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N氏からの手紙 [N氏の肖像]

 今週は忙しい週だった。来週は予定をその日ごとに決められるので、精神的にはゆとりがある、そう思っている。
 我が家の隣には、時として近所迷惑を構わず行動する老人(父親)が住んでいて、活動をする。今週は少し暑さも和らぎ行動しやすかったせいか、あちこち植木を切り落として回った。隣に住んでいる兄も私も、夜に帰宅した時丸坊主にされた植木と、切り落とされたままの枝を見て呆然。切り落とした枝は腰が痛いから片付けられないとのたまっているそうだ。
 DSCN3123.JPG閑話休題。出版計画第二弾の作品の一つだった『神聖木曜日』は計画を中止した。それはN氏の突然の心境の変化だった。出版社にも詫びのメールを送っておいたが、立腹したのか返信もなかった。それでも私は別の計画に取り掛かっているのだが、そんな時に手紙が届いた。彼の気持ちの一部が綴られていて、更に一旦完成したはずだった原稿の変更を求めるものだった。彼は文章の職人なので、気が済むまで反復し、反芻し、納得できないと我慢が出来ない性分のようだ。私のように拙速でも完成させ、次の作品に移って行くやり方とは全く異なるのである。
 先日受取った手紙の内容について、彼なりにそうせざるを得なかった理由を説明していた。仕方ない、そう思う。私は、あの時彼を自分の記憶の中から排除してしまうべきかどうか考えてみた。何度か考えたが、私の作品を真に理解してくれたという点で、私は今までに彼のような人間にあったことがなかった。権威のあるものには一切評価されたことのない私の作品を、非常に高く評価してくれたのである。彼を除くと横浜国立大学の国文学専攻学生だったSさんが、私の詩を読んで、とても気にいてくれたことがあったが。現在の私が私であるのは、N氏の私に対する評価であったことはまぎれもない事実である。彼の存在が私の創作を支えてくれたのである。N氏は私にとって恩人なのである。恩人は永遠に恩人であり続ける。
 だから、私は、彼のことを少し理想化して『N氏の肖像』として小説として書くことにしていた。既に一部書いたように。これは全くの虚構なので、彼が何か訂正、変更を求めることはしないし、する必要もない。そしてこの小説は私の最も大切な作品の一つになるだろう。たった一人しかいないかもしれない、しかし、その一人が理解してくれることを願って書く、それも一つの方法なのだ。
 『神聖木曜日』については、彼の精神状態が落ち着くのを待ってから、改めて出版を検討することになるかもしれない。
 ※現在は、全くべつの短編小説に取り掛かっているが、残り20ページを来週までに書き上げなければならない、ある計画のために。
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N氏の肖像 その2 [N氏の肖像]

その2 宮澤賢治について その1    五月六日 火曜日 KJ法と言ったが、実際には実行しておらず、思いつくままに書いて、後で切ったり貼り付けたりすればよいと考えている。実にいい加減な人間であることを自覚している。このいい加減さは、漱石の使った言葉、トチメンボウみたいなものか。早速、思い出したことを書きとめている手帳を開く。「有理数はrational numberと呼ばれているので、有比数と呼ぶべきだ」と読んでいた本の著者は書いている。私は大きく頷く。それ故、有理数は二つの整数で表すことができる。一方、無理数は分数で表すことが出来ない。私はすっかり納得したような気になる。(このお目出度さが、私が数学が出来るようにならない根源なのである。)更に著者は、超越関数とは方程式が存在しない無理数であると説明してくれる。なかなか複雑であるが円周率π対数eがそれに該当し、eをπi乗するとマイナス1になると言う。私にはちんぷんかんぷんであるが、数学者たちはbeautiful!と言って涙を流して感動するのかもしれないと想像すると、一寸だけ貰い泣きしないと損をしたような気分になる。おぉ、何と美しい摂理であろうか!と呟いてみる。この本のことを話したくて、私は木曜日が待ち遠しかった。そして、木曜日が来るとN氏に会って、喫茶店でこの話をしたのである。が、実のところ、この本のことは多少の興奮を以って話したのだったが、全く盛り上がらなかった。彼はそれこそ白昼にも拘らず、夜の高原で白鳥座のデネブを探そうとするような目付きをして、私の話しを聞いていないように見えた。誰にでも好き嫌いはあるから仕方ないことだ。そこで私は、持っていた画帳に水性色鉛筆で黄色い農民服を着て麦藁シャッポを被っている宮沢賢治の絵を描く。水を付けて色を伸ばす。彼はその作業を面白そうに観察している。私は、絵を見せながら彼にこう言ってみる。Kenji in a straw hat.JPG「この絵は、農業をしていた時いつも着ていたと言う黄色い農民服と麦藁シャッポ姿の賢治。つい、この絵を描きながら軍事演習をしている弟の清六さんに会いに行った姿が重なってしまっていた。演習の時は黒い繻子のだぶだぶの変な服だったらしいのだけど、何だか軍事演習しているところへ、のこのこと農民服で会いに行く方が、面白くない?」「まぁ、そうかもしれないね。」「ところで、話は変わるけれど、宮沢賢治は、最初は浄土真宗の熱心な信者だった。けれど、法華経を知ってからは急に法華経信者になってしまったでしょ。それで、父親の政次郎と対立して、父親と宗教論を展開するけど、僕はこの対立については、若者の罹る精神的な麻疹のようなものじゃなかと思う。」「精神的な麻疹?一度罹れば免疫ができると言う意味で?」「そうではなくって、本質的な対立と言うよりは、青年期に於ける一過性の現象と言う意味で。」「一過性と言うことは一回だけ通過する、通過儀礼のようなもの?」「僕の考えでは、1960年代、70年代に活発だった学生運動や、過激派学生の活動がそんなものだった。真面目で、一本気で、正義感が強かったり、若干被害妄想意識が強い若者が陥りやすい精神的麻疹のようなものだと。勿論、家庭環境、学校の環境、友人関係など多くの要素がそれに加わるので、そういった傾向の若者が誰でもが発症するものではないんだ。残念なことだけど、カルト宗教なども共通要素が多いと思う。その排他性、独善性、教条主義などが。」

「彼等の多くはその主義主張を収めてしまって、普通のサラリーマンになってしまったようだね。或いは、主義主張を反転させたように見える人々もいるね。」

「僕が言いたかったのは、その渦中にいる時は、その考えが絶対的に正しいと信じていたことも、一定の時間が経過すると、別の視点も出てきて、より包括的な捉え方ができるようになる、そういうことなんだよ。より視野が広くなって、度量も大きくなる。だから、他者と接する時も、大きく構えていることができるようになるんだ。」

「つまり、賢治も父親と衝突したのはその精神的麻疹だったんだね?」

「まぁ、そういうことなんだけど、僕が言いたいのは、賢治も若い頃はそのような迷いがあったのだ、と言うことなんだ。一旦、ある程度の芸術的な評価が確定してしまうと、いつの間にか人間である作家や詩人が、別世界、別次元の人間であり、全てがなるように方向付けられていて、完成されていたような解釈をする人も出てきてしまう可能性がある。悟りを開いた仏陀も、基督もいつの間にか人間であったものが、神のような絶対的な存在として解釈され、その理想像が一人歩きし始めるんだ。仏陀なども仕舞には三十二相などと言う化け物のような特徴を備えていることになってしまう。長広舌相など、舌で額を舐めることができるなどと、凡そ現実離れしている。とんでもない相は他にもあるし。」

「あぁ、その感覚とてもよく分かる。賢治は、菜食主義的な傾向もあり行動も取ったけれど、肉食もしたし、酒も飲んだ。恋もしたし、間違をして人に迷惑も掛けたし、文章を書けば当て字もあったし、書き間違いもした、普通の人と同じところも沢山あった、そう言いたいんでしょう。」

「そう、そう。まずは普通の人間として考える、そして普通の人間から絶対的に断然優越している部分をしっかりと考える、捉える、それが大切だと思うんだ。表面的な賢治像から入って行ってはいけないんだ、と。」

「表面的な賢治像とは、言い換えれば人間賢治に対する偏見、先入観に他ならないでしょう。」

「賢治は子供の頃から石が大好きで石っこ賢さんと家族から呼ばれていた。高等農林学校でも鉱物の研究をし、関教授にも『宮澤君は、土壌学・岩石学では、ならぶ者のいない程の逸材*』と言われていたそうだ。それでも、賢治のことを一人の地質学者として礼讃する仲間に入る気はしない、と早坂氏は言っているそうだ。この考えは僕も常識的であると思う。賢治が研究室に残り、研究を続けたのであれば地質学者として礼讃されても不思議はないな。だって、研究室には残らなかったし、教師をしたり、農民になったり、セールスマンになったりしていたのだから。」

 

*農民の地学者宮沢賢治 宮城一男著 築地書館 p64


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N氏の肖像 その1 2014年4月27日 [N氏の肖像]

 あれこれ考えていたが、とりあえず『N氏の肖像』を書き始めることにする。絵も『文化祭(鰯の埋葬)』もB2判の下絵を昨日描いた。鉛筆だけなので、まだあれこれ描き込む可能性もある。これは、積りではなく、可能性なのである。大きな画面にすることは、詳細の描き込みも必要になり、大変ではあるが面白いに違いない。『N氏の肖像』については、既に一旦書き上げている『神聖木曜日』とは別に、小説として書くことになる。手帳に思いついたことを書き留めていたら、現実から遊離してどんどん発展して、これは小説と呼ばなければN氏に申し訳ないと考えた次第。
 何か挿絵のようなものがないと詰まらないと思い、詩集『初恋』のために描いた挿絵の中にいるN氏の顔を拡大し写真に撮る。a portrait of Mr N 20140427.JPGそれがこの写真である。人形劇の打ち上げをした際の写真に写っている彼を参考にしながら鉛筆で描き、水彩絵具で彩色を施したものである。やや神経質そうなところは似ているように思う。この絵を見ても本人は似ていないと言わないだろうし、喜ぶのではないかと勝手に考えている。なぜなら、18年位も前に、私が彼の肖像をボールペンで手帳に描いて見せたら、「なかなかいい顔をしているじゃない。」と言って笑っていたことがあったからである。その絵は彼のお気に入りになったようである。
 * * * * * * * * *
 N氏と書いているが、それは今では全く彼と交信が絶たれているからである。私が電話を掛けた時、母親が出て「暫くそうっとしてやって下さい。」と言ったのだった。その時から既に16年も経っている。彼に会っていた時には、私よりも年が1歳下だったのでN君と呼んでいた。しかし、今ではこれほど疎遠になってしまっているので、いい年をした彼のことを親しげにN君と呼ぶ気にはならない。君呼びを止めてN氏と呼ぶことには一つの利点がある。彼のことを小説の主人公として客観的に描くことができることである。客観的に捉えるということは、即ち私が彼の言動について、より私情の入らないように・・・ここまで書いて、私は自分が自分の目指している方向と反対の道を進んでいると感じる。私の目指している作品は、シュルレアリスト風であり、現実と非現実が混在し、自分の存在位置が分からなくなってしまうような、そして詩的な場面の鏤められたような散文小説なのだ。それは至って主観的な立場で書かれなければならないし、同時に客観的立場もなければならない。と言いつつ、自分自身は存在位置ははっきりしているのだから、明瞭な意図を以って、目的の文章に達することができるのだ、と一人合点したりしている。
 私達は、天気の好い時はオープンテラスの珈琲へ行った。時々私は通り過ぎる人々の姿、顔などをクロッキー帳に描きとめる。彼はそれをにやにや見ている。私がペンを動かしている時、彼は終始無言である。
 余りに多くの思い出が溢れ出てくる(と言う嘘をついている)ので、記憶の整理をしなければならない(ことにする)。そしてこんな時の常套手段として使われるのは、KJ法である。カードを用意して、それに思い出を一つずつ書き留める。複数の思い出は禁止である。二つ以上のことを一緒に話をしないようにと、探検家のような格好の好きだった祖父が昔言っていたものだ。頭が混乱し、思考が乱れる原因になるからだ。思い出せるだけカードに書き込んだら、それを一定の集団、集合に分類する。その次はKJ法の図解化ではなく叙述化によってまとめてゆくのである。私のやり方も実に科学的ではないか。この作業は見方によっては、絵を描く作業にも似ているかもしれない。(似ているとは言っていない。)私は最初にA4判の白紙を用意し、それを半分にし、更に半分にしと続けてゆく。A4の紙の縦横は黄金比に近いので、半分にしても、常に相似形なのだ。とは言え、やはりこの紙も近似値でしかないのだろう、そんなことを考えながら。そして何よりも、こんな作業は頭の中だけでされていて、手はちっとも動かしていないところが問題なのである。


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