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貧爾手帳 - その9 [詩・散文詩]

 

hinji in my hands.JPG二〇〇二年八月十六日 金曜日 十四時十九分 雨 

 

今は大雨が降っている。おまけに雷も鳴り響いている。それこそ昨日もそうだったのだが、この温暖化しつづける地球、その先端をゆく日本国の愚かしさを打ちのめすかのような、鬱憤を晴らすような雨が降る。

 街路樹の山帽子には水不足で枯れかけているものが何本かあったのに、一昨日と昨日は気が付いた。しかし、それらの木々の前に住んでいる住民は、山帽子が乾き渇き苦しんでいるのに気づきもしない。それでいて自分の家の庭木には水をやるのだ。我が家を飾る花には水遣りを忘れないのだ。その身勝手さを見るに見かねて、空が雨を降らしてくれたのだ。稲妻が走り、雷鳴を轟かしながら大粒の雨滴を乾ききったアスファルトや埃だらけの地面に叩きつけているのだ。一刻でも早く、この愚行が終わるように。まるで、この雨の音は、鍛冶屋の金槌のようだ。精神を叩きなおしている槌のようだ。

 西欧では大洪水が古都を襲った。プラハの町はあちこちが水の中だ。私はこの大洪水が日本ではなく西欧に起こったことは幸いであると思った。彼らは、この異常気象を早くから指摘もし、対処しようと逸早く取り組んできたからだ。いつも後塵を拝してばかりいる日本政府など、私は全く信頼していない。欧州人たちは、この異常さを体験することによって、愚かな他の国々の人々や、欲望を捨てられない傲慢な日本人たちに、あるべき姿を示してくれることだろう。日本で洪水が起こっても、治水やダム建設を推進する土建屋ばかりが、そして彼らと癒着した政治屋たちばかりが、水を得た魚のようになって喜ぶだけなのだろう。

 私は妻と何度も同じ話をする。人間は強欲で、闘争心が強く、利己的で、排他的で、およそこの宇宙にとってよいことは何も無い存在だ。しかし、他の動物はそのようなこともなく、唯自然の摂理のままに生まれ死んでゆく。その姿の何と偉大なこと。

 貧爾の死に際して、私はいくつかのことを心に誓い、妻にも宣言した。八月二十二、三日に行われる彼女のパフォーマンス公演は手伝いに行くこと。また、今まで私が一方的に下らぬと斥けてきた、夫婦一緒に旅行に行く話なども、これからは前向きに考え、海外旅行でなければ行くことにしたこと。これは彼女には言っていないことだが、私が妻のためにも作品を書き続けること。今までは自分のためだけだったのだが、これからは妻にも喜ばれることも一つの目標にすること、などだ。

 

夏の空 その二

夏の空には置き忘れてきた何かが残されている

何を残してきたのだろう

夏の陽射しは余りに強すぎるので

思い出を作るにはあんまり暑い

だから大事なことを言おうと思っていても

すっかり忘れてしまうのだ

思い出があることは確信できる。しかし、

思い出の俤が陽炎の彼方で燃えているだけだ

あの麒麟の鬣のように

大地に焼き付けられた思い出

一瞬の閃光と地獄の熱によって

写真のように焼き付けられた像

何か悲しい物語を語り聞かされた後のような

空しさが漂う

もう、命の水筒には一滴の水も入ってはいない

それを振り回しても何の変化も訪れない

遠くで女声合唱が鎮魂曲を歌っている

海の底のように静かな金曜日

縫い閉じられた瞼

あるいはこじ開けられた瞼

一体この世に幸福ということばが存在するのやら

 

一面を蔽った雨雲は

雨乞い師たちの祈祷の成果

台の上に置かれた猫の亡骸は

夏の日の思い出になることだろう

この雷雲と大雨の御蔭で

忘れない思い出になることだろう

 

君、そこをぶんぶん飛び回るのは止したまえ

眠った子が目を覚ますだろう!

 

jiro & hinji.JPG二〇〇二年八月二十一日水曜日 十二時零分 晴れ

 昨日は風が吹いて、大分涼しくなった。『永訣の朝』は昨日、相当手を加えて聞きやすくした。まとまりを持たせるために休止をいれたりcalandoを入れたり、速度調整が相当に必要だった。

 あめゆじゅとてちてけんじゃの部分が一貫性を持つために入れられているのだが、それが少々耳に付くほど反復している。

 何度も何度も聴きなおす。最終部分は長調にして「わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」が明るい未来を暗示するようにしている。

 

十二時二十分

 

また少し速度を調整した。少しずつ歌いやすくなっていると思う。書き始めは余りに暗すぎて、悲しみばかりが残る曲だったのだが、私も時と共に悲しみから解放されたのだろう。徐々に曲に明るさが戻ってきた。

*     *     *     *     *     *     *

 私は貧爾の最期をもう一度思い出して書いておかなければならない。既に一週間という時間が経過しているので、あの強烈な印象は薄れてはいるのだが。

 貧爾は肩のぼり君と呼ばれていたが、釜のぼり君とも呼ばれていた。死は突然訪れたように思われたが、既に彼は大分前から具合が悪かった。唾液が止まらなかった、と言うよりは、口内炎が出来ており、痛みのために口を閉じることが出来なかった。それでいつも口を開けていた。そのため口が可也臭かったのである。涎が糸を引く口を開けたままで、彼は電気釜の上に昇って、取っ手を前脚で抱き込んで坐っていたのである。勿論それは秋や冬の、暖が恋しくなる季節のことであった。食事の時は、貧爾君を蓋の上から降ろしてから、ご飯をよそったものである。

 あの貧爾の最期の断末魔の苦しみの姿は予想外であった。私は単に静かに息を引き取って行くだけなのだろうと思っていた。しかしそうではなく、二時十五分頃に、突然痰が絡んだようで、呼吸困難に陥り、ぐっつ、と言う音と共に大きく背中を反らせた。脚を突っ張った。舌は口の外へべろりと垂れ下がっている。目は鬼のように恐ろしい。凄い形相だ。私は慌てて、ビニール製の哺乳瓶を取ってくる。これは以前、私が貧爾に強引に水を飲ませようとした時に使ったものだ。その哺乳瓶の先には細長い円錐形のストローが付いている。その空の瓶を圧して、貧爾の口にストローの先を押し込む。空気を送り込む。少し空気が入ったか、貧爾は大きく息を吐き出す。しかし、呼吸はしていない。何度も空気を入れる。息を吐かないので、今度は胸に手を当てて肺に圧力を掛け、空気を搾り出す。すると、再び大きくがーーーっつ、と息をしたように見える。しかし、貧爾は自力では何もしない。ストローで空気を送る。胸を圧す。これを何度も繰り返すが、貧爾が反応しなくなる。命が遠ざかって行くような気がする。心臓を触って見る。鼓動が感じられる。頑張っているのだ。なんとかこの虐げられた肉体を保とうと、懸命に動いているのだ。何と健気な心臓だろう。私は貧爾に声援を送った。頑張れ!頑張れ!もう一度蘇れ!地獄を三度見た猫の息子!

 あぁ、しかし、十分後には心臓も止まった。完全に止まってしまった。緊張して強張っていた体は、私が押し続けたせいか、柔らかくなっていた。鬼のように恐ろし気な形相も、すっかり和らいで、永久の眠りにつく安らかな顔になっていた。

 この小さな肉体が、これだけ懸命に生きようとする姿を見ることは、私に命と言うものを考え直させずにはおかなかった。自分だけの命を考えてはならない。瞬間だけの命などを前提に生きてはならない。

*     *     *     *     *     *     *

 貧爾の思い出のために、縫いぐるみの犬シンノスケをピアノの上に置いた。このパンダのような犬の縫いぐるみは、貧爾が家に連れてこられてから間もない頃、兄弟代わりにして遊んでいた相手なのである。喧嘩の練習のために、貧爾はこの自分と同じ大きさの犬に向かってゆき、爪を引っ掛けたり、咬みついたり、蹴ったりし、さんざん乱暴を働いたものである。その可愛い姿が、我が家の写真家である妻によって、しっかりと納められている。シンノスケはほんの十五センチの高さしかない。耳の先端まで入れると十八センチ位。貧爾は可也真剣に勝負を挑んでいた。

 シンノスケは薄汚れているが、貧爾の蹴りを食った後は、どこにも残っていないところをみると、なかなか侮りがたい相手だったのかもしれない。子猫の蹴りなど所詮知れたものだったのか。

※上の写真は、外に居て人を近づけなかった貧爾を、私がやっとのことで落ち着かせて両手に入れて家の中に運び込んで来た時の写真。眼にヤニのようなものが付いていたので、盲目の猫かもしれない、と母が言っていたので、妻と「いよいよ哀れな猫だね」と話していたが、ちり紙で眼の汚れを擦り取ると、眼が明いた。

「貧爾手帳-その8」で紹介した2枚は、まだ警戒中で、近付くと威嚇する状態。この段階で既に眼が明いているので、盲目ではないことが分かる。

※二枚目の写真は、新参者の貧爾に優しく接する虎次郎。彼はいつも優しかった、と妻が懐かしむ。


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コメント 11

mimimomo

こんにちは^^
手のひらに乗る頃から飼っていらっしゃったのですね。

人間は強欲なものですね。利己的だし。
奥様との国内旅行にはお出でになっていますか? わたくしは
どちらかと言うと、一人で行きたいほうですが^^ 夫は自分ひとりで出るのを嫌がります。なかなか上手く合いません。
by mimimomo (2009-10-12 12:42) 

スー

写真に愛情があふれています。
by スー (2009-10-12 22:38) 

旅爺さん

木を育てても動物を飼っても勝手気ままな人間の姿が見えますね。勝手気ままな北朝鮮が怖いです。
by 旅爺さん (2009-10-13 05:46) 

はくちゃん

おはようございます
ご訪問ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします

by はくちゃん (2009-10-13 08:17) 

SAKANAKANE

体の小ささに反比例して、生命力のポテンシャルは有るような思いにさせられます。
虎次郎くんとのショットがステキですね。貧爾くんが初めて出会った愛情かも知れませんね。そして、それが始まりで、アヨアン・イゴカーさん夫妻の大きな愛情に包まれて行く・・・。
もしも、こうした出逢いと、病魔からの逃れの、どちらかが選択できたとしたら、貧爾くんはどうしたでしょうか?
客観的には難しい選択ですが、愛情を知ってしまった貧爾くんには、悩むコトなど無かったようにも思えます。
by SAKANAKANE (2009-10-13 21:51) 

orange-beco

掌に乗ってしまうくらい小さな頃からアヨアン・イゴカー様のお家にいたのですね。
媚びてもいない虚ろな瞳。
アヨアン・イゴカー様と奥様に愛されて、その瞳が輝くようになったのだと感じました。
by orange-beco (2009-10-13 22:15) 

ムーミン

お二人で旅行を、いいですね^^
家でも、時々そうしようと思ってます。

by ムーミン (2009-10-14 11:28) 

にすけん

 人間が、まるでおのれの優位性であるかの如く吹聴する『理性』の正体って何なのだろうと、時々思います。
by にすけん (2009-10-15 00:19) 

sig

こんばんは。
アヨアン・イゴカーさんの愛情がひしひしと伝わってきます。
こんなに小さい頃からこの病にかかっていたのでしょうか。
とにかく、免疫不全症候群と呼ばれるこの病気は悲惨ですね。
それに耐えて、耐えて・・・そのけなげな姿に人は教えられるのですね。
by sig (2009-10-16 00:21) 

アヨアン・イゴカー

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by アヨアン・イゴカー (2009-10-18 14:20) 

アヨアン・イゴカー

mimimomo様
そうなんです、掌に入る頃に彼は捨てられていたのです。
妻との旅行は、今のところ、実は実現していません。予定がなかなか合わないのです。でも、きっとそのうち行きたいです。

スー様
有難うございます。貧爾の写真は、殆ど全て妻が撮りました。

旅爺さん様
生きていると言うこと自体、利己的であると言うことかもしれませんが、それを最小限に抑えたいと思っております。

はくちゃん様
これからも宜しくお願いします。

SAKANAKANE様
私は最近、小さな、それこそ一ミリ位の昆虫が透明の羽で飛ぶことができることに驚きを感じています。生命は素晴らしいものですね。
ご指摘の通り、病魔と闘うことによって、貧爾は私達の心に特別の記憶を残しました。選択は常に二択です。あれかこれか。

orange-beco様
子猫、それも母猫がいない状態でしたから、貧爾はまるで子供のように私達に懐きました。食事の時も側に来て、私達の食べるものが食べたいというように坐っていました。

ムーミン様
旅行は実現していませんが、たまに一緒に散歩したりすると、最近、とても満ち足りた気分になります。

にすけん様
正直言うと、万物の霊長と言う考え方が私には受け入れられません。みんな生きているのですから。人間が他者(生物、鉱物、現象、宇宙などあらゆるもの)を語るとき、人間が便宜上作り上げた共通認識手段である言語および言語による定義づけに依拠せざるをえません。しかし、言語は人間が仮に作り出して使っているものであり、絶対的な手段ではありません。

sig様
本当に、あの小さな体が病魔と闘う姿を見せることで、貧爾は私に多くのことを教えてくれました。不思議な気分です。言葉を使わない、魂のコミュニケーションとでも言うべきかもしれません。
by アヨアン・イゴカー (2009-10-18 14:37) 

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