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貧爾手帳 - その8 [詩・散文詩]

where is mom.JPG 夏の空 

夏の空は淋しい

白っぽい青空に霞んだような千切れ雲が

それこそゆっくりと移動してゆくのだから

もう赤蜻蛉が飛んでいるのだろうか

向こうのグラウンドの日向には、右へ、左へ、平行移動する虫が飛んでいるのが見える

給水塔も強い西日を受けて立っている

その姿は

海辺で恋人達がやって来る日を

永遠に待ち続ける漁師のようだ

丘の上を通り過ぎてゆく西風は

夏の日の思い出を一層虚しくしてくれる

何も考えぬことの方が、何か悪事を企むよりはよい

椅子に寝そべってプラタナスの梢を見上げると

水底を覗いているような気分になれる

幹から幹へ蝉が移るのが見える

呼吸するかのように大枝が揺れる

昔私は草原に寝転がり大空を見上げたことがあった

名状しがたい淋しさがあった

決して手に入れることのできない

万物を拒絶する 絶対的な力を持った何かがあった

(チャイムが五時になったことを告げた)

子供の頃、私は父や母の時代を私の時代として共有することを望んだ

親の経験は私のものでなければならなかった

共有できないと言うことは、両親の体験から切り離されてしまっていると言うことだった

 

そして、今、私は妻と時間を共有することを求めている

一緒に生活しているだけでは十分ではない

話をするだけでは十分ではない

買い物を一緒にするだけでも十分ではない

大切なことは、彼女と言う存在の重みを知り

妻と言う存在を命と同じくらいひたむきに守ることだ

 

思い出を作ってくれる夏

それは淋しい

が、同時に思い出を思い出す夏は楽しい

白い雲は何処へ飛んで行くのか

いつかどこかで見たことのあるような雲は

いつかどこかへ飛んで行く

 

翼を広げた丹頂鶴を思い出させるヒマラヤ杉は

日向に仲良く三本で立ち

出番を待つ踊り子達のように見える

 

いつの日かやって来ることを信じて

その少女が自分の作った城に花嫁衣裳を着て

男はその亡霊のような城を作ったのだった

まるで砂上の楼閣のような小さな城を

城には全てが揃っていた

厨房、浴室、居間、広間、寝室、書斎、図書室、倉庫、犬小屋、厩舎、水族館、鳥小屋、地下室、地下牢、独房、礼拝堂、厠、子供部屋、撞球室、車庫、衣裳部屋、天体観測部屋、貯蔵庫、中庭、柱廊、小劇場・・・

あぁ、しかし、花嫁はやって来なかった

どこかの名士の金満家に嫁いでしまったのだった

その知らせを聞いた時、彼は動じなかった

僕には理想の(ひと)がいるのだから

現実の女を想うのは気違い沙汰だと言って

彼はその小さな城の管理人になった

鍵を持って部屋、部屋を見回るのが彼の仕事だった

彼はこの仕事を始めて

すっかりこの仕事が気に入ってしまった

特大の名刺を作って知人友人に配ることにしたのだったが

しかし、

名刺をデザインする前、印刷する前、と言うよりも

思いついたその日

即ち結婚の知らせを聞いたその日

彼の体は海中を漂ってしまっていた

海の青さと空の青さ

どちらが本当に青いの、と尋ねた音楽家がいたっけ

勿論空の青だね

だって空は暗黒で出来ているから

海はかないっこないって、クラムボンが言っていたよ

その青い海と磯で作られる白い漣

だから夏の空は淋しいんですよ

(狼のようなシベリアンハスキーが水飲み場に連れてこられた

捻られた蛇口から水を飲む。

蛇口に咬みつくかのように口を近づけて水を飲む。

パシャッ、パシャッと大きな音を立てて水を飲む。)

 

*     *     *     *     *     *     *

 

十九時零分

 

感ずることのあまりに新鮮にすぎるとき

それをがいねん化することは

きちがひにならないための

生物体の一つの自衛作用だけれども

いつまでもまもってばかりてはいけない

(宮沢賢治:『青森挽歌』より 第二巻百九十九頁)

 

二〇〇二年八月十四日 水曜日 二十一時五十五分

 

一昨日は朝食に紫芋と米の残りで雑炊を作って食べた。とにかく食欲が無くなった。

 そして昨日はコップ半分のジュースを午前九時頃に飲んだ後、珈琲牛乳を作ったが、コップの五分の一ほど飲んでから、夜まで全く何も口にする気がしなかった。

*     *     *     *     *     *     *

 胸が抉られるようだという表現があるが、私はこれは実際に思い出と言う記憶が抉り取られるのだから、そんな風に感じるのだと思う。

*     *     *     *     *     *     *

 一寸前に『永訣の朝』を書き始めたが、どうも思っていたよりも遥かに悲しい曲になってしまった。ピアノで弾いてみたのとは全く違うものをパソコンでは書き始めてしまうのだ。何故だろう。私の頭の中ではピアノの鍵盤で弾くのとは異なる音が出てくる、要求してくるのである。だから私はパソコン無しには作曲することが出来ない。

 そもそも、猫が人間のように手足を投げ出して寝ること自体が不自然なのだ。貧爾は本当に、身体全体が疲れ切っていたのだ。この疲労と痛みと呼吸困難から解放されたかったのだ。我々はそれを見て、送り出してやらなければならない義務があるのだ。

 一番の供養は、いつも覚えていること、頻繁に思い出すことだ、と私は妻に何度も言った。だから私たち夫婦は貧爾たちの写真を焼き増しすることにした。そして身近なところに飾っておけば、すぐに思い出すことができるから。

  

lonely hinji.JPG二〇〇二年八月十五日 木曜日 十九時三十五分 晴天

 

今日は散髪のため床屋改めカットブレイク×××に行った。昨日は休みだったので、もう一度行ってみたのだ。今日は青赤白三色の看板が回転していた。

 店のご主人は、五十年前に一年半ボクシングジムに通っていたことがあった。その頃ピストン堀口、沢田などのプロボクサーたちが有名だったようだ。堀口は七人のヤクザに絡まれて、七発で全員を打ち倒した、と言う武勇伝が伝わっていたそうだ。ヤクザたちは相手がピストン堀口であることを知らなかった。堀口はプロボクサーで東アジア地区王者だったので、相手が素手で掛かってくるなら殴らせておこうと思っていた。しかし、ドスを抜いて掛かって来たのでやむをえず鉄拳を使わざるをえなかった。そして七人のごろつきどもを一発ずつで沈めてしまったのだった。相手はヤクザとは言っても、ボクサーからしてみれば素人だから、隙だらけさ、と床屋の主人は痛快そうに言った。

 このご主人も熊襲のような酔った大男を倒したことがあった。横浜で働いている頃、この熊襲がサラリーマンの男に因縁をつけているところを目撃した。この熊襲は相手が詫びているのに、更に言いがかりをつけて、金を巻き上げようとした。そこで我らが青年は止めに入った。すると、熊襲は青年の胸倉を掴んだ。そこでご主人は一発脇腹にお見舞いしてやった。相手は苦しさに蹲った。「だってさ、相手は素人だもん。隙だらけさ。打つ時は腹は正面じゃなくって、脇が効くんだよ。ここをやられちゃうと息ができなくなるもの。俺も練習中喰らったことあるけど、苦しいよ。息できねぇもの。でもさ、アッパーカットはもっとすごいよ。ここんとこ(と顎の下を指して)こうやって入れると、すぐ伸びちゃうよ。」床屋のご主人の話は体験談なので面白い。ロードワークでは二時間ほど汗を流し体重を減らすのがきつかったそうだ。伊勢佐木町、長者町、曙町、三ノ宮、二ノ宮をぐるりと回った。

 ご主人がポツリと言った。「チビ死んじゃったのよ。いないでしょう?」

「どうしたんですか。」

「実は、乳癌だったんですよ。雌犬なんだけど、子供を産まないと、乳が張って乳癌になることがあるらしいんですよ。」

「人間もそうだって言いますよね。最近新聞にも出ていましたけど。」

「そうなのよ。やっぱし。人間も母乳で育てないとね。あの、ミルクみたいの飲んじゃうとね・・・七月十四日に死んじゃった。」

 シェットランドシープドッグのチビちゃんは、七月十四日の午後八時五十分に永眠した。七月七日生まれのチビちゃんは十三才だった。

 七月初めに毛が伸びて暑いから、少し切りに行こうとペット用の美容院へ連れて行った。そうしたら脇のところにしこりがあるので、これを獣医さんに看てもらってから、毛の方は切りましょうかと言うことになった。医師の所へ連れて行くと、これは癌だと言われてしまった。犬は癌になると早いので、余りもたないと言われた。美味しいものを食べさせてやろうと言うことで、ビーバートザンへ行って美味しそうな缶詰を六個買った。しかし、一缶の途中までしか食べることはなかった。

 医師の言葉通り、あっという間に癌は広がり、もう命は幾許もないと宣告された。いつも通り、ご主人は八時半に店を閉めてしまうと、「じゃぁ、チビ、散歩に行こうか。」と言っていつもの道を歩いた。二十分も歩くと、チビが突然苦しがったので、慌てて抱いて店の中に運び込んだ。既に瞳孔が開いてしまっていた。息子さんと二人で胸部を圧したり、口から息を吹き込んだりしたが、変化がなかった。しかし諦めず、近くの獣医さんに、まだ呼吸しているみたいなので来て貰えないかと頼むと、直ぐに来てくれた。しかし、既に呼吸も心臓も止まっていた。医者は言った。「よく二十分も散歩できましたね。」それほどチビは衰弱していた筈なのに、無理を押して最期の瞬間をご主人と一緒に過ごしたのだった。苦しがるかもしれないと言う医師の言葉に反して、殆どくるしまずにご主人と息子さんに看取られて死ぬことができた。

 チビちゃんが死んでしまったので、荼毘に付した。「他の犬と一緒に焼くと安くなりますが・・」と案内されたが、チビちゃんの骨が分からなくなってはいけないので、一頭だけ別に焼いてもらうことにした。骨壷に骨全てを納めてもらって持ち帰った。

 ご主人は毎日、朝は水と餌を霊前に供えて「おはよう、チビ!」と声を掛ける。仕事が終わると「おやすみ、チビ!」と言う。

 チビはこの家の人々と自分との関係を作り上げていた。一番のボスは息子さんで、ご主人は母親的な存在。他はチビちゃんの目下の存在だった。だから、孫娘のえり子ちゃんなどには偉そうに吠えたりしたそうだ。生後一ヵ月半でこの家に来て、一匹で箱の中に置いておくと、恐がって泣叫んだので、三日間ほどご主人が懐に入れて眠ったそうだ。それでご主人のことを母親のように慕っていた。息子さんの方は、粗相をした後に、新聞紙を丸めて叩いたりしたものだから、すっかり怯えて、従うようになった。そして、困るとご主人の所へ逃げて来る犬だった。

「あんまり泣かねぇんだけど、俺泣いちゃったよ。おふくろが死んだ時と、これで二度目だね。やっぱりこれだけ懐いているとね。あれからもう一ヶ月だね。」

 先日、霊感の強いと言う小学生が散髪にやって来た。そして散髪台の上に乗ってから

「あっ、そこにチビいるね!」と台の脇を差した。そして

「あっ。今度は入り口の窓のところへ行った。」続いて

「今度は奥へ行った。」と言った。これはご主人が「チビは死んじゃったんだよ。」と言う前のことである。何故少年にチビが見えたのかは分からない。母親は「この子は霊感が強いので気味が悪いんですよ。」とご主人に言ったそうである。

 いずれにせよ、動物も死後、魂が残っている、彷徨していると考えると嬉しくなる。少年はチビがいつもやっていた生活通りの像を彼の頭の中ではっきりと見ていたようである。

 私はこの話は、きっと妻に話しておきますよと約束した。貧爾の魂もまだこの家にいることを、チビちゃんが証明したことで裏付けたいと思うのだ。

 

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コメント 8

yakko

こんにちは。
貧爾くんの魂も絶対アヨアン・イゴカーさんご夫妻の傍に
いますよ。いつもお二人を見守っていると思います。
by yakko (2009-10-09 17:08) 

zenjimaru

人間は一人では生きていけない
特に血が繋がっていない赤の他人であった筈の
奥様が一番大事な人である・・・同感です
一般に親は先に逝ってしまいます
子供もいずれは独立して離れていきます
一生付き添っていく夫婦は切っても切れない絆を
イヤ、切ってはいけない絆で繋がっているように思います
by zenjimaru (2009-10-09 17:39) 

doudesyo

こんにちは。
家でも新しい家族が増えました。インコとうさぎ。一緒に住めば世話もするし情も移ります。それが当たり前と思っていますが、死んでからの事は分かりませんよね。霊感の強い少年がよいアドバイスをしてくれたと思います。私にはサッパリ見えませんが、死んだら終わりという短絡的なことではないと願いたいものです。
by doudesyo (2009-10-10 10:28) 

sig

こんばんは。
アヨアン・イゴカーさんにこれだけの詩や文章を書かせるヒンジくんはすごいなあ。そして、ペットとはそういうものかな、とも思います。
これを裏返せば、飼い主の愛情の深さということに尽きると思います。

by sig (2009-10-10 21:24) 

青い鳥

貧爾君の写真、可愛いですね。
きっといつもアヨアン・イゴカーさんのお傍にいて
しっかりとアヨアン・イゴカーさんのお宅を守ってくれていると信じます。
by 青い鳥 (2009-10-11 14:25) 

アヨアン・イゴカー

お茶屋様、ナカムラ様、ChinchikoPapa様、Mineosaurus様、soichiro様、kaoru様、kakasisannpo様、yakko様、zenjimaru様、ほりけん様、アリスとテレス様、クンツ様、chee様、くーぷらん様、mitu様、gyaro様、orange-beco様、いっぷく様、YUYA様、チョコシナモン様、Krause様、さとふみ様、kurakichi様、KENNY様、mimimomo様、くらま様、+k様、shin様、doudesyo様、ビアンカ様、スー様、めぎ様、扶侶夢舎様、もめてる様、sak様、sig様、あらみてたのね様、てんとうむし様、旅爺さん、logy様、青い鳥様、るる様、ムク様、yuki999様、アールグレイ様、piattopiatto様 皆様 nice有難うございます。

by アヨアン・イゴカー (2009-10-12 12:40) 

アヨアン・イゴカー

yakko様
有難うございます。私もいつも一緒にいてくれると思います。

zenjimaru様
近年、離婚率が高くなっていますが、私はそれを憂えております。まるで、それが文明化の一つの減少であるかのような解釈もあるかもしれません。しかし、私は貧爾と言う猫が介在してくれたことによって、大切にすべきものが何なのか段々分かってきたと思います。

doudesyo様
生きている時は、憎らしいと思う時もあるのですが、いざいなくなってみるとそういうことは全部忘れてしまいます。
私も霊感がまったくないので好く分かりませんが、魂があると考えると楽しくなります。

sig様

有難うございます。
昨日、ETV特集で死刑囚永山則夫の元妻であるかずみさんが言っていた言葉がとても心に響きました。
「いらない命はない」

青い鳥様
夫婦でこの写真を見ては哀れな、天涯孤独にされた貧爾のことを時々思い出しています。孤独にして、放置されていい命はない、そう思います。
by アヨアン・イゴカー (2009-10-12 13:07) 

SAKANAKANE

こんなにもカワイイ貧爾くんが、苦しみ続けなければならなかった理不尽を思うと、何も言葉にできません。
魂は、側にいてくれると嬉しいですね。
by SAKANAKANE (2009-10-13 21:29) 

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