼との人生が今日まで続いている。「二人で育った我が家」と云うイメージも、この赤穂の家を舞台とした幼時が中心となっている。」


 新二伯父は子供時代どのような少年だったか。


 「活発な新二はちょこちょこ歩き廻って、父とパートを組んでいた三井さんのラケットで、顔を打たれて鼻血を出したことがある。
 彼は元気で人見知りせず、父の仲間の人達にも人気があって、今日の社交性の片鱗が既にあった。」

 子供の頃どのような綽名を頂戴していたか、人にどのように思われていたのかそれを大人になってからの言動と較べてみると興味深い。左の文章を見ると、当時の少年たちがしそうな在り来たりの答えをしている新二伯父に比べ、女々しいと言われそうな答えをしている俊夫伯父の方が現在の私には共感できる。

「坊やは大きくなったら何になるの?」とは、よく大人が子供に問う言葉である。そんな時、彼は、目を輝かせ胸を張って、「陸軍大将」と言う。僕は「花を作る人になるの」なんて下を向いて小さな声で答えていた。

 伯父がナポレオンと言う綽名だったことは母から聞いて知っていたが、どこがナポレオンなのかは分からない。脚が早く、全校で一番だったようなことを聞いた。当時のオリンピック選手の名を頂戴してオーエンスと呼ばれ、リレーの選手だったということも。ジェシー・オーエンスが一九三五年のベルリン大会で優勝しているから十六才で旧制中学の時のことか。


 彼の
(あだ)名は「ナポレオン」で、ナポと呼ばれて走り廻り、僕は「一人ぼっちのキリギリス」だそうで、キリギリスと呼ばれてしょんぼりしていた。今、ナポレオンは画家になり、キリギリスは医者となっている。口の廻らなかった彼が、今は談論を好み、絵の事、政治の事なかなか理屈を並べる。口達者であった僕は、社交性に乏しく、一人俳句を作ったり、薔薇の栽培をしたりしている。人間は、大人になる迄判らないものである。

 次の茸採りの時の思い出なども、新二伯父の芸術家としての一面が現れている。赤瀬川源平が路上観察を行ったが、場所がどこであれ物の形の面白さを見いだすのは芸術家や詩人に共通の特徴だろう。
 茸(きのこ)採りに連れて行かれると、僕は一生懸命に茸を求めて歩くが、彼は茸などに目も呉れない。あっちの木の株、こっちの枝の(こぶ)と覗いて歩いて、面白い木の株などを持ち帰る

 絵については、俊夫伯父には口惜しさがこの『満天星』を書いていた五十台の頃にも残っている。

 後の話になるが、僕も学年で一番絵が上手であったが、彼の絵は全校で抜群であった。

 二人の絵が学校を代表して、学校の県展に出た事がある。それ見よと、少々得意であった僕は、その展覧会を見に来た人が、弟さんの絵の方が上手であったと、母に話しているのを聞いてがっかりした。そして僕は中学に進んでからは、意識して絵をさぼった。

今日紹介する絵は一九五七年の作品。
40F 特別な題名はなくただ『作品』である。


 



 




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伯父吉江新二の思い出 その2 [吉江新二の思い出]



伯父吉江新二の思い出 その二  2016/08/27  土曜日



 もっと早く伯父の思い出を書く積りでいたのだったが、遅くなっている。理由はその肖像画である。病床の写真を元に、二枚目のデッサンをしているのだがどうも線が気に入らないのである。伯父貴が許してくれないだろうと感じるのだ。「なんだ、こりゃあ。もっと正確な線を引かなきゃだめだろうが。土台、俺もっとハンサムだろう。大体、骨格の把握が不正確なんだよ。」等々と言われているような気がして、手が止まってしまう。ここでデッサンの絶対量の少ない私は挫けそうになるが、挫けた段階で制作の放棄になり、絶対に放棄だけはしない。諦めないで続けていると、必ずその結果案外好い作品になることを経験したからである。それもここのところ、連続して経験している。そしてそうこうしている内にデューラーの『ネーデルラント旅日記』(岩波文庫)を再開し、この本に載っている絵を見て、殴られたような気分になるが、起き上がってデッサンを続行している。

 結論から言えば、昨日デッサンについてはもう一枚新たに描き始めた。今までそこそこ時間を掛けたものに手を加えるよりも、新しい視点で描き直した方がよいと判断したのである。そして、既にかなり出来上がってデッサンの方には水彩で色をつけて、別の手法による試みをしてみることにする。小学校の頃は下絵よりも上塗りの方が得意だったので、そちらに切り替えてみた。

 吉江新二 「建物のある風景」1956DSCN3108.JPG今日ここに紹介するのは、伯父が三十七歳の頃に描いた作品『建物のある風景』。色、配色、形、線、構図など絵画にはいくつもの要素があるが、これらの使い方に自分と共通項があるかどうか、それが好き嫌いを決めるのではないか。劇団に入った時に、詩も小説も同様だったが、絵画についても全く自分独自の判断ができなかった。一緒に入社した美大の油絵科を卒業したO氏に、どのように判断したらいいのか聞いたことがあるが、彼の答えは不明瞭だった。じゃあ、誰が好きですかと言うと、レオナルド・ダ・ヴィンチ、彼のデッサンは誰にも超えられない、と言う。また、ボッティチェリのビーナスが好きだとも。高階秀爾『名画を見る眼』(岩波新書)などを読んでいた私は、絵そのものは好きなのに、美術とは何かが分からなくなっていた。自分が必ずしも好きではない画風でも名画として紹介されていたからかもしれない。伯父がどのような判断基準を自分の中に持っていたのか、聞いたことがないので不明である。完全な抽象に移行する前の、過渡期の作品のように見える。抽象絵画には二種類に分ける分類方法も可能であるように思う。一つは具象的な、具体的なものを見ながら、想像しながらその一部を強調して絵として構成してゆく。もう一つは、初めから抽象的なものを想像しながら、形や色や線、構図などを気の済むままに描いてゆくもの。この分類で考えると、この作品は前者である。

 ところで、喪主挨拶の時に伯母が語っていたことが印象的である。「あたしの大学の先生が家に来たことがあって、あたしの作品が沢山並べてあるのに、その先生彼の作品の方ばかり見ているの。あたしの方がまじめで、一生懸命勉強して、作品も作っているの。彼の方は寡作だから、あんまり描かないの。それなのに・・・」嬉しそうでもあり悔しそうでもあった。伯母も画家であり、個展も銀座などで時々行っている。最近は、絵画の平面的な表現に飽き足らず、立体的な作品も作っている。「あたし、鋸なんかも使うのよ。」楽しい女性である。


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伯父吉江新二 その1 [吉江新二の思い出]

 自分が無意識の内にも最も意識していた、影響を受けていた伯父が先週8月9日火曜日に96歳で他界した。高齢なので全く予期していなかったと言えば嘘になるが、予期したくなかった、伯父が他界するなどと言うことは考えたくもなかった。90を過ぎてからも元気に歩き回っていると聞いていたので。が、現実にはそれは不可避であり、受け入れざるをえないことであった。
My beloved Uncle Shinji 20160816DSCN3107.JPG この絵描きの新二伯父は、今年2016年の5月27日頃、腰が立たなくなり緊急入院した。一週間ほど経った6月6日の土曜日に私の両親と兄、姉、叔母、弟と私はお見舞いに行った。東京都東久留米市の滝山病院である。兄と私は電車とバスで行ったのだったが、電車の遅延もあり予定よりも30分ほど遅く着いたため、別行動をしていた両親や姉たちは見舞いを終え、食事のために料理屋へ移動してゆくところだった。急いで伯父の病室を訪れ、話し掛けた。最初ぼんやりしているようだったが、すぐに私のことを分かってくれたようで、大きく相好を崩す。が、声を発しても言葉にならず聞き取れない。それでも、私は6年前に伯父が話してくれた都立新宿高校の教え子たち、著名な音楽家二人の話をすると、本当に嬉しそうににこにこしていた。そして、話し掛けている私を、無言のまま大きな目をしっかりと見開いて、じっと見つめた。そんな伯父と私を見ていた兄が、スマートフォンで写真を撮ってくれた。もっと一緒にいたかったのだが、両親たちを待たせているので、やむを得ず、面会は短時間で切り上げることになった。
 その写真を元に、木炭と鉛筆で伯父の絵を描いてみた。こんなデッサンをするのは本当に久しぶりだ。こんな機会がなければ描いていなかったかもしれない。今回は、これを機に、伯父の肖像画を数種類描いてみたいと思っている。
 伯父は主体美術協会の創立メンバーの一人であったことがウェブを調べていて分かった。主体美術の協会の中心メンバーだとは母から聞いてはいたのだったが。私は、少しでも地位がある人間には、生来条件反射のように抵抗感を抱いてしまう傾向があるのかもしれない。今はそうでもないと思うが。毎年、主体美術展の案内ハガキが母に送られてきていたことも知っていたが、行った事は一度もない。毎年展覧会が開催されてそこに出品していると言うのは、何とも偉そうに感じた。実際を知らないからゆえの愚かな思い込みだったのだが、嗚呼、何と言う甥っ子か!?
 伯父に対しても、無意識の内にも意識しているためにだろうか、不思議な甘えのような抵抗を示してしまうのである。あえて歯向かってみる。伯父のその生き方、それは私が自分の頭で作り上げている妄想にすぎないかもしれないが、またそれを検証しようとも考えていないが、その生き方が影響を及ぼしている、伯父から強い影響を受けていると感じる。
 残念ながら、この伯父との接点は多くはないが、それでも兄弟の中では多い方かもしれないので、覚えている限りの思い出を書いておこうと思っている。そして、都立新宿高校絵画部O.B.会の皆さんが出版して下さった『吉江新二作品集』に載っている絵も、いくつか紹介し、自分なりの感想を述べたいと思う。それは大好きだった伯父が存在したことへの感謝かもしれない。伯父には、そんなものはいらねえ、と言われそうだが。


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