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貧爾手帳 - その6 [詩・散文詩]

Hinji & I.JPG二〇〇二年八月十三日 火曜日 十六時五分

 

妻が電話を掛けてきた。私の残しておいた留守電を聴いて掛けてきたのだ。悲しみが再び訪れる。私はこれから貧爾のことを思い出して、何度涙するのだろう。私はこういう悲しみはそんなに多くない方が仕合せだと思う。が、こんなに私が悲しく感じられるほど貧爾のことを愛していたことを知って嬉しく思う。

 この子は病弱だった。そうでなければ相当な悪(わる)になっていたに違いない。

 ふと目をやると、貧爾の腹が微かに呼吸をして波打っているように見える。錯覚かもしれないが、何故だろう。呼吸も荒くなく、安らかに眠っているように見える。

 (「貧爾と私 その1」は初回に公開しているので、その2から)  貧爾と私 その二

 

我が家の猫はピアノの音を聞くと驚き逃げるのが今まで普通だった。しかし、貧爾は私の子供だけあって、ピアノを私が弾いてもピアノの上にいたり、机の上にいたりして、ゆったりと寛いでいた。妻が貧爾のために曲を書いてよと言っていたのだったが、私は他の曲ばかり書いていて、まだ着手していなかった。だから私は、この音楽家猫に相応しい特別な曲を捧げたいと思うのだ。

 まずは『永訣の朝』の読み方、意味を教えてくれた貧爾に捧げる曲として、『永訣の朝』

を完成させたい。この曲は高校生の頃にハミングしながら旋律をつけていたら、父が「N、泣いているのか?」と尋ねられた曲だ。伴奏なしに歌だけ歌っていると、哀しくなる曲。途中で放置していてあったものだが、ギターの伴奏とクラリネットで書き上げてみよう。

  貧爾と私 その三 八月十三日 十七時十分 

 

猫には魂があるのかしらん。人間にはどうなのか。僕は魂があることにしておきたい。そうすれば、僕達は再び死後の世界で再会できるからだ。尤も、もしそうだとしたら、会いたくない魂にも会わなければならない理屈なのだが。でも、それでも貧爾の魂に僕の死後再会できたら、そりゃぁ嬉しいだろうさ。とは言うものの、貧爾君の放尿癖は困ったものだが、それが生きていると言うこと、存在していると言う証なのだから仕方ありません。

 世の中には犬死と言われる死に方をした人々もいます。横死、変死、客死、夭折などと言うことばもあります。家族に看取られずに、淋しい思いをしながら、恐ろしい思いをしながら、悔しい思いをしながら死んでゆく命たちも無数にあります。二〇〇一年九月十一日のワールド貿易センターの崩落によって多くの人々が亡くなりました。四千人を超えていました。その報復攻撃で、アフガニスタンの一般市民たちも殺されました。淋しすぎる死、口惜しすぎる死から見れば、苦しみを伴っても、平和な死の方が悲しみが少ないのでしょうか。いえ、そうではありません。平和に於ける死は、死そのものを悲しみとして、その対象として見ることができるのですが、戦争や事故に於ける死は、死そのものよりも、その背景の方が人々のより多くの関心事となるのです。

 

貧爾と私 その四 十七時十八分

 貧爾は私たち夫婦が仲良く話をしていると、その間に入ってくると言う癖がありました。夫婦仲良くしていることに貧爾は安心を見出したのでしょう。そう言えば、次郎は一時期私を恐れ逃げてばかりいましたが、私と妻の仲が元に戻り始めると、徐々に私にも甘えるようになりました。猫と言うのは斯様に鋭い観察者なのです。彼らは我々が気にも留めずにいる些細な事柄でも、本質的なことはしっかりと理解しているのです。そして本能的に行動して私たちの目を覚まさせてくれるのです。

 貧爾は私たち夫婦の子供のような存在でした。(ふと見やると、貧爾の腹が、呼吸をしているように見えます。でもそれは錯覚にすぎません。)

 妻は貧爾のことをLeonardo da Hinjiと呼びました。Leoが獅子なので、 a lion rampantの印象もぴったりな訳です。

 

 貧爾と私 その五 十七時三十三分

 

子猫だった頃、貧爾はよくじゃれつきました。なにしろ母親に狩りを習ったことがないので、手加減というものを知りません。子猫に真剣にじゃれつかれ咬みつかれた私の手は、蚯蚓脹れがいつもついていました。私たちが母親代わりだったのですから・・・

 二階の箪笥には一時期寝台用のマットレスが立て掛けてあったのですが、それがちょっとした城壁のような楽しい空間を作り出していました。箪笥の側に入ると城壁の中に入ったようになり、外に出ると、城壁を外から攻撃するような具合になる訳です。私はマットレスの峰から見下ろして、壁の中に紐を入れたり、外に出したりするのです。出来るだけ鼠などが逃げる様を想像しながら、紐を壁伝いに素早く動かしたり、フェイントを使って方向転換したりして。これはなかなか興奮する狩猟ごっこです。貧爾は紐に噛り付くのですから、こちらも鬼ごっこしている子供のように真剣です。つかまってはいけない、と真剣に逃げ回ります。

 元気の良い頃、貧爾は私が二階に上がると、嬉しそうに駆け上がってきて、私が隠れん坊を始めるのを、箪笥の隅から様子を窺って待機しているのでした。こんな可愛い様子で待たれては、私だって遊ばない訳にはゆきません。出社前のほんの五分ほど、私は貧爾と遊んだものでした。

 でも、いつの日か、野良猫にうつされた猫エイズのために、この元気な貧爾はどこかへ行ってしまい、憂鬱で不機嫌な貧爾になってしまいました。私がベルトの端や紐を振って見せても、もう貧爾はあの輝いた目をした姿を見せてくれないのでした。病気と言うものはこんな風に生命を蝕むものなのです。私は私が二階に上がると着いて来る貧爾が、段々唯私の方を見ているだけになってしまったのを覚えています。何ともいえない物悲しさ、寂しさにとらわれたものです。

*上のボールペンによるスケッチは、SINLOIHIのスイセイカラーで描いた『貧爾と私』の元にした画です。よくこうやって抱っこしたものです。

 

 


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コメント 10

sig

こんばんは。
絵の抱き方は猫にとって落ち着ける抱き方のようですね。
私は猫を抱くときはいつも両腕で、背中を下にさせて船のように抱くのが好きでした。うちのねこはみんなその抱き方で育てたのですが、最近なついている野良ちゃんは、その形で抱くとすぐに降りたがります。w
by sig (2009-09-27 23:50) 

Nyandam

3記事、一気に読ませていただきました。
壮絶な最期、同じ経験をした者としては何もしてあげられない虚しさ、切なさが甦ります。
病弱でなくて悪(わる)になって居てくれた方がよほどよかったでしょう。
貧爾君はアヨアン・イゴカーさんと奥様に深く愛されて幸せに旅立ったと思います。
いろいろとしてあげられなかったこと、心残りはあっても、猫と出会って一緒に暮らし心を通わすことができた幸せは一生忘れないと思います。
by Nyandam (2009-09-29 14:50) 

すうちい

あー、愛する命の死は耐えられませんね。

子猫のあの期待する眼には抗いがたし。
by すうちい (2009-09-30 18:35) 

Page Voice

愛する動物を失った経験はわたしにはまだありません。『貧爾手帳』を読みながら、わたしは読むたびに泣いた小説、内田百閒の『ノラや』を思い出していました。
ノラの行方は最期まで知れず、そのことで文学としてははからずも幻想性を帯びたものになったようでした。
でも現実の猫の飼い主として「自分の手で最期まで」という思いは切実だろうと想像します。
イゴカーさんにめぐりあって、そして死んでいった貧爾くんは幸せだったと思います。

by Page Voice (2009-10-01 12:30) 

SAKANAKANE

軽々しくコメントの言葉が思い浮かんで来ず、まとめコメントで失礼します。
私は、まだこのような体験をしたコトが有りませんでしたが、こうして読ませて頂いて、いくらかでも疑似体験をしたような気になりました。
本当の体験をする時が来たら、きっと役に立つと思います。待ち望んではいませんが、いつ来るとも知れませんから。
by SAKANAKANE (2009-10-02 00:00) 

yakko

お早うございます。
私はペットを飼ったことがないのでここまで愛せるのか・・・と驚きと共に感動しました。アヨアン・イゴカーさんご夫妻にとって貧爾くんはお子さんそのものですね。最後の最後までとことん看取られて、貧爾くんは幸せだったと思います。うまく表現できなくてごめんなさい。
by yakko (2009-10-03 06:06) 

doudesyo

おはようございます。
当時は大変だったのでしょうけど、貧爾君から幸せをプレゼントされたんですね。またどこかで出会えるといいですね。
by doudesyo (2009-10-03 09:05) 

青い鳥

私は人間にも動物にも魂はあると考えています。
私の死後、先だったペット達が迎えに来てくれるだろうと思っています。
貧爾くん、きっとアヨアン・イゴカーさんを迎えに来てくれると思いますよ。
by 青い鳥 (2009-10-03 12:56) 

アヨアン・イゴカー

お茶屋様、sig様、kakasisannpo様、lapis様、gyaro様、タケル様、さとふみ様、mitu様、KENNY様、SILENT様、shin様、kurakichi様、チョコシナモン様、スー様、YUYA様、阿呆市様、かりん様、くーぷらん様、choro様、夢空様、ナカムラ様、ほりけん様、アリスとテレス様、toraneko-tora様、orange-beco様、penny様、Chinchiko-Papa様、mooncafe様、optimist様、kaoru様、扶侶夢舎様、ゆきねこ様、ponchi様、Nyandam様、Mineosaurus様、びくとる様、+k様、flutist様、すうちい様、くらま様、SAKANAKANE様、旅爺さん様、yann様、アマデウス様、yukitan様、pace様、リュカ様、sak様、めりっさ様、yakko様、doudesyo様、c-d-m様、青い鳥様、yuki999様 皆様 nice有難うございます。
by アヨアン・イゴカー (2009-10-04 00:53) 

アヨアン・イゴカー

sig様
猫ちゃんは抱かれるのが嫌いな子もいますが、我が家にいた猫達は皆抱っこするとごろごろ言っていました。抱き方にも幾つかあると思いますが、宗太郎君は子守のように背中に背負っても平気で寝ていました。背中が温かくて気持ちよかった。

Nyandam様
有難うございます。別れの寂しさは、やはり体験があると、きっとよくご理解頂けるのだと思います。

すうちい様
そうなんざます。
もう、猫ちゃんは飼うまいと夫婦で決めていたにも拘らず、我が家には今年からシファカと言う野良猫ちゃんが住んでいます。可愛くって、こまっちゃうの。

Page Voice様
『ノラや』ですか。未読です。以前、母が読んでいました。そのうち読んでみます。
ところで、ヤマハのMySoundですが、サービスを2009年年内に中止してしまうと言うのは残念ですね。何人もの素晴らしい人々に出会うことができたコミュニティだったのに。(H2Oさん、にょしにいさん、papanGさん、Yoshie Kubotaさん、ゆーかりさん、limepostさん・・・)その他にも素晴らしい演奏を公開されている方々もいましたのに。

SAKANAKANE様
別れは必ず訪れます。それを考えると、一体何の為に自分は生きているのだろうと思うこともあります。でも、それでいいのでしょうね。

yakko様
ペットをanimal companionと言う呼び方があったと思いますが、その考え方も一つだと思います。

doudesyo様
死んでしまってから、何度も何度も妻と話題にしてきました。思い出すことが一番大切なのだと思っています。また、会えるかもしれません。

青い鳥様
宗教と言うものは、そも、魂の存在、自己の存在の不滅を信ずることが前提になるのだろうと思います。この宇宙に存在するものは形は変わっても消滅することはありません。そして、私もそのようなものを信じたいと言う気持ちを持っております。
貧爾君にも会えるかもしれません。
by アヨアン・イゴカー (2009-10-04 01:26) 

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