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『母の頭に湧き出てきた音楽』第二版Youtube [北海道の思い出]

 先週、Youtubeにしてから、大分後悔していた。それは音が一部(主旋律の一部)が欠落するほど録音状態が酷かったことである。その思いがuploadしてから暫く続いていた。そして、伴奏の一部を書き直し、楽器構成も変更することにした。
 今回は、主旋律をハーモニカではなくクラリネットに変更し、相性のよいオーボエと絡ませ、チェロももっと歌わせることにした。更に、速度も少し哀調を帯びるように落した。(この第2版は、チェロに主題を歌わせたものも一緒に作成した。)
 lamer様がコメントに書いて下さったように、牧歌的になっていると思う。田園風景を描いて画像の一部に追加しようかとも考えたが、それも時間が掛かるので止めた。実際に、書き直しながら『田園』あるいは『パストラル』と言うような副題をつけても好いと感じていた。母の頭の中でどのように響いていたのかは、録音を聴いてもらって確認しようと思う。

http://www.youtube.com/watch?v=UvvxQmLzO7o&feature=youtu.be
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母の頭に湧き出てきた音楽Youtube [北海道の思い出]

 今日は、北海道で農作業をしていた時に母の頭に浮かんだ曲をyoutubeに仕上げてみた。
 母はクラシック音楽が好きだが、その素養は祖父から受継いでいることは明白である。祖父がレコードの鑑賞を自宅でしていて、子供達にも嬉しそうに聴かせてくれたそうだ。だから、バッハ、ベートーベンやモーツアルトなどは聴いていた。戦時中にはアメリカ、フランスは敵国となっていて、これらの敵国の音楽を聴くことは難しかったようだ。一方、枢軸同盟国の作曲家は問題がなかった。
 今回編曲したのは、母が口ずさんでくれたものを採譜した原曲である。若干、2音ほど手を加えたがそれ以外は元のままである。尤も、母が歌う時に途中で「あれ、忘れちゃった。」とか「どうだったかな。」とか「此の辺で大音量のオーケストラが鳴り響いたのよ。」などと言いながらの採譜であるから、母の頭の中にあったものを忠実に再現しているとは言い難い。それでも、11年前に書いた時は、この旋律を数小節だけ使って『結婚カンタータ』なる曲にしてしまったのたから性質が悪い、と反省。それに比べれば、遥かに忠実であり、殆ど脱線していないぞと誇ってもいいい位である。
 ところで、残念なことにこのところPCが不安定になっていて、YAMAHA XG Works STを使っていると、カーソルが夢遊病状態になる。マウスに何も拙者は手を触れていないにも拘わらず、ふらふらなじみの店に出かけるような行動を取るのである。急いで五線譜の上に音符を置かないと、別の楽器の方に移動して行ってしまったりする。年貢の納め時なのかもしれないと半ば覚悟している。

http://www.youtube.com/watch?v=87Ez121RuUE&feature=youtu.be
 


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北海道の思い出 その24 [北海道の思い出]

 今回は、この『北海道の思い出』の中で、最も書きたかったものの一つである蛸部屋の話。話だけしか知らないが、この話の糸を手繰ってゆくと裏の社会の一部が分かるだろう。

タコ部屋からの生還者
 

 この人物のことを書こうと思ったら、本当は一冊の長編小説が十分に書けるだろう。それほど多くの苦労をしてきた男なのである。しかし、残念ながら私はこのI沼の親爺については、微かな記憶しかない。殆どが母からの受け売り情報である。

 母親が飯沼の親爺に出会った時の第一印象は、人相の悪い薄汚い人物だなぁ、と言うものだった。確かに、写真で見た限りでは、非常に野性味溢れた労働者で、最近近所ではあまり見かけない風貌である。尤も、私は日本人の顔はちっとも進化していないので、背広を着てもらえばそれなりの格好になり、違和感は何もなくなるだろうとは思う。彼の好物は生卵で、我が家へやってくると「H氏、生卵くれや。」と父に頼んだ。卵を渡すと、地面に落ちている錆びた折れ釘を拾って、卵の一方の端に穴を開けて、そこに口をつけてずるずる中身を吸い込むのである。その様は私も目撃した。私たち兄弟も真似をしてみた。美味いとは感じなかった。

 このI沼の親爺は、上美生で暮らす前には、タコ部屋で働いた経験があった。太平出版の『実録土工・玉吉タコ部屋半生記』に描かれている事柄は、私が母から聞いているタコ部屋に関する情報の断片と一致する。高田玉吉が歩いたタコ部屋現場と言う地図が掲載されているが、一九三〇年十月から一九四四年六月まで彼は北海道の飯場を転々とする。十勝川の上流から順番に見てゆくと、清水の護岸工事、中士幌では道路開鑿工事、上士幌では鉄道工事、帯広で十勝川堰堤工事、札内で砂利採取、高嶋で水門工事に従事している。我が両親が北海道に渡ったのは一九四五年九月であり、I沼の親爺に初めて会ったのもこの年である。年代が殆ど同じなので、I沼の親爺は土工玉吉にどやされたことがあったのかもしれない。

 タコ部屋の様子を『実録土工玉吉』から少々引用によって見てみる。

 

DSCN2109.JPGたとえタコに売られるにしても、医師の診断書と警察の点検をとって現地の買い方に行くのが決まりなのです。そうでないのはヤミ取引です。いわゆる「半ダコ部屋」というので、これが一番悪質で恐ろしいのです。運悪く病死や虐殺、逃亡に失敗して殺されても、警察に届けていませんからそのまま無縁仏になるからです。この時も警察を通らず、半ダコ部屋だったのです。p22

着いてみると、それは祭りの見世物小屋のようなバラックです。・・・追いたてられて

小屋の中に入るとこれはひどいおそまつ。どこもかしこも赤粘土だらけです。・・・炊事場のほかには、火の気があるのは土間の中に一個所だけ。・・・組長と幹部連中の様子が、次第に荒っぽくなってきて、「みんな濡れているものは今のうちに乾かせ、でないと後ではどうもならんぞ」、と怒鳴りつけます。p23

 起床!何時かわかりません。時計などは預けてあり、外は真暗。ランプが三つ灯っています。四十数人の人間が十五分ほどの間に食事[朝食は立ったままでとる]が終わり、大小便も早い者勝ちですんでいます。・・・地下足袋で川中に入り、昼食を食べる時だけは陸にあがりますが、そのほかはアヒル[川の中に入っているの意]です。昼食も食べながらふるえている。

 幹部四人のうち、二人は馬上で見張り、馬の鞍には銃をつけていて、いつでも発砲できるようになっています。警戒はとても厳重です。p25

 足指は水虫、手の指は皮がはがれてぶよぶよですが、水虫はどんなきつい水虫でも白ペンキで治る。私も強い水虫で閉口しましたが、知らない間に治りました。p26

 

青年高田は、小林兄ィが二人で一枚しか許されていない布団をもう一枚ごまかし、それが発覚したために、ヤキをいれられる羽目になる。

 

 炊事さんは、一枚一枚調べながらきます。私たちの後ろに来たときは、針の山に座っているようでした。「ありました。小林と高田です。」

 その時の私の気持ちを想像して下さい。私は即座に親方の前に出て、平身低頭して謝りました。

 その後はあまり記憶にありません。水を掛けられて土間に転がっていたようです。体のあちこちから血が吹き出て、目も片方、口は切れるし、背中は火のように熱い。腕と足だけはそれほどでもありません。鬼の河合の本領を発揮したのでしょう。殴った凶器は焚き火の薪でした。・・・二九頁から三十頁

 ふと、ある思いが頭の中を走りました。

 - 逃げよう。・・・

 今だ - ほんの一瞬です。足には十分自信がありました。南の方に向かって、一気に飛び出したのです。何が何でも走らなければー命がけです。・・・突然、後方で銃声がして、初めて後ろを振り返りました。・・・三十一頁から三十二頁 

 以上の引用から、タコ部屋の生活がどのようなものかの一端が推し量られる。このような過酷な労働条件で、I沼の親爺も働いていたのである。そして、殺されてしまいそうなことに我慢が出来なくて逃亡を計画したのである。母の話によれば、I沼の親爺はスコップの先端を鋭くぴかぴかに砥ぎ上げて護身用の武器にしたそうである。スコップを持って便所に入り、追いかけてきたらその切っ先で突き刺してやるつもりだった。頃合を見計らって、飯沼の親爺は脱走し、スコップを持って逃げた。この脱走は成功したのであった。玉吉の場合と同じように、見張りが銃を持っていたので、見つかれば射殺されていた可能性もある。そして人柱にされて、地中に砂利と一緒に埋め込まれてしまった可能性も。北海道では、道路には人柱として土方の死体が埋まっているらしいという噂がある。因みに、人柱とは、本来水利土木などの大工事に、柱を強めるために人を生きたまま埋めること、と小学館日本百科大事典には書かれている。子供の頃、人柱と言う言葉の響きが、なんとも言えず空恐ろしかった。
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北海道の思い出 その23 [北海道の思い出]

 今日は久々に『北海道の思い出』の続き。約2回分ほどの分量をとばす。

童謡の絵本 一九五〇年十二月

 

 一九五〇年十二月には、嬉しいクリスマスプレゼントが長姉に送られてきた。八冊の童謡の絵本である。この絵本の挿絵は、日本画壇の錚々たる人々が担当していた。黒崎義介、松田文雄等名前を思い出せないのが残念であるが、母がこれらの画家たちは日本を代表する挿絵画家たちだと教えてくれた。子供の頃から歌の大好きだった私は、この姉に送られてきた絵fukiya koji - aladdin and the magic lamp.JPG本の頁を繰っていることで、想像力を掻き立てられたものである。

 掲載されていた童謡には次のようなものがあったのを覚えている。純粋に日本の童謡、賛美歌、西洋の童謡。

日本の童謡で言うと、『村のはずれのお地蔵さん』『お猿の駕籠屋』『ぽっぽっぽはとぽっぽ』『虹の馬車』『歌を忘れたカナリヤ』『あの町この町』『赤い帽子、白い帽子』『夕焼け小焼け』『お山の大将』『赤い靴はいてた女の子』『おかあさま、泣かずにねんねんいたしましょう』『村の渡しの船頭さんは』『月の砂漠』『ちんから峠』『しょしょしょじょ寺』『ぶんぶく茶釜』『雨雨ふれふれ母さんが』『かもめの水兵さん』『おうまのおやこ』『うさぎうさぎ何見て跳ねる』『お菓子の汽車が走ります、お釜はまあるい唐饅頭』『こいのぼり』『出て来い出て来い池の鯉』『めだかの学校』『なんなんなんの南京さん、南京さんのツバメは南京言葉』『森の木陰でどんじゃらほい』『みかんの花が咲いている』『この道』等。賛美歌では『麗しき朝も、静かなる夜も』を覚えている。西洋の童謡では『メリーさんの羊』。

この絵本に関しては、挿絵について述べておかなければならない。『虹の馬車』で言うと、七色の大きな虹の橋を、走ってゆく馬車の絵が描かれていた。銀のお鞍に金の鈴、夢のお馬車はしゃんしゃんと、可愛い姫さま、王子さまを、乗せてぱかぱか何処へ行く、と言う歌詞の通りの絵であるが、私のお伽の国に対する憧れを起こさずにはおかなかった。『メリーさんの羊』の挿絵では、赤いドレスを着た金髪の少女の後を子羊が追うところが描かれていた。羊は日々目にする家畜だったので自然だったが、メリーさんの服装と顔と金髪が見知らぬ世界への好奇心をそそった。賛美歌『うるわしき朝も、静かなる夜も、食べ物着物を下さる神様』は松田文雄の絵だった。牧場に西洋の少年と少女が立っている朝の情景が描かれていた記憶がある。私にはこの「静かなる夜も」の部分の旋律が気に入った。風景はやはり北海道では目にすることのできる、見慣れたものであった。


※今日掲載している絵は、童謡の絵本とは関係がない講談社の絵本ゴールド版『ふしぎなランプ』の一部分である。挿絵は蕗谷虹児、文は川端康成という豪華版である。絵はアラジンが魔人の力に依って手に得る事の出来た王女。

 


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北海道の思い出 その21 [北海道の思い出]

 蝉時雨 

 北海道の十勝に多く見られる蝉は、エゾハルゼミである。この蝉は透明な羽を持ち、黄緑色の顔に黒で隈取りをしたような柄の蝉である。川崎市に引っ越してきた時に、油蝉、ニイニイゼミ、ツクツクボウシ、カナカナ2012-9-9 no.1.JPGゼミ、ヒグラシ、ミンミンゼミと言う蝉たちの声に接して多いにその違いを楽しんだ。油蝉やニイニイゼミのように羽が透明でない蝉は、薄汚く見えたが、珍しかった。川崎市でも夏休みの頃、茹だるような暑さの中で蝉たちの喧しい鳴き声を聴くと、何処でも夏の蝉は五月蝿いものなのだと思った。蝉の声は汗腺の働きを一層活発化してくれるようだ。

 この蝉の話で愉快だったのは、落葉松に留まって鳴いている蝉である。蝉時雨と言えば、あちこちで鳴いている蝉の声が、時雨にも似ていると言う比喩であろうが、私の場合、この時雨と言う表現は雨粒そのものなのである。農作業に出掛ける所だったのか、それとも昼休みが終わって畑に戻る途中にだったのか、次姉Kと私は父親の周りを飛んだり跳ねたりしながら付いて行った。落葉松の植えられた馬車道の途中で父は「蝉を取ってやろうか。」と私たちに言う。「うん。」と私たち。すると父は何をするかと思えば、落葉松の幹を両手でむんずと掴むと力任せにぐらぐら揺さぶる。すると、ぱらぱらぱらぱら、或いはぼとぼとぼとぼとと蝉が地面に落下してくるのであった。北海道の蝉が呑気なのか、それとも蝉とはこのような昆虫なのかは知らないが、兎に角、地面のあちこちに蝉が転がり落ち、慌てて体勢を整えて飛び去って行くのである。逃げ遅れた奴を手掴みすることも出来た。私たちは、この思い掛けぬ蝉の採集方法で得られた蝉を捕まえてははしゃぎまわった。じっと手に取ってみると、透明な羽が硝子細工のようで不思議な感動に捉えられた。

 その後も、私たちは、時々父に蝉落しをせがんだ。その度に父は「ようし。」と得意そうに落葉松を揺さぶってくれたのだった。

 

 A井の鎌さんの話(短気男の家では馬も短気)

 

 我が家の南東にあった新家の戸主はA井鎌三郎と言う名で、村では「新家の鎌さん」と呼ばれていた。この名前にある鎌と言う字は、一見農家の跡取を連想させるが、必ずしも農家だから「鎌」と言う文字を名前に取り入れたのではないのだ、と私の母は言う。名古屋かどこかの地方では、「金」偏の付く字を名前に入れて、丈夫で健康な子供が育つように、親の願いを込めるのだと言うことである。だから鍬次郎もいれば鉄五郎もいる訳だ。そう言えば、万鉄五郎と言う画家がいた。万は岩手出身だ。この鎌さん、大変気が短いことで通っていた。短気な人間の典型で、怒りやすくまた軽々しいところがあった。なにしろ凄いせっかちで、人の話を半分も聞き終わらない内に町へ出掛けたかと思いきや、肝心の用件を聞きにそそくさと引き返して来るといった類のものだった。

 2012-9-9 no.2.JPG新家には綿羊が何頭もいた。その羊小屋の糞掃除は大切な仕事である。その大切な作業をしている時に、鎌さんのせっかちだけに止まらない敏捷さが証明されることがあった。綿羊と言うと、ウールマークや荒野のさ迷える子羊などに象徴される、どちらかと言うと睫が長く巻毛で愛くるしい生き物であるかに思い勝ちである。豈に図らんや、羊でも雄は相当に狂暴だそうである。少しでも隙をみせようものなら、闘牛よろしく首をぐいと下げて、くるくる巻きの角を上に向けて突進してくると言う陰険な性格破綻者らしいのである。鎌さんの女房が麦藁をフォークで掻き出していると、女だと思って舐めて掛かる。仕事を続けるのは一苦労である。尤も、さすがせっかち者の鎌さんの女房殿だけあって、こちらも随分とすばしこい。似た者夫婦、或いは朱に交われば赤くなると言うべきか。我母などは、とても恐ろしくて綿羊小屋の掃除は出来ないと、降服宣言をしている。兎に角、亭主の方は輪を掛けて気短で、素早いときているので、狂暴にして油断のならない雄羊も鎌さんには一目置いている訳だ。糞を掻き出しながらも、さっと振り返り、突き掛かろうとする綿羊にフォークを振り上げて威嚇する。「この野郎!」と一喝。何事もなかったかのように白を切る綿羊。それでも、猿も木から落ちるものであり、ある日、鎌さんは根気のある悪戯者にしてやられた。ほんの一瞬の油断であった。十分に助走を付けた雄羊が、嫌と言う程酷い頭突きを腰に一発お見舞いした。うーんと唸ったまま鎌さんは、死にこそしなかったけれど、腰が抜けて立つことが出来なかった。イソップであればこの辺りで「皆さん、羊の奴には注意をしなければいけませんよ。優しい顔に、この仕打ちですからね。」と言うかもしれない。それ以来、鎌さんの敏捷さにはいよいよ磨きが掛かったとさ。

 この鎌さんの家には馬が三頭いた。どうしても家畜や愛玩動物はその飼い主に似る傾向があるようだ。町に買い物に出掛けるのだったろうか、馬具を付けると、馬はホドウシャと呼ばれる馬車に繋ぐ前に歩き始めてしまうのである。「おーぉよ!おーぉよ!」と怒鳴って止める。飼い主の霊魂が乗移ったように、準備の出来ていない身体で、行き先も分からない方向へ向かおうとするのである。こんな話を母から聞いて、私は殆ど知らない新家の親父さんを懐かしく感じる。因みに、馬への掛け声は「つつつつつっ!」が行けであり、「バイキ、バイキ」がさがれである。


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北海道の思い出 その20 [北海道の思い出]

  世田谷区喜多見の祖父の家 

 世田谷区喜多見にあった祖父の家は、私たちにとって、文化との接点だった。北海道で生活しながらも、彼方にある手掛かりだった。それは何の手掛かりであったか。足掛かりであったか。何か変化を起こす時の、基盤だったのだろうと思う。祖父の家の間取りはこうなる。玄関を入ると、右手に祖父の六畳の書斎、左手に三畳の部屋、更に左手の奥に風呂場と厠があった。この厠の扉は自動で閉まる。祖父が扉に紐を結びつけ、滑車を通してその紐を厠の奥まで引き、紐の端に分銅を付けたのである。その重りで開けられた扉は自動的に閉まるのである。玄関の正面には廊下が家の端まで続く。この廊下に面して左側に部屋が三つあった。手前から順番に六畳の食堂、六畳間、八畳間。しかし、この間取りは改築によって大きく変わった。私のうろ覚えの記憶によれば、廊下の端に更に部屋が増築されていた。その部屋は事務所になっており、小さな階段で母屋から少し降りるようになっており、板の間だった。母屋側の壁には大きな棚があって、それは製品の陳列棚で、祖父が発明し作製した印刷機で刷った皿、化粧瓶、注射器、トランジスターなどが飾ってあった。その棚の上の方には段ボールの箱にマジックで横文字が乱暴に書かれていた。この事務所には事務机があり、白いカバーを掛けたソファーがあり、更にテレビもあった。そして、事務所独特の臭いがした。祖父は香りのいい桃山の刻み煙草をパイプに詰めては吹かしていた。その香りが染み込んでいたのかもしれない。もう少し大きくなってから、母に連れていって貰った時に強く感じた伯父のアパートのアトリエにあったテレビン油と油絵の具の臭いと同じくらい不思議な、それでいて懐かしさを喚起させる臭いだった。祖父の家には更に、車庫があった。当時は自家用車を持つことは、なかなか大変な時代だった。大した車ではなかったのだろうが、それでも運転している人の絶対数が少なかったので、今考えてみれば、そこそこの経済力があったようだ。ヒルマンと言うのがその車の名前である。特急に乗る経済力がないので鈍行で北海道から二日掛けて汽車でやってくると、叔父がヒルマンを運転して、迎えに来てくれたような気がする。

 話はどんどん広がってゆくが、このヒルマンを運転した叔父は、ウエスタン音楽をやっていた。当時の写真を見て見ると頭をポマードで固めていたようである。ウエスタンバイオリンを弾いたりしていた。彼は我々が上京してきた時に、祖母が次姉のために買った木琴で、アメリカンパトロールを弾いてくれた。半音もついていない二オクターブ位の木琴だった。この曲も木琴もすべて東京の象徴に思われた。

 三色旗 

tricolour 2012-8-12 sunday.JPG 私は時々思い出しては息を飲むことがある。それは五、六才の頃の事だったと思う。弟と私は、兄と次姉とが小学校へ出掛け、両親が野良仕事に出掛けてしまうと、たった二人きりで閑散として静まり返った家に残された。異常なほどの静けさの中にあって、無人島に置き去りにされたような寂しさに襲われた。私たちにとって、ヘンゼルとグレーテルの物語は現実感を持っていた。見捨てられたような寂しさを思い出すことは、妙な話だが、得意だった。

 畑は家の前方にあるものと、風防と呼んでいたものとがあった。風防は家から一キロ以上離れていたので、そこで仕事をしている時は姿がみえない。(余談になるが、この風防への馬車道の景色を、世田谷の小学校に転校し五年生になった時に描いた。栗毛の馬の背中に父と一緒に乗って森の中の道を行く場面である。私は、馬に乗ったことがあることが自慢だった。色々同級生たちが体験出来ないことを知っているのが自慢だった。だから、北海道にいた七年間よりも引っ越してきた後の年月が多くなってしまうことが悲しかった。あの七年間に暫くの間、拘泥し続けていたのである。)家の前の畑で作業している時は見えるのだが、緩やかな丘の向こう側の斜面で仕事をしていると姿が見えなくなってしまう。両親の働いている姿が見えなると途端に、天涯孤独であるような絶望感に捉えられてしまうのである。そして、弟も私も両親の姿を追い求めて畑を右往左往した。野良着を着た小母さんや小父さんを見ると、母ではないか、父ではないかとその姿を追うのだが、それは他人であった。弟はこの取り残される恐怖を外傷のように引きずり、川崎市に引っ越してきてからも一度、夢遊病のように、半分寝ぼけて母を捜して近所を歩きまわったことがある。

 こんな寂寥感に時々捕らわれる私であったが、ある春の午前中のことである。私は一人で母の姿を追い求め外に出たのだろうと思う。何処かをふらふらと歩いていて、ふと周りを見ると息を飲むような色彩が目に飛び込んできた。それは白味の入った柔らかな黄緑色、目を潤ませるような青緑色、そして霧の掛かったような赤茶に近い淡紅色である。落葉松の林が、その林ごとに、色の帯を作っていたのである。あの時、私はまだ強すぎない太陽の光を浴びて三色に輝いている落葉松の林を、暫く凝然と見つめていた。立ち尽くしていた。生まれて初めて色彩の魔力に捉えられたのであった。

 冬の間、葉が落ちてやや赤味を帯びて見えていた落葉松の林が、春になると徐々に若芽が芽吹くことで、その衣の色を変えてゆくのである。

 ※あの落葉松の三色の記憶は鮮烈なもので、息を飲んで見つめていたのであったが残念ながら同じ風景を再現することが出来ない。現物を見ることはあれ以来絶えてないからである。挿絵は至って適当なものになってしまっている。
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北海道の思い出 その19 [北海道の思い出]

 森から聞こえてくる電話の呼び出し音 

 母は北海道のこの土地にやって来るまで、丸ノ内の商社に勤めていた。戦前からエレベーターのある、社員食堂も完備しているビルで働いていた。海外との取り引きをしているために語学が堪能な人々が沢山いる華やかな職場である。それが一転して、電気もない、暖房も薪、煮炊きも薪、窓もない竪穴式住居に等しい家で暮らすことになったのである。

 ある日、野良仕事をしている時、母は電話の呼び鈴を聞いた。聞き違いではないかと思ったが、どうしても電話の音に聞こえるのである。こんな田舎にどうして電話の呼び出し音がするのだろうと、暫く森の方から聞こえてくる音に耳を澄ませていた。そして、それが赤ゲラが木の幹を突付いている音だと分かった時の感情は複雑だったようだ。文明の利器が幻想であったことの失望感、赤ゲラの素早い首振り運動についての驚き、森の中にある筈もない電話を思い出した自分の滑稽さ、遥かに楽だった都会生活の懐かしさなどが混じっていたようだ。実際に、私も赤ゲラや熊ゲラが木を突つくところは観察したことがあるが、良く覚えていない。寧ろ、最近(二〇〇〇年頃)栗木に啄木鳥が飛来して、朴の木の幹をけたたましく突付いている音に目覚めた時の音の方が鮮明である。とろろろろろろろ・・・・とろろろろろ・・・・と連続的に幹を突付く。朝六時頃、その久々に聞いた突然の音に目を覚ます。私は、まさかこの川崎市栗木で啄木鳥を見ることができるとは思っていなかった。眠い目を開いて朴の木の梢の方を見上げると、嘗て見たことのある啄木鳥が盛んに嘴を幹に打ち付けていた。赤ゲラはこの辺では見たことがないので、恐らく青ゲラではないかと思う。青ゲラは体長十五センチ位になるようで、目測ではその位の大きさではなかっただろうか。この早朝の啄木鳥の話を母にすると、彼女も当然のことながらこの音に気付き、北海道で聞いた、森の電話を思い出していたそうである。

  チゴイネルワイゼン 

victor record 2012-8-4.JPG このパブロ・デ・サラサーテの名曲は、私の頭のなかでは夕暮れ色を思い出させる。ロシア民謡の『赤いサラファン』の懐かしい旋律と同様に。大仰な出だし、哀切なチゴイネルの歌、そして愉快な第三部。超絶技巧。ピチカートの軽快な音、太いG線の音。あの天然パーマのかかった蓬髪の、少し眠そうな目付きをした天才バイオリニストが笑いながら自慢そうに弾く姿が想像できる。自分の技術を見せたくて仕方のない少年のような大人を。ブラームスより十一才年下で一八四四年生まれ。ブラームスのバイオリン協奏曲の第二楽章で、自分の出番が待ち遠しくて、手持ち無沙汰にしていた男。

この曲はどのような時に母が掛けてくれたのか覚えていない。レコードを蓄音機に掛けることが出来るのは、農作業に一段落付いた時でなければならない。私の記憶では、農家は一年中働いている。食べるのも仕事、農作業のために過ぎない。昼御飯を食べて少し身体を休めたら、また畑に作業に出るのである。来る日も来る日も農作業。その合間を縫ってのレコード鑑賞。疎開する際に、戦災のために持ち切れなくなった人から貰い受けたレコードだった。母の明治生まれの父可夫(よしお)はなかなかのハイカラさん伊達者で、庭球をしたりクラシック音楽を聴いたりしていた。それで母も、西洋のクラシック音楽を好む素地が出来上がっていたのである。我家には、頂いた革張りのSPレコード集が十冊近くあった。曲目は、ベートーベンの『月光ソナタ』、ストコフスキー編曲バッハ無伴奏バイオリンのためのパルティータ第一番ロ短調の『サラバンド』『コラール』など、ヴェルディ『椿姫』の乾杯の歌、ムソルグスキー『歌劇ホバンシチーナ』の前奏曲「モスクワ川の夜明け」。シューベルト『野薔薇』。歌姫はリリ・レーマンである。コロンビア・レコード。ヴァルキューレの騎行、フィガロの結婚、水の上に歌へる、等々。尤も、母が知っている曲しか掛けなかったような気もする。他にもロッシーニ『セビリアの理髪師』ルビンシュタイン『天使の夢』、ビュッセルのハープ曲などがあった。

 これらのレコードを聴いてどの程度感動したかは覚えていない。が、『ホバンシチーナ』の前奏曲は私の骨の一部になっている。あの透明な、澄み切った音、揺さぶられるほど感動的な旋律。それは、いつも私を浪漫的気分にさせる。北海道から引き上げ後の一九六三年頃、ボリショイサーカスが来日した。私はそれをテレビで見たが、そのサーカス団の中にバラライカ奏者の男性がいた。彼はその哀調のある楽器で、『ホバンシチーナ前奏曲』とカルメンの『ハバネラ』を弾いた。両方とも大変印象深く、私の魂を揺さぶったのだったが、特にムソルグスキーは私を悲しくなるほど高ぶらせた。

 
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北海道の思い出 その18 [北海道の思い出]

 面白い話 

 私たち兄弟は母が読んでくれる童話や物語が大好きだった。「暮らしの手帳」には、藤城清治の影絵による挿し絵、富本一枝の文章で世界の物語が毎月届けられるのだった。それは楽しみだった。民話や伝説や童話。国も朝鮮、中国、ドイツ、愛蘭、北アメリカ、アフリカ、スペイン等多岐に亙っていた。母は大切なものをしっかりと保管する人間なので、北海道から引き上げて来る際に、すべてを持ってきた。現在私の書斎の棚には母の購読していた「暮らしの手帳」が全て置いてある。一九五八年の初春の四三号から一九六〇年秋の五六号まで列挙してみると、『金の小犬と銀の小犬』(アイヌの昔話)、『わら一束で米千俵』(日本昔話)、『鹿からもらったお嫁さん』(朝鮮の民話)、『二匹の狐』(日本の童話)、『ペッピ君とピッペ』(スペインのこぶとり物語)、『青いカラス』(ロシアのお話)、『神さまが腹を立てた話』(世界で一番古い物語の一つ)、『一枚の銀貨』(ケストナーの詩から)、『笛吹きトム』(アイルランドの古い童謡から)、『消えたガチョウ』(幻異志より)、『ツルにもらった袋』(ロシア民謡から)、『銀のかご』(アメリカインディアンに伝わるお話)、『タヌキのかたきうち』(日本昔話)、『かしこいはた織り』(ロシアの民話から)。どれも大変興味深く母が読んでくれるのを聴いた思い出がある。世界で一番古い物語の一つとされている『神さまが腹を立てた話』は、教養文庫『世界最古の物語』(バビロニア・ハッティ・カナアン)H・ガスター著矢島文夫訳にハッティの物語として載っている。この文庫は私が三六歳の時に買ったものであるが、「暮らしの手帳」を見ていてふとどこかで聞いたことのある題名だと思い、確認ができた次第である。ところで、私が社会に出て初めて就職したのは、藤城清治が設立した劇団木馬座だった。既に藤城清治は別の影絵劇団を設立して木馬座にはいなかったのだったが。それでもあの独特の意匠の回転木馬の社章が、私には誇りに感じられたものだ。

  赤い鳥 

 鈴木三重吉が始めた「赤い鳥」が何冊あったのだろうか、家にあった。いろいろな童話があった。恐ろしいもの、悲しいもの、楽しいもの、訳の分からないもの。「赤い鳥」で覚えているのは、次姉が読んでくれた童話赤い鳥 (小峰書店) ¥280.JPGだった。ロボットのようなデブとのっぽの人形が、放浪している話だったような気がするが、内容は覚えていない。兎に角、両親が暗くなる夕方まで帰って来ないので、空腹でもあり淋しくもあった時、次姉が読んでくれた。とても面白い訳ではなく、ないよりましと言う程度の話だったと思う。

 二〇〇一年六月三日、トーマス・ハーディの『帰郷』とベンヤミンの著作集八を返却する序でに麻生図書館で「赤い鳥」を探した。残念ながら、私の探していた小峰書店のものは無かった。もっと簡略された抜粋版で、私の希望には全く沿うものではなかった。我が家の書斎の本棚に一冊だけ『五年生の赤い鳥』を発見したのは幸運であった。表紙や扉、見返しは武井武雄の挿し絵である。目次を見ると何とも錚々たる作家の名前が並んでいる。北原白秋、有島武郎、小川未明、豊島与志雄、西条八十、林芙美子、坪田譲治、芥川龍之介、鈴木三重吉。一房の葡萄、杢平じいさんの死、花と少女、鬼が来た、ろうそくをつぐ話、ハボンスの手品、魔術などどれも印象に残っている。自分の子供の姿をシャボン玉に吹き出して飛ばすハボンス。シャボン玉として空に消えてしまうハボンス。『(ワン)の家』(平方久直作)は、どこの部落を舞台にしているかがよく分からないが、それでも戦前の貧しい部落の生活の一部が明るく客観的に描かれている。自分より金持ちである監督金の息子に諂う王の父親。それでも、それなりに仲良く遊んでいる子供たち。アンペラ小屋に住んでいる王一家。父は監督に頼んで自動車の車体を貰って来る。『飛ぶ教室』の中に出て来る禁煙先生の客車の家とは比較にはならないほど狭いが、それでも楽しさを想像させる

 
※写真は、小峰書店発行の『3年生の赤い鳥』価格は¥280.裏表を広げて撮影。

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北海道の思い出 その17 [北海道の思い出]

  濃縮ジュース 

 農作業をしていると、当然大量の汗をかく。そして、その汗は、太陽の紫外線と共に衣服を疲弊させる。母は、東京からもってきた綺麗なシャツも農作業をする時に着ていたら、やがてぼろぼろになってしまったと言っていた。夏は北海道でも気温は可也上昇する。そんなある日、父は赤橙色の液体の入った小瓶を買ってきた。この小瓶は一枚の厚い台紙に凧糸のような紐で上と下の二箇所が固定されて、数本が並んでいた。井戸で空の一condensed  orange juice.JPG升瓶にその小瓶の蓋を取って赤い液体を注ぎ込むと、続いて井戸水を漏斗で入れる。そして、親指で口に蓋をすると、上下に勢いよくふった。底に沈殿していた濃度の高い液体が均等に広がる。これでオレンジジュースの出来上がりである。湯飲み茶碗にこの橙色の液体を注いでくれる。極楽の美味さである。甘いものをもっとも美味しいと感じる子供の頃に、この毒々しいジュースは最高だった。考えてみれば、当時は食品衛生法なども厳しく適用されておらず、着色料、人工甘味料、防腐剤などは使い放題だったのではないだろうか。色も毒毒しい訳である。それでも、そんなことはとんと構わない、呑気で危険な時代だった。だから、今でも一升瓶にはいった液体を見ると、懐かしさと、飲んでみたい衝動に駆られるのである。

  恐ろしい話 

 母から聞いた話は、終わりは明るいが一寸恐ろしいグリム童話やら日本昔話や安寿と厨子王の出てくる『山椒大夫』もあれば本当に恐ろしい話もあった。恐ろしいと思ったのは、実は実際にあった話として語られるものであった。気が狂った亭主が、その女房を包丁で切り刻んで煮て食べてしまったと言うものは本当に恐かった。何故か本当にありそうな気がしたためである。アイヌ神話を子供用に再編集した『黄金の首飾り』の中には、次のような物語があったと思う。鬼が罠に掛かった樵を担いで持ち帰る。食べようと思って縛って転がしておくが、樵を料理しておくように命じられた鬼の子供たちを騙して縄を解かせ、自分の代わりに子供たちを切り刻んで煮てしまう。それ帰ってきて知らずに食べて「俺の味がする。」と鬼が呟く。樵はなんとか逃げるのである。私にはこの鬼は現実の存在だった。決して物語り中の架空の話ではなかった。もし、父が発狂して、母を食べてしまったら、と想像して私は恐くなった。鶏にやる餌を煮る黒い鉄の鍋。中には鉞南瓜やら馬鈴薯やら魚の骨や頭が放り込んであった。その中に更に・・・と想像する。具体的な心象となって、その心象が残像となって繰り返され、私にのしかかってくるのだった。

 もう一つの恐ろしい話は、開拓者たちが羆に襲われ食われた話である。全員が食い殺されたのかどうかは分からないが、子供の時は全員が食われたのだと理解していた。我両親のように、都会から引っ越してきて、開拓をしようと集まった女子供たちが、ある日何かの集会で部落の会館に集まっていた。そこへ羆が現れた。羆は遠巻きにしていたのだったが、この女性たちの中に勇ましい人が一人いて、動物は火を恐がるので、火を見せれば追い払えるそうだ、と言った。そして、その言葉を他の人々は信じた。その結果、この蛮勇のあった女性はストーブの火を薪に付け、羆に向かって振り上げた。何と、これが羆を刺激してしまった。羆は木造平屋の会館に突進し、会館の中に入ってきた。逃げ惑う人々は次々と熊の犠牲になった。

 母は続けて言うのだった。熊に襲われたら、木に登ってはいけない、なぜなら熊は高名な木登り名人だからである。或いは、走って逃げてもいけない。熊は脚が早いからだ。死んだ真似をするのが一番いい。などと実しやかに教えてくれた。また、あるアイヌの樵は山で羆に遭遇し、熊の胸座に飛び込んで持っていた手斧で熊を仕留めた、尤も熊がこの樵を両前足で掴もうとした時に、彼の身体に熊の毛が刺さったのだ、とその跡を彼が母に見せて呉れたことがあると言っていた。私の母は、子供の頃喉に刺さった魚の骨を直径三センチもある骨だと表現して皆に笑われたと言っていた位の拡声器なので、全部が全部正くはないかも知れない。

 恐い話は、良く思い出してみると沢山あった。例えば、グリム童話の中の『鵞鳥娘』。彼女の可愛がっていた話の出来る馬ファラダは悪い妃のために首を切られて、市の門に掲げられると言う場面があった。或いは、アラビアンナイトの一つだったが、王のために殺された大臣の首が、仕返しに、毒を塗った本のページを指を舐めながらめくって読むように王に忠告し、その結果、指を舐めながら本をめくった王は死んでしまうと言うような物語。生首が王に語り掛ける挿し絵が不気味だった。記憶を確かめるために書棚を探してみると、古ぼけた本があった。アルスと言う発行所が昭和二年九月三日に発行した『日本児童文庫 アラビヤ夜話』の第一話『ユーナン王と学者ヅーバンの話』である。

 他には、既に雪の思い出で書いたように、『白い樵と黒い樵』『雪女』なども北海道の厳しい冬の情景に似ていて、現実感があり怖かった。アンデルセンの『雪の女王』なども、山賊の娘が登場したりして、幼い頃の不安感を増大させた。


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北海道の思い出 その16 [北海道の思い出]

    

 内地に引っ越してきてから、冬に雪を見られないと、私は淋しくなった。空がどんより曇り、雪片が舞い始めると、うきうきし始める。実は、今でもそうなのだ。「ゆきや こんこん あられや こんこん・・犬は喜び 庭駆け回る・・」中で歌われる犬は、私の気分をそのまま表している。雪は、吹雪いて視界を零にすることもあり、春の雪解け水が冷たくて足の指を霜焼けにするし、道路がぬかり長靴でないと歩けなくなるし、積もった雪を放っておくと屋根を潰してしまうこともある。しかし、それでも懐かしい。『雪女』『白い樵と黒い樵』『雪の女王』『ライオンと魔女』『雪渡り』など、雪の描写の出てくる物語はどれもその雪の存在をそのまま追体験できるような気がする。

 北海道の雪は内地の水気の多い牡丹雪と異なり、もっとさらさらしていた。雪の降った翌日晴れたりすると、姉や兄たちと橇遊びをした。白銀の世界で、真青な空、輝く陽射しの中で、子供たちははしゃいだ。

 雪と言えば、父が砂糖を掛けて食べた。それほどアイスキャンデーが好きだったのだ。

が、ある時、赤い雪が降った。ソ連が原爆実験をした証拠の雪だった。その雪を見て以来、父は雪に砂糖を掛けて食べることはなくなった。

 一九五四年三月一日、ビキニ環礁で操業中の第五福竜丸がアメリカの水爆実験による死の灰が落ちてきて、被爆した。

 

 田舎の金持ち自慢 

 こんな田舎の小学校でも、貧富の差が歴然としていた。私が今でもはっきりと思い出すのは、ある貧しい小さな少女のことだ。彼女の家は本当に貧しく、着るものがないと言う噂があった。この少女も彼女の姉も薄汚れたズボンの下には下着を履いていないと言うことだった。男子が「おい、お前パンツはいてないんだろう!」とズボンを引っ張って苛めていた。顔が小さくて見るからにか弱そうな、痩せた少女で、いつも小水の臭いが漂っていた。顔立ちは整っていたような気がするのだが。もう一人、特に貧しい少年がいた。大某君と言った。彼はいつも跣だったような気がするが、多分、ゴム製の短靴を直に履いていた。頭や足におできがあって、化膿していて、生臭いような臭いがした。彼も学級の中で苛めに会い孤立していた。いじめっ子が彼に暴力を振るおうとした時、大某君はストーブ用の薪を手に取って振り上げた。私も正義感に従って、大某君を庇ったように記憶している。大某君は薪で相手を殴ることはなかったが、皆驚いた。television set.JPGこの大某君は、私に好意を抱いてくれていたのか、秋に栗のなる所を私だけに教えてくれると約束してくれた。一才年上の上級生が、大某君に栗のなる場所を教えるように迫っていたが、彼が断固拒否しているのを知っていたので、私は嬉しかった。結局、関東に引っ越して来てしまったので、彼に栗のなる場所を教えてもらうことはなかった。

 片や、テレビが家にあることを自慢する少年がいた。蝶ネクタイをした、如何にも嫌味などら息子風の子だった。もう一人テレビが家にある子がいた。私も自宅にはなかったが、「東京の御祖父ちゃんの家にはあるんだぞ。」などと、妙な自慢をした。慙愧に耐えない。蝙蝠が鳥だと言うような、訳の分からない自慢である。誰もそれに対して、反論しなかったのだから、田舎の少年たちの理屈は素朴なものである。多分に「東京の御祖父ちゃん」と言う言葉が葵の紋入り印篭のような権威を持ったのではないかと今では思う。今でこそ落ちぶれてはいるが、実は平家の落人だったのだ、と言う屈折した誇りのようなものだろうか。そのものにどれだけの意味があるかは別にして、そのような誇りを持つ人が時々いる。誇りは人間として生きていくうえで、大切な要素である。(尚、我が家は平家ではなく、藤原氏系であることになっているようだ。)当時、東京は大都会で、今以上に外国のような別世界だったのだから。斯様に、人間は老若男女を問わず、自己の存在を大きく強く見せようと背伸びする傾向があるようだ。


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