電車の中で考えたこと [随想]
絵はどんなに本物らしく描いても二次元のままである。写真も同様。演劇空間も、映像空間も、観客が額縁の中を見ている限り二次元に過ぎない。
もし、この二次元的なものが三次元として体験できたら、理解はより深まることだろう。正面から見ている演劇や映像を、側面から、別の角度から見ることができるようになれば、全く異なった芸術が出来上がるかもしれない。
読書と言う行為も、文字を読んでいる(内容を追っている)限りではそれは至って二次元的な行為にすぎない。しかし、その文章の中に入り込んで、縦断的、横断的、俯瞰的、マクロ的、ミクロ的、など、の捉え方ができれば、より深い多次元的理解ができることになるだろう。
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自分の書いた文字が読めないとき、自分が書いたにも拘らず、その文字は書き手を離れ、独立した文字として存在することになる。寝惚けて書いた文字、夢現の中で書き止めた文字はそういうものである。書き手をして、解読者たらしめ、時々その努力を裏切ってしまうのである。自分の文字ながら、マヤ文明の文字のように、何を意図して書かれたものかが分からなくなってしまうのである。自分の文字ながら、神秘のベールに覆われてしまうのである。
自分の意図と異なる言葉(言い間違いではないもの)が口から出てきた時、意図を持っている自己が本物の自己なのか、意図と異なる言葉を発せしめた自己が本物なのか。自分が本来そうありたいと思っている自分は、本物の自分なのか?本来そうでありたいと思っていても、現実そうでないのであれば、そうでない自分が本物であろう。自分とは意志で変えられるものなのか、そうではないのか。変えられるものだとしたら、変えられる前の自分は、自分ではなかったのか。
ここには言葉の遊びがある。本物、本来と言う言葉が曲者である。そのようなものがない、としたら「本物の自分」と言う言葉自体が無意味である。意味は変化し続けるものであり、自己も変化し続けるものであるとすると、変化する前の自己は常に贋物、非本物であったことになる。しかし、変化する為には変化する母体が必要になり、母体を否定することは自己自身の存在を否定することになる。蝶々が自分の本当の姿は蝶々であり、芋虫の自分は本物ではないのだ、と主張するようなものである。自己は連続した存在であり、変化も連続した過程である。
※ここに掲載した絵は、本日京橋へ行った帰りに地下鉄の車中で描いた『朕は皇帝なり』である。太公望よろしく釣り糸を垂れているが、この男、自分が最高の権力者であり、その実力も評価されているものと信じている。その姿を人民が見守っている。
詩を書くための条件 [随想]
今日は、雨が降って空気が重い。こんなに空気が重いときには、考えることはまず何も出来ず、ただまとまりのない、方向性のない蟻地獄のような意志のようなものに引き摺られて時間が過ぎてゆくのを見ているだけなのだ。私は、たまにこのような無気力に陥る。折角計画していたことが、天気のためにすっかり台無しになってしまうことがあるのだ。そう、晴れれば運動会だったのに雨が降ったために中止や、延期になるようなものだ。打開策が見つからないので、9月6日に電車の中で書いていたメモを書き写しておこう。
『詩を書くための条件』
まず、君は熊であってはならない
あるいは、ピラニアであってもならない
もしくはティラミスであっても
笑わぬアトスであっても、優柔不断の権化のようなハムレットであってもならない
更に付け加えれば、
鉄筋コンクリートの塊であるところのビルヂングであってはならないし
新幹線の運転士の退職後の夢であってもならない
(単線区間の運行をタブレットで管理するなぞは過去のことになってしまった)
詩を書くためには
月並みではあるが君はガラス細工にならなければならない
と同時に、ドン・ファンやカサノバのような破廉恥漢にならなければならない
体の中には地球独楽がなくてはならず
頭の中には鳴戸が回転していなければならない
そして、胸の奥には天空に伸び行く螺旋階段がなければならない
これで充分かと言えば、
人間の欲望に充分と言う言葉はない
なんとなれば、人間はいまだ見ぬものを常に追い求める宿命にあるからだ
かく申す私、詩の一編を書いた時は
犬吠岬でトランペットを水平線に向かって吹くのが習慣だ
書き上げたと言う満足感が、作曲家をして百メートル全力疾走せしめるように
あれは、三年前のことだったろうか
私のトランペットに合わせて無数の流れ星が海におち
ラインダンスを踊ったのも覚えている
それは昨日のこと
私は自分の書く詩が受け入れられないことで
自分が詩人であることが分かった
「通りぬけ無用で通りぬけが知れ」よろしく
受け入れられると言うことは、即、他者によって作られた価値観に一致する
そういうお墨付きなのである
あぁ、だから自由に羽ばたけば宜しい
すべて脱ぎ捨てて気儘に走れば宜しい
貰った物を全部放り投げて、雨の中で踊れば宜しい
風の中で、音痴の歌を大声で歌えば宜しい
石があろうが水が涌いてこようが、地面をどんどん掘れば宜しい
工房集作品展『生きるための表現』を見に行く [随想]
受付で名前と住所を記入し、作家の一覧と投票用紙を受け取る。「気に入った作家の名前を3人書いて下さい。一位と成った作家は工房集で個展を行います。」とのこと。こういうのは非常に好い企画だと思う。
作家達はアウトサイダー・アーティストと呼ばれる人々であり、芸術の伝統的が訓練を受けていない。この無垢の部分が私にはとても共感できるのである。既に作り上げられた価値観から自由な感性の人々が、自分の気の向くままに作品を作るのである。ウィキペディアで確認したところ、フランス人画家ジャン・デュビュッフェが作ったArt Brut(生の芸術)をイギリス人ロジャー・カーディナルがoutsider artと言う英語に訳し替えたそうである。そして、このoutsider artは絵画や彫刻だけでなく、服飾、映像、文学、音楽などとしても現れる、また、ある種のインスタレーションや建築、造園などにも、とも書いてある。要は、正規の教育を受けていない芸術活動全般に適用される定義のようである。
一枚目の写真は、渡邉あやさんの作品で、東さんが携帯の写真で紹介していた絵のシリーズである。この作家さんは飛行機のある風景を描いているのであるが、私がこれらの絵を見ていて思ったのは、非常に二次元的な絵画だと言うことである。西洋絵画の基本は如何に三次元を再現するか、画面と言う二次元の世界を克服するかにあると思うが、そのようなことは全く意に介していない。平面に好きなものの形を描き、それを色々な線で区切り、その線に囲まれた部分に好きな色を丹念に塗ってゆく、その作業の集大成が作品になっている。
二枚目の写真は、西川泰弘と言う作家の作品である。電子顕微鏡で見たミトコンドリアのような形であるが、これは細部まで丁寧に描きこまれている。相当に時間が掛かるのではないかと思う。
三枚目と四枚目の作品は、鶴岡一義さんの作品である。入り口から近い展示場所に置いてあったので、直ぐに私の目を惹いた。何と楽しい作品だろう。作家の紹介には「はじめはペンキで色を塗ったり、のこぎりで切ったり、それを張り付けたりしていた。その後、木のパーツにペンで丸を書くようになる。その何度も描き込んだ丸の色合いはカラフルで奥深く吸い込まれてしまうような錯覚に陥ってしまう。」と書いてある。近付いて見ると確かに丸が書かれていたりして、雑然とした印象があるのだが、一寸離れて見ると、とても楽しい気分になってしまう。架空の街の鳥瞰図のようにも、クレヨン王が治めている街の一部のようにも見える。
そして五枚目の写真は横山涼さんの作品である。作家紹介には「木で作った飛行機はなかなかない。最初は箱作りから始まり、今は飛行機へと変化していった。『稲妻』『龍』『魔の鋼』などタイトル通りダークで毒々しい作品が次々と生まれている」とある。この箱と飛行機の作品群にも私はすっかり魅了されてしまった。飛行機がなんだか生き物のように見えるのである。この写真に写っている銅板の張ってある飛行機は銅版ヒコーキ、その右側のものはボートヒコーキと言う名前が付いている。ボートヒコーキはその胴体の上に、2艘のボートが載っている。他にもスキーヒコーキ、ローズヒコーキ、トナカイヒコーキなどと言う名前がついている。スキーヒコーキは車輪の代わりにスキーが付いている。彼の作品は、何箇所かに展示してあったが、一つの壁の一面に飛行機ばかりが展示されていて、圧巻だった。
残念ながら、途中でデジタルカメラのバッテリーがなくなって撮影できなくなってしまったため、7枚ほど撮っておしまいになってしまった。(撮影は許可されている)
写真にないが、書道の作品もあり、これも味があった。「リストラ」とか「ブサイク」など、半紙に書かれている言葉がちょっと悲しいが、作品としては好かった。
私は、自分にも共通する部分があると感じている為だろうが、Art Brutは好きである。飽きることない執拗さ、それが芸術の根源的な力なのだろうと、漠然と思っている。明日まで開催。
ゲリラ豪雨から [随想]
先日、ゲリラ豪雨を予測できるかどうか、天気予報の精度はどこまで高まっているのかと言うテレビ放送を見た。その時に、山梨県の葡萄栽培農家がゲリラ豪雨がどのような被害を葡萄の収穫に及ぼすかを説明していた。実が熟す頃に大量の雨が集中的に降ると、葡萄の実は水分を吸い込みすぎて皮に亀裂が入ってしまう。そのため、売り物にならなくなる、と言う話であった。
昨日は電車のなかで、この葡萄が破裂してしまうという現象から、あれこれ考えていた。(昨日は「新宿クリエイターズ・フェスタ2012」の「河口洋一郎&さかもと未明トークセッション」~テーマ「無限の感性」を12:30から14:00聞きに行った。)最初に思い出したのは先天性無痛無汗症という難病である。走っていて転んで膝小僧を擦り剥いても痛みがなく、骨が折れてもそのまま走ってしまう子供。そのような症例をテレビで見た時は大きな衝撃を受けた。痛み、暑さ寒さ、美味しさ不味さ、音の強弱、距離の遠近などを感じることが出来ることの大切さを改めて考える。植物は、しかしながら、まるでこの無痛症と同じではないか、と改めて気付いた。雨が降れば、水を必要としているといないとに拘らず、根は機械的に水を吸い上げてしまう。葉が付いていれば、葉が水分を蒸発させるので、否でも応でも水を吸い上げる。だから実が破裂する。水を遣りすぎると根腐れを起すこともあるが、これは葉から蒸散させる水分よりも地中の水分の方が多いと言うことであろう。子供の頃に我が家にいた雌犬は、可哀想に、常時空腹感を持っていた。ある時母が三食分くらいの分量を序での心算か、出しておいた。後で見に行ったら、すっかり食べてしまって、お腹もずんどうになっている。彼女の名前を呼んでも、いつものように喜んでワンと言えない。く~っ、と言う悲しそうな声しか出せない。猫は「猫食べ」と言う言葉があるように、少しずつしか食べず、沢山あっても全ては食べようとしない。この違いはどこから来ているのだろう。単に我が家の雌犬が、犬の例外的個体だった可能性もある。
自律できるかどうかは、動物にとってその命の長さを大いに左右する。にも拘らず美味しいから、と言って甘い物、辛いもの、塩辛いものを過度に食べる人は多い。
猫に人間用の弁当のおかずの余りなどをやると、塩分が多すぎて、猫の腎臓を弱める可能性もあるようだ。
人間も他の動物も、実際の行動を見ていると、他律的な植物とあまり変わらないかもしれないと言う気がする。不必要なものであっても、旨いという理由で摂取してしまうことがあるからだ。それは個々人の人生観であり、別に悪いことではない。健康管理を十分にして長生きすることだけが幸せだとも言い切れないからである。
そうなると、やはり各自お気に召すままご自由に、但し、周りに迷惑を及ぼさないこと、と言うことになるのかもしれない。
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序でに、「河口洋一郎&さかもと未明トークセッション」について。このセッションの観客は、HALの学生さんが60から70%を占めていたようだ。河口先生のお話は、その考え方が分かり興味深かった。1980年代からCGに携わっていらっしゃったそうだが、当時はCGは画像が粗過ぎるので止めた方がよいと忠告された。が、やり続けていたお蔭で、現在はCGで作ったものを、実際にビニールやFRPなどで立体的作品にして、それを世界各国で展示発表している。
とにかく、面白い先生と言う印象。火星を歩く為の蝶形のロボット。火星では地球のような空気ではないので飛行できないから、蝶は歩行する方法を取っている。(何故、蝶々である必要があるのか?と考えるのは野暮である。)多忙なので、移動中に構想を練るそうだが、その時は蚯蚓だけ、或いは蟹だけについて真剣に考えてメモする。それを覗き込んで質問してくる奴がいるが、冷たく突き放すのかと言えばさにあらず、新しい出会いにもなるので、必ずしもこういう出会いについては否定的ではない。杉の植林を林業の一つの政策として全国行ったために、本来の植生が乱され、森自体が大きな問題になっている、本来の植生に戻すことが大切だ、と話されたり。彫刻を作るためには大きな桂の木が好いそうだが、その桂の木が杉を植林した為に、日本にはなくなってしまっているそうである。京都染色業者がどんどん廃業を余儀なくされている、これは日本文化を守るために大問題だ、などなど、話が途切れることもなく続く。科学的なのか芸術的なのか分からなくなるところが、とても魅力的だった。
残念ながら、同席した女性が、途中で口を挟みすぎて、河口先生も充分にお考えを伝え切らなかったのではないかと感じた。(大愚良寛の教え「ひとのもの言ひ切らぬうちものいふ」)
*今回の絵は、大学ノートに描いた手遊び。
Habiraki 2010-9-23木曜日 [随想]
このところ気分が沈み気味で、創造的なことができないでいる日々が続いていた。昨日も休みではあったが、一寸だけ仕事のようなことがあり、保土ヶ谷まで出た。その後、新百合ヶ丘の本屋で韓国語の本を探す。私はへそ曲りで、皆が始めるとやる気が失せる。30年近く前に、釜山とソウルへ行く機会があり、韓国語の勉強を少しだけしたのだったが、金船長に韓国語版千字文も頂戴したのに、それ以来ほとんど全くやっていない。今回、仕事の関係で、調べておいたほうがよいと思われたので、どのような本があるのかを調べに本屋へ行く。しかし、ちゃんとした新百合ヶ丘の本屋は廃業しており、古本中心の本屋しかない。そういう売り場は置いてある本の幅が実に狭い。さっさとこの本屋を去った。本来書店は、最新の情報、或いは思いがけない発見があるので、楽しい場所であるにも拘らず、アマゾンや電子書籍に押されている。実に残念である。
結局は、家に帰ってから、インターネットで調べる。そうするとアマゾンで私の求めている本が出てくる。実に便利である。やっぱり書店より便利・・・などと考えてはならないのだろう。
今朝、昨日五月台駅のビーバートザンにてコンクリートブロックを注文しておいたものを、今朝赤帽さんが配達してくれた。図書館へ行くのを止めて部屋の片付けを行うことにする。此のところ台風十二号の影響で気圧が変化しているので、体調が酷いのであるが、雨が降り始める前は頭が重くなり、思考力が全くと言っていいほどなくなる。それでもなんとか有意義な日曜日にするために、今日は睡眠を十分にとり、気力を回復する。そして、やっとのことで部屋の中を、本来の姿の半分くらいまで戻すことができた。少しだけ達成感がある。
さて、今日の絵はハビラキ(羽開き)Habirakiである。私の妻は蛾のことをガGaと呼ぶのがお嫌いなのである。人間の都合で、勝手にガと言う、汚らしい音の名前で呼ぶのはハビラキに対して、大変失礼であると考えているのである。そして、私はこういう考え方が大好きなので、私もこの呼び方をするようになっている。 だから、フクラスズメ、トラガ、クスサン、モモスズメなどを見ても、「あっ、ハビラキだ。」と言う。個々の名前は図鑑を見なければ分からないが、総称としてはハビラキなのである。
無意味と創造 [随想]
そして、昨日はgalapagosさんが紹介していたYoutubeで『飢餓海峡』を見た。この作品は名前も知っており、一部見たことがある筈である。しかし、昨日初めてしっかりと鑑賞することになった。釘付けになった、と言った方が適切である。背景に描かれている昭和20年代の風景、上野駅、青函連絡船の映像などもよかったが、特に惹きつけられたのは名優達の演技であった。三國連太郎、左幸子、伴淳三郎。これだけリアルに演じられる人々が、この重い作品を演じたのである。甲乙付けがたいが、特に私には伴淳三郎の刑事が強く印象に残った。貧しく苦しくとも妥協をしないで、自分の信じるとおりに行動し、失敗者として扱われた男。10年後、彼は彼の持っていた証拠によって犯人の心を動かす。鈴木尚之の脚本も好いが、演技も素晴らしい。見た後にウィキペディアで調べると、伴は内田吐夢監督に徹底的に駄目だしをされて落ち込んで自信喪失したと書いてある。この自信喪失した姿が、大変なリアリティとなって見る者を打つのである。監督や演出家は俳優を鍛える為、或いはその能力を最大限に発揮させる為に、自分自身が鬼を上手に演じることができなければなら無いこともある。
ところで、今日の題は『無意味と創造』である。結論、創造とは無意味に意味づけをする行為である。意味がないと思われているものに、一定の視点でとらえた方向性を与えることによって、無意味が意味に反転する作業である。
例えば、私は1箱のクーピーペンシルをまだ使い切ることができない。水彩絵具は、使い切ってしまった色がいくつもあると言うのに。そこで私は、クーピーペンシルを使い切ることも創作活動目的の一つにすることにした。出来るだけ多く減らすためには紙の全面に色を広げて塗ることである。こうやって私は下地を作る。沢山残っている色を最近は必ず使うようにしている。この下地作りで出来る画面には意図された意味がない。無心、虚心坦懐の状態で、只管紙に縦横無尽に腕を振り回しながら塗っているだけである。特に意味を持たせないでいようと言う意図があるだけである。しかしながら、色を重ねてゆくとそこに自然発生的にいくつかの形が浮かび出てくる。これは物理的な現象である。そこに意味を感じると、いつの間にか絵の方向が決まってくる。今日の例で言うと、下地を塗りながら都市の孤独、ジョルジュ・ブラックの絵を思い出し始めると、私の手はキュビスム的な画面にするように動き始めた。意味の無い縦横の線であったが、囲まれた部分に別の色を塗ることによって、それらが面として別の意味を持ち始めた。自分でも何故このようなことをしているかは分からないが、自分の行為が、無意味から意味を作り出そうとしていることには間違いがないと感じていた。
音楽でも同じである。音色、音程、リズム、強弱などは誰でも作り出すことができるのであるが、そこに方向性を与えることによって一定の意味を持たせることができると音楽作品(作曲)になるのである。
文学でも、科学論文でも然りである。林檎が枝から落下するのは知っていても、そこに意味を持たせることができるかどうか、これが意味と無意味の決定的な相違である。
『ファウスト博士』 [随想]
トーマス・マンのこの小説は買ってから随分長いこと本棚に置いてあった。『魔の山』、『ブッデンブローク家の人々』、『ワイマールのロッテ』を読んだ時に買ったので、もう15年以上前のことである。そして、やっと今度読了することが出来た。職場にいる美術学校でも教えているK先生がこの作品は面白いと言う強い推薦があったので、読み始めたのであった。
感想は、やたらにだらだら長い、である。クレッチマーと言う音楽の教師、娼婦ヘタエラ・エスメラルダ、悪魔との対話、天使のような少年ネポムクなど興味深く、引き込まれる描写もあるが、天麩羅で言うところの衣が多すぎる。シェーンベルクの十二音音階を参考にしている、とK先生が言っていたので、とても期待して読み始めたのだったが、私の期待していた芸術論はあまりなかった。主人公のAdrian Leverkuhnアドリアン・レーベルキューンは、フリードリッヒ・ニーチェの生き方を写している。アドリアンは閉塞感のある音楽の突破口を開く為に梅毒に感染し霊感を得ると言う設定になっているようであるが、如何にも不自然である。麻薬や覚醒剤を使って気分を高揚させて、自己自身の管理能力を不能にすることによって別の世界を切り拓こうとする人々と同じである。この方法は正しく無いばかりか、自己自身を失ってしまうのであるから、自分の作品であると主張することができないかもしれない。自己自身でなくなった時に作り出されたものの中に、覚醒した時の自分の美意識で、拾い出して再構成すると、それは独自の作品と看做されるだろう。私としては、エスメラルダについての描写が少ないのが残念である。欲望に任せて梅毒に感染するよりは、エスメラルダの魅力に感染して欲しい。
この小説は「結局はドイツ気質を扱った」作品であるとマン自身が書いているそうだが、英語版のウィキペディアに書いてあるように、いろいろな解釈、楽しみ方があるのだろうとは思う。英語版ウィキペディアにはアドリアンの梅毒の感染は、ドイツ人のヒトラーへの感染を描いたことは明白である、などと書いてある。そんなに言い切ってよいものでしょうか、と思ったりする。歴史もいくつもの解釈があり、論文だって様々な角度、視点から読まれると、更なる創造、発見に繋がるものだと思う。
長編は苦手であるが、また少し読んでみよう、などと企んでおります。
本日の絵は、職場で問題解決に忙殺されている自分を解放した時に手の赴くままに描いたもの。ピノッキオのような形とライオンか熊のような形が出てきたので、そのまま童話の挿絵のような絵になった。
井原西鶴『本朝二十不孝』 [随想]
今日は、土曜日の振り替え休日。
さて、今日は西鶴の小説について書いて置きたい。一昨年2009年12月24日に水道橋駅近くの古本屋で購入した井原西鶴の『本朝二十不孝』(岩波文庫)。頁の途中には東大生協のレシートが入っていた。それを見ると購入年が1976年で☆三つなので定価300円であるが、大学生協だから一割引で、270円で購入している。こういう過去の証拠にであうことがあるのが古本の面白さでもある。
巻一の(一)だけ読んで放置しておいたものを、昨年末から読み始める。帰宅時の電車の中でしか読まないので、なかなか捗らない。やっと先日読了。どれも面白い。その中の一つがオセロに出てくる副官のイアーゴーを思い出させたので書いておきたい。
巻四(三)木陰(こかげ)の袖(そで)口(ぐち)曇りなき身を、うたがはるる程、世に、迷惑なる事はなし、天、まことをてらし給へ共。其時節を待ず、身を失ふも悲し。心の浪風たつも、人の云なしにして、是非なき事有。・・・越前の榎本万左衛門というお百姓がいた。商売も賢くやっていたが、うまく行かず裸一貫になってしまう。妻も乳飲み子、万太郎(万之助)を残して死んでしまう。育てかねて辻堂に捨てるが、雀が子供を育てているのをみて思い直す。
その後商売をしてあちこちの村を訪ねていて、ある後家に出会い、再婚する。この嫁は見苦しくない上にたいそうな働き者だった。そのため家も豊かになる。
万太郎も十六歳の見た目のよい男になる。しかし、見た目と異なり、年中親に逆らっていた。継母が之を注意すると逆恨みし、継母を落とし入れようとして、父親に継母が自分に戯れてくるので人聞きが悪く無念だ、と嘘をつく。その証拠に、父親に自分と継母と一緒にいるところを、隠れて見るように言う。万太郎は庭の柿が色づいたので取ろうと継母を誘い、首尾を見計らって、自分の首筋に背中に虫が入ったようだから早く取ってくれと言う。継母は言われるままに袖口から手をさしいれてみるが、何も居ない。
この様を見た万左衛門は、すっかり息子の言葉を信じ、理由も言わず妻を追い出してしまう。絶望した継母は出家。
しかし、悪事千里を走るで、この万太郎の悪事は知れ渡り、万太郎も身の置き所がなくなって京都の方へ行くが、その途中大きな雷が落ちて、万太郎をさらって行く。
この『本朝二十不孝』は、どれも味わいがあって面白く読むことができた。巻五の(二)『八人の猩々講』と言う大酒のみの話も、三十三間堂通し矢に擬した三十三矢数酒のことが書かれていて、江戸文化の一端が窺われ興味が尽きない。
続く巻五の(三)『無用の力自慢』。これは題だけでも笑ってしまう。無類の相撲好きで親の言うことも聞かず相撲に勤しんで、自分は強いと思い込んでいるが、怪力の力士に投げ飛ばされ、半身不随になり親に面倒を掛ける親不孝者。
今、鞄の中には『日本永代蔵』が入っている。日本の古典は面白いと思う。
"Pygmalion" (1938 British film) [随想]
2010年12月18日(土曜日)
今日はイギリス映画”Pygmalion”のDVDを二度見る。一度昼に見て、夕方再度見る。原作者のBernard Shawが脚本も書いている1938年制作の映画である。Leslie Howardのヒギンズ教授とWendy Hillerのイライザ・ドゥーリトゥル。Ingrid Bergmanにも少し似ているウェンディー・ヒラーは、1912年生まれの2003年に亡くなった英国の映画・舞台女優である。バーナード・ショーはウェンディ・ヒラーがお気に入りだった、とウィキペディアには書いてある。原作とは異なり、ハッピーエンディングになっているが、やはりバーナード・ショーはそうすることに対して乗り気ではなかったようだ。非常によく書かれている台本である。全く隙がない。だからこそ、舞台ミュージカルを映画化した”My Fair Lady”が面白い訳である。1964年製作のミュージカル映画『マイフェアレディ』は、殆どこの映画”Pygmalion”に準じているので、その完成度の高さに感心する。
ヒギンズ教授の部屋にある最新の録音機、オシロスコープなども魅力的である。
Only foreigners who have been taught to speak it speak it well.
そして映画とは何の関係もない絵。クーピーペンシルと黒のサインペン、黒のボールペン。
私の諺、喩え集 その1 [随想]
2010年12月12日(日曜日)
私の作った諺と喩え その1(2010年12月7日分)私の家には以前、最大同時期に6匹の猫がいた。その中の何匹かに私は悪戯をしたものである。気持ちよさそうに座布団の上で昼寝しているその長閑な姿を見ると、つい手が動いてしまうのである。髪の毛を一本抜いて、すーすー寝息を立てている寅次郎君の鼻孔に挿し込む。鼻の粘膜に異物を感知した次郎君は首を振ってそれを取り除こうとする。しかし、私は諦めない。再挑戦。そうすると、異物を体が反射的に噴出そうとしてくしゃみが出る。これを見て、やはり鼻の中に入った毛は、くすぐったいのだと分かる。
猫の鼻孔に髪の毛を入れるような予期せぬこと、くすぐったくくしゃみも出るではないか
象は、アフリカ象にしろアジア象にしろ、その体重は単位が噸である。感動的な重量である。その体を支える足はそれ故扁平で、体重を均等に分散できるようになっているし、土台構造そのものが鉄筋コンクリートのようですらある。象の足の裏を擽ってみたいという衝動に駆られたことがある。残念ながら実験できないでいるが、恐らく革靴を常時履いているようなものであるから、擽っても笑ってはくれないだろう。
象の足裏を擽る全く効果がない
猫には炭水化物の大好きな種類の物がいて、面白い。もうとうに死んでしまった桃子という猫は、パンが大好きだった。桃子を家の中にいれたまま外出することがあったが、夕食に食べようと思っていたパンが、ビニール袋を食い破って食べられ床に落ちていたことがある。貧爾君もどうようで、スナック菓子が大好きで、千切ったものを放り投げると飛んで行って食べた。ある日スナック菓子投げの途中で食べ物ではないものを放り投げたら、首こそかしげなかったが、臭いを嗅いでから判断の付きかねる顔つきをしていた。
ライオンがシナモンクッキーを食べたような顔不得要領な様
劇団木馬座時代にNT君という、東京造形大学を卒業した小道具方のアルバイトが来てくれた事があった。彼は制作室で仕事の合間に有名人の物真似をしてみせてくれた。それが全く似ていなかった。だから似ていないことが面白かった。その彼の下手な物真似を私がしてみせたら、「そりゃぁ、彼に悪いよ。」と言われ、随分落ち込んだことがあった。
鸚鵡の真似をするインコ物真似の物真似をする、その空しさ
最近の職場での話。日本の若い女性が長い付け睫毛をしているのが目立つ。日本人は彫が浅いので、ああやって陰影をつけて彫を深く見せようと努力しているのやら、あるいは目力と言う新兵器を装備しているのやら、と子供も巣立っている女性に言う。日本人には日本人の美しさがあるというのに、なぜ。でも私も若い頃は、自分にないものに憧れたものである。
麒麟と脚の長さを競う徒労、無駄な行為
馬鹿な話であるが、無知とは多くの無駄な経験をさせてくれる泉である。小学校3年生の時だったと思うが、温度を測るには温度計を使うのだということを理科で習った。ある夏の日、私はふとした出来心で、熱湯の温度を調べてみることにした。薬缶でお湯を沸騰させると金盥に注ぎ込む。その中に室温計を入れてみた。みるみる赤いアルコールが上昇してゆくので、流石にお湯は温度が高いなぁと感心していると、パチンと音を立てて割れてしまった。しまった!お湯は百度だった!と気づいたのは、アルコールがお湯に流れ込んだ後だった。
毒茸を食べてみる過剰な経験主義