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劇団木馬座の思い出 - 補遺その1 [劇団木馬座の思い出]

劇団木馬座の思い出-補遺その一 二〇一〇年七月十一日 日曜日

 

 手元の手帳(東海銀行の手帳)から、出来るだけ記憶を辿りながら書いてみる。メモを見て分かるのだが、制作助手の仕事は、細かい連絡事項、注意点、配慮が多い。

一九七六年十一月二十七日、東音スタジオ(新大久保下車、池袋の方向に五十メートル)。*ハセサンジさんが『ねむり姫』の案内役である老人の声を録音し直することになったが、その録音に立ち会うの時のメモである。HDさんに連れて行ってもらった。

 十一月二十九日、川崎市生田にあった倉庫にて、『ピノッキオ』の小道具の色塗りをし『ねむり姫』の小道具と面を持ち帰り、その後双葉学園にて『ねむり姫』出演者達に紹介される(午前十時)。*欄外のMEMOには《ピノッキオのしかけ》孔雀の羽を工夫すること、と書き込み。

 十一月三十日火曜日、四ツ谷のスポーツ用品店(四ツ谷三丁目のミカド運道具店)へ、ヘルメットの予約したものを取りに行く。(午前十一時以後)序でにフラフープを買う。

 十二月一日。オーディション(一時から四時)HD氏、IY氏、信濃町の東医健保会館にて。

 十二月二日。エミさん、ハセサンジさんにHD氏連絡しているかどうか確認。*これは『ねむり姫』の振付を担当しているエミ先生と、録音をしなおしたハセサンジさんを稽古場の予定について知らせているか、と言う確認をするように誰かに指示されたものだと思う。

 十二月四日。生田倉庫にて、トラックに直しの大道具を積み込む。

 十二月六日。SBS(東銀座にあった音響担当の会社)に五時までに行く。新運転(運転手協会)のTKさんにも、『ピーターパン』を持ってゆく日時。(を知らせるという意味)二十日以降は未定。*これらの指示はHDさんからされた記憶がある。

 十二月十四日。小割り、垂木、半分のものを四本ずつ。

 十二月十七日。『ねむり姫』の衣裳、面、小道具を倉庫へ持ってゆくこと。(会社にあるもの)

 十二月二十一日。制作費一万円預かり。東横の通行証を人数分。

 十二月二十二日。『ねむり姫』『ピノッキオ』招待券を三枚ずつMDさんに。ビニール袋買い。*ここのMDさんは『ねむり姫』の魔女役をしていたMDさんである。

 十二月日付不明。SBSのSBさんの(東横ホールでの)仕込みは二十三日午前九時からエレベーターを使用することもありうる。映写機使用後の電源のスイッチを切ること。

 翌一九七七年一月七日は東医健保会館で下稽古(シンデレラ)

 一月八日。浦和埼玉会館で『シンデレラ』九時からゲネプロ。一時半開演。*と言うことは前日七日に搬入仕込みが行われていることになる。

 一月十日と十一日は横須賀市文化会館にて『ねむり姫』。その後十二、十三日には相模原市民会館、十六日には立川市民会館。二十二、二十三日は草加市文化会館。*この時私は相模原、立川、草加には行っておらず、別の公演で行くことになる。

芝居の稽古などの日程を記しておくことにする。sleeping beauty 2010-7-11.JPG

一九七六年十二月五日から十日まで、四ツ谷駅近くの双葉学園同窓会会館にて、十時から午後九時まで『シンデレラ』の稽古。六日の土曜日のみ午後五時まで。同時進行で『ねむり姫』の稽古も。同会館にて、十二日から二十日まで一部新作の『ピノッキオ』の稽古。十二日は土木健康会館にて実施。十六と十八日は新宿体育館を予約するが、確保できず中止か(手帳の別の頁には新宿体育館で一時から九時下稽古と書いてある)。

 十二月二十土曜日、千葉市民会館にて午前十時から『ねむり姫』の搬入と仕込み。その後、十三時より二十一時までゲネプロ。翌日二十一日日曜日から二十二日月曜日の二日間公演。日曜日は十時半と一時半開演で二回、月曜日は十時半開演一回のみ。二十三日より渋谷の東急東横ホールにて二十七日までクリスマス公演。二十三日のみ十時半開演、他は午前の部のあと午後一時半開演の二回公演。翌年一九七七年一月十日には横須賀市文化会館にて二時半開演。翌十一日には、十時半と二時半の二回。その後は二月十一日に江東公会堂で、九時五十五分と一時十分の二回開演である。開演時刻が変則的なのは、恐らく搬出を完了する時刻が厳しく制限されているためであろう。

同時進行で、十二月二十一日に有楽町の読売ホールにて『ピノッキオ』の仕込みおよびゲネプロ。二十二日より二十四日まで公演。二十五日より二十六日は藤沢市民会館にて公演。

手帳にはこんなメモがある。十二月十九日から二十二日まで毎日、新百合ヶ丘から柿生駅に出て、そこからタクシーを使って帰宅。ゲネプロや芝居の駄目出しを夜遅くまでやるので、小田急多摩線の最終電車がなくなってしまったのだろう。

その他この手帳に書かれているのは、『錯覚の本』千二百円、『チェーホフ全集』第一巻と十六巻、それぞれ千五百円、バイロンの『Don Juan』千二百円『Manfred』千円。技術の参考書五百円、ファッション雑誌千円。*この中で買っていないのは技術の参考書である。錯覚の本は、舞台の小道具を作成する際のヒントがあればと考えたのだと思う。ファッションの雑誌は、舞台衣装はファッションの先端を行く部分があってもよいのではないかと考えて、購入した。尤も、あまり参考にはならなかったが。

この手帳には散文『南武線のジェニファー・ジョーンズ』と詩『太陽を呪う男』が書かれている。


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劇団木馬座の思い出 その35 [劇団木馬座の思い出]

 劇団木馬座ではいろいろな人々に会うことができた。それもあの時代の懐かしい思い出であるばかりか、私にとっての宝物でもある。人間は、素晴らしい人間に出会うことによって、触発されたり、感化されたりして、今までなかったり、不足していた部分に、少しずつ新しい自分が形成される。
 大道具方の人々について。先ず、思い出すのは日本大学芸術学部卒業したNGさんだった。彼は大道具方として、入って来た。私よりも四、五歳年長者で、劇団ロバと言う人形劇集団に属していたそうだ。その劇団が潰れたのか何かで、やってきたのだ。既に劇団での経験があったので、彼は一緒に入ってきた同僚に対して、何かと世話を焼いた。OKさんから「NG君は、一言多いんだよ!」と嫌味を言われていた。経験がある人ではあったが、木馬座と言う職場での経験はなかったので、同僚より優れていたかと言うとそうでもない。NGさんについて思い出すのは、彼が『種の起源』を読んでいたことである。私と言えば、ダーウィンについては岩波新書『ダーウィン』と『ビーグル号航海記』を学生時代に読んでいたが、『種の起源』は未読だった。昼食後、日向でシートか何かに腰掛読んでいるので、私は「
何で読んでいるんですか?芝居の役立つのですか?」と尋ねた。「何でもいいじゃぁないの。読んでおかなければならないのだよ。」彼に刺激されて、私は後日『種の起源』を買った。そして、現在になってやっと岩波文庫の三冊目を読んでいる。彼がカップヌードルを昼に食べた時のことだが、「塩分は体によくないからね。」と言ったので、汁を捨てるのかと思いきや、お湯を注いで汁をみな旨そうに啜った。「そうやったら塩分の摂取量は変わらないのでは?」と私が聞くと、にやりとして「あっ、そうか。」と言う。日芸と言うと、逸材を輩出する学部であるが、NGさんは今何をしているのやら。
 木馬座の後、前進座の大道具方となった俳優志望のOTさん。彼は、色黒で背が一八〇センチ近くあり、細身だが並外れた腕力があった。裏方には力自慢が結構いた。それなりに皆鍛えているからである。OTさんに、どうして力がそんなにあるか尋ねてみたら「俺、土方やってましたから。」と笑って答えた。やはり土方と言うのは大したものだ。ちょっとやってみたい、と思ったが、結局、その経験はないままである。
 *ここに紹介する写真は、なぐり(舞台用ハンマー)、小鍛冶(こかじ)、釘三種類、二寸、一寸五分、八分。stage hammer, etc.2.JPGなぐりは、六本木にあった俳優座大道具で購入したもの。退職後も日曜大工で愛用している宝物。柄の頭の部分は、金具でしっかりと固定され、飛んで行かないようになっている。反対側は斜めに削ってあるが、これは、搬出準備で大道具を解体するときに、パネル同士を繋ぐのに使う貫(ぬき:幅10センチ、厚さ1センチの板)をパネルから剥がすときに、パネルと貫の間に差し込んで梃子のようにして使うためである。ちょっとした工夫であるが、こうなっていないとなぐりは使い物にならない。なぐりを持っている者は皆同じようにしている。
 小道具方では法政大学国文科卒業のKNさんがいた。彼は青森県の出身だったと思う。いつもにこやかで、温厚で立派な人物だった。彼とは好きな作家の話をしていて、ケストナーで盛り上がった。彼が好きな作品は『飛ぶ教室』である。私もケストナーの作品では、この作品が一番好きかも知れない。劇団木馬座では『五月三十五日』と言うケストナー作品を上演していた。子供の頃その舞台を母に連れられて弟と一緒に観に行ったことがあった。ケストナーは姉が岩波書店のシリーズを何冊も持っていた。『エミールと少年探偵たち』『点子ちゃんとアントン』『ふたりのロッテ』『動物会議』『サーカスのこびと』『私が子供の頃』など。KNさんは、『飛ぶ教室』の冒頭も好きだと言った。ケストナーがクリスマスの物語を書く為に、ツークシュピッツェ山の麓の湖畔にやって来る。そこでケストナーは蝶にゴットフリートと言う名前をつけて呼んだり、子牛のエドアルトに話しかけたりしている。ケストナーが使うのは緑色の鉛筆と沢山の原稿用紙である。この緑色の鉛筆がKNさんには、とても印象的に記憶していると言っていた。緑色の鉛筆、と言う表現が美しいから、そして、この『飛ぶ教室』に描かれる少年達に相応しいからだとも。主人公のマルティンが大好きで、涙がでそうになるくらい感動した、と語る彼は、とても情熱的だった。本に書かれた文字、単語、物語をこのように読み込み、愛することができる人がいるのだ。私もケストナーは好きだ、と思っていたが、その程度がまるで違っていた。好きだと言うのは、こういうのを言うのだろう。
 木馬座を退職してからも付き合いがあったBB君のことを簡単に書いて置きたい。彼は九州出身であった。大学を中退し、演劇か音楽かで身を立てるために上京してきたのだった。彼は大学在学中に日本書紀に基づき、ヤマトタケルを主人公にした戯曲を書いた。それが大学祭で上演され、大好評だったそうである。彼からその物語を聞いて、私もその芝居の上演を観てみたくなった。私も自分が構想していて書き上げていない小説『山賊の娘』について熱く語った。彼はこの物語に興味をもち、身を乗り出すように私の話を聞いた。退職後、彼が書いて自主上演した芝居を二本観たが、どちらかと言うと私好みの作品であり、それなりに才能を感じさせた。不条理演劇的であり、また、閉塞感のある社会に生きる人間を、象徴的に面白く描いていると思った。
 しかし、彼には欠点があった。恐ろしく不器用なのである。製作の手伝いもしてもらうが、彼には仕事をさせてはならない。やり直ししなければならないからである。鋸一つまともに挽くことができない。挽いているうちに、どんどん曲がってしまう。一度は、あまり乱暴に挽いているうちに、自分の手を挽いて、怪我をしていた。なぐり(舞台用ハンマー)で釘を打つ時も、釘の頭を外したり、釘を斜めに打って頭が曲がったり、およそ普通の人間ではやらないヘマばかりをする。ある時、舞台の準備中であったが、十五尺の立ち木を運んでいて、客席に向かってその張物を倒してしまったことがある。あまりの不器用さに「馬鹿!」と怒鳴りつけてしまう。本番中であったら大問題、事故に繋がるような失態である。よって、ものを壊すこと、失敗すること、台無しにすることを「BBる」と言う動詞が使われるようになった。
 彼は作詩、作曲もする人間だった。楽譜が書けないので、自分でギターを弾きながら歌った曲をカセットテープに取ってあると言っていた。それを楽譜にしてもらえないかと頼まれたが、その気になれなかったので断った。
 彼とは退職後も会い、一緒に劇団を作ることも計画したのだったが、結局、「BBる」その破壊的な人間性故に、反りが合わず、絶交状態にある。私が彼を許すことができなかった最大の理由は、私の書いた『夜長姫と耳男』の台本を、汚れることも気にせず林檎を齧りながら読み、読み終わってから私に放り投げてよこしたからである。そして私が感想を求めると「原作がいいからなぁ。」とだけ言う。ビートルズの”The fool on the hill”を私が編曲したものについて意見を聞くと「原曲がいいから、よく聞えるのは当たり前だよ!」と言う。これは私がとても気に入っていた編曲で、アメリカ人にも「よく、このような謝肉祭のような、お祭のような雰囲気がだせるね!」と感心され、自信を持っていた曲でもあった。詩人の友人NB君にも同じことを尋ねると「編曲次第で音楽はいくらでも変わるもの。この編曲は好いよ。」と褒めてくれた。ちなみに、この詩人の作った曲を私は自分なりに編曲してカセットテープを彼に渡したところ大いに感激してくれた。BB君とは、木馬座時代の彼の友達二人も絶交状態になってしまった。彼の才能を私はそれなりに認めていたので、残念である。
  


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劇団木馬座の思い出 その34 [劇団木馬座の思い出]

 制作の仕事 その2
 
 制作の仕事では、芝居の上演について事前の仕事と当日の仕事に分かれる。事前の仕事は、制作者である社長の決めた公演会場の図面を取り寄せたり、開場の詳細について問い合わせをしておくことである。既に述べたように、舞台の大きさ、バトンの数、照明機材の場所、使える機材、調光室、音響施設などについてできるだけ確認しておく。
 物理の実践的な勉強になったのは、交流電気の周波数である。劇団木馬座では16ミリ映写機を使って効果を出していたが、映写機はモーターでフィルムを回転させるので、この周波数が問題になるのであった。関西地区では60サイクル、東日本では50サイクルなので、関西公演を行う時には、モーターについているプーリー(ベルト車)を変換しなければならなかった。この点については音響と照明担当している会社CSGのSBさんが事前に気づいて、私に注意してくれたので救われた。この映写機には、日本全国どこでも使えるように、直径の異なる二つの車のあるプーリーが付いていたので、関西公演の時には、映写機の被いを取り、プーリーをドライバーで外し、直径の小さい方に180度反転させればよかった。
 事前にしっかりと準備しておかなければならないのは、ドライアイスである。ドライアイスは製氷店に注文しておく。そして、これは当日の準備であるが、お湯である。小屋によっては湯沸かし器がないので、大きな真鍮の薬缶で早めに沸騰させておく。ドライアイスは熱湯であれば、それだけ勢い好く白い霧が湧き起こるからである。
 事前準備としては、トラックの運転手の手配がある。新運転という運転手の組合があり、そこに連絡すると、日当で運転手がやって来てくれる。が、一人は必ずKDさんであった。彼は小説を書いている読書家で寡黙な人だった。木馬座の役者や大道具の面々と仲良く、旅公演で連続講演の時、飲みに行った。制作は運転手さんたちに、倉庫の場所、積み込み日、公演会場などを連絡する。彼らは倉庫までは自家用車で来たり、或いはバスで来たりしていた。ふと思い出すだけでも、いろいろな人が運転手として来ていた。高校生の時にフロイトを読み漁ったと言うSSさん、自動車教習所で教官もしていたことのある大型免許、特殊車両免許を持っているKHさん、将棋が大好きな人、やはり教習所の教官をしていたことのある年配の人、いろいろいた。私は彼らと居ると、興味があることを次々質問したものだ。
 旅公演となると、旅行計画。この仕事はOKさんが得意としていたが、時刻表を持って来て、集合時刻などを決める旅程表を作る。その後は国鉄のみどりの窓口へ行って、新幹線切符を購入してくる。集合場所は銀の鈴だったと思う。現地についてからの切符は、現地で買ったと思う。宿泊施設は現地に居る営業担当が押さえておいてくれた。
 当日の仕事は、劇場の小屋つきさんへの挨拶がある。この小屋つきの態度について面白い経験があるので、書いておきたい。入社したばかりの私には右も左も分からない状態で、制作の仕事をされされていた。一九七七年の関西への旅公演『はくちょうのみずうみ』の時だったと思う。ある市民会館での話である。我々が搬入を終えて、仕込をしていると、少し年上の小屋つきさんがやって来て、自分達に世話になるのだから昼食を出すのが当たり前だろう、それがこの業界の常識だろうと音響さんに言った。困った音響さんは、制作の私に相談してきた。私は「私が制作費として預かっているものには小屋つきさんへの弁当代は入っていませんよ。」「弁当を出すのが常識だろう!」「そうなんですか?」と私は音響さんに聞く。「ここは穏便に済ますために、弁当出してくださいよ。」「ちょっと待って下さい。会館事務所の人に聞いてきますから。」と私は、彼等をそのままにして会館事務所へ行った。「小屋つきさんが昼食をだすのが当たり前だと仰っているのですが、こちらではいつもそうされているのですか?」私は真顔で聞く。「いいえ、そんなことはありませんよ。」と事務員たちは答えた。
 この後、その小屋つきさんの態度が豹変したのは言うまでもない。「何か困ったことはございませんか。」とにこにこと私に話し掛ける。この彼の態度は、我々が公演後、搬出し会館を去るまで変わらなかった。無知の勝利であった。
 また、当日突発事故があった場合にも、対応するのは基本的には制作である。大宮市民会館でのことだった。大道具の一人が突然腹痛を訴えて、楽屋で転がって苦しんでいる。急いで救急車を呼ぶ。その時は、午後の公演で少し時間があったので、私は救急車に同乗し病院まで行く。そして、家族に病院の連絡先を電話で教える。こういうことは別に劇団だけではないが、第一の窓口になるのが制作である。或いは、会館の機材などを壊してしまった場合、制作が当然のことながら全責任を負うことになる。以下、日記があったので、書いておく。
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 一九八二年一月三〇日土曜日 今日は「おやゆびひめ・こぶとりじいさん」の最終公演。行田産業文化会館。ホリゾント幕をフー君ととめ君が、振り落としの棒を運んでいる時に破ってしまった。
 二七日、二八日の杉並公会堂の「シンデレラ」は小屋が狭くて、難渋した。折角慣れると、次は「こぶとり」と変わったかと思うと、明日は「ライオンのめがね」。「ライオン」は慣れているから神経はさほど使わなくてもよいだろう。昨日は一五尺の大木、確かに酷く不安定ではあるが、を倒したのには悲しくなった。未熟なせいもあるが、倒してしまった当人は、人形立てで「ふっとばされ」た。(注:これは私ではない。)小屋つきの男性が見ていたが、無言で終わってしまった。運が好かった。ホリゾントの件も、気を使ってくれて、できるだけ安くするようにと、配慮してくれたのは嬉しかった。・・・
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 行田産業文化会館ではホリゾント幕と言うとんでもない幕を破いてしまったが、ベテランの舞台監督が担当している時に、暗転幕が破れたことがあった。会館も古く、幕も弱くなっていたのだったが、あの時の弁償額は三〇万円位したような記憶がある。
 その他、私達制作が仕事としてやっていたのは、小道具、仮面製作の見積もり作成。製作日程作成。衣裳のクリーニング出しおよび引き取り。役者、運転手、大道具、小道具方のギャラ計算。制作費の精算。
 総勢三〇人前後で構成される一作品を、一人あるいは二人の制作が付いて、二から三作品同時公演していた。退職する頃には、同時に三作品を上演することはなかったと思う。小さな劇団であったからこそ担当することになった、細々とした仕事であった。未だ、抜け落ちているかもしれない。招待券・封筒・予定表.JPG


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劇団木馬座の思い出 その33 [劇団木馬座の思い出]

 制作の仕事 その1
 
 私は劇団木馬座に入社してから、一度も制作の仕事は何かを、誰からも説明されたことがなかった。そのため、いつも疑問を抱いていた。制作助手とは何かと。そして、今回の記事では、自分なりに制作の仕事全体をまとめてみることにする。
 制作の仕事には芝居制作そのものに関わる仕事、上演に関わるものに大別されるだろう。そして芝居制作については、作品に関わるものと、役者に関わるものとに分類できる。上演に関わるものについては、事前準備と、公演当日のものとに分けられる。
 先ず、作品に関わるもの。作品選び。これがもっとも重要な仕事である。作品に観客を動員できるだけの魅力がなければ、その制作は失敗であると言わなければならないだろう。劇団木馬座に於いては、この作品選びは、『ハイジ』と『一休さん』の時だけ、実施アンケートに基づくと言う意見が取り入れられたことで、少しだけ参加した気分になった。ちなみに、木馬座を退職し、さらに海運ブローカーの仕事を辞する頃、劇団四季の制作助手の採用試験を受けたことがある。三次試験で浅利慶太氏と営業職の人々の面接を受けた時、彼らの芝居選びに関する明確な方針を知った。「劇団と言うと、皆貧乏で、ハングリーでなければならないなどと言っているが、実際には演劇だけでは食べてゆけないんだよ。うちはそういう劇団とは異なるんです。役者はそれなりのギャラを貰っているので、うちだけで生活してゆけるんだ。そのためには、売れる芝居を打ち続けなければならない。海外でヒットした作品を、日本で上演できるかどうか見極める能力が必要になるんだ。芸術的な要素ではなくて、市場調査をしっかりと行い、絶対に当たると思われるものを提案できるような制作助手を求めているんですよ。営業的な制作助手を。こういう劇団でやっていけますか?劇団四季に対する情熱はありますか?」こんな内容だったと思う。横浜の劇団四季へ行った後、私は不思議な気持ちになった。こんな制作助手の仕事はやりたくない、夢を見ていたい、と思った。不合格通知が数日後送られて来たのは言うまでもない。
 作品を選ぶのと同時進行で、脚本、美術、音楽、演出を誰にするか決定する。これは制作者である社長が常に行っていた。作品が決まると同時に、制作日程を作成する。脚本が何冊必要であるか数え、誰にいつまでに送付するかを調べておき、印刷業者との間で調整を行う。
 美術と音楽は既に社長が決めているのだが、音楽についてはスタジオ確保の仕事が必要な場合もある。作曲家が自分のコネでスタジオを押さえる場合もあるようだ。
 美術については、原画が出来ると、それを大道具製作(東宝舞台、かにや他)に持ち込み、バックドロップ(天竺木綿製)で作成するか、パネルにするか、はたまた丸物(レリーフ上)にするか、などを打ち合わせる。これはOKさんがやっていた。尤も、経験が大きくものを言うので、社長や照明の外崎さんや演出の小森先生も相当に意見を出されたのだろうと思う。
 美術の中で制作助手の我々が作成したのは、既に書いたように仮面と小道具である。この作製日程を作るのはOKさんがその実力を発揮した。舞台稽古の日から逆算して、いつまでに何を誰が作るかを割り振るのである。例えば3つの仮面を各自が作製するとなると、五つか六つ位あった油粘土の土台での原型作製期限、石膏型取り日、東商産業(FRPと言う強化プラスチックの型を作る会社)の回収日を決める。また、小道具の製作を割り振り、これも日程を決める。
 舞台衣装をどこに発注するかを決め、打ち合わせを行う。生地の選択。これは東京衣裳、東宝舞台に衣裳の専門家がいるので、その方々と打ち合わせをし、仮縫いの日を決めたりする。稽古場で衣裳を試着する時に、衣裳担当の方が来られていて、微調整をしていたのではないかと思う。
 新作の場合には、大体渋谷の東横劇場での舞台稽古が多かったので、問題はなかったが、『スサノオのぼうけん』のように、杮落としの江東公会堂で舞台稽古も行う場合には、事前に舞台の平面図を確認したり、事前に舞台に下見に行っていた筈である。私は『はくちょうのみずうみ』班だったので、この打ち合わせには参加していない。旅公演の時には、主に新しい舞台については、舞台平面図を取り寄せ、バトン(鉄パイプ)の数、照明の数、綱元の場所、操作盤の場所、楽屋の場所と数、搬入口の場所、その他必要と思われる情報を電話で確認する。近場であれば実際に下見に行く。特にバトンの数と間隔は舞台で芝居する空間を決めてしまうので、しっかりと把握する必要がある。どのドロップをどのバトンに吊るのか。ドロップの分だけ、バトンがあるかどうかも確認する。小屋(会館)によってはバトン数が足りない場合もある。そんな時には照明用に使っているバトンや一文字幕(舞台上面を横切る黒い幕)のバトンに共吊り(同じバトンに一緒に吊る)することも考える。或いはそれも難しい場合には、一回しか使わないドロップであれば引き落としと言う手法を使って、使用後、暗転中に舞台の床に落としハケル(片付ける)ことも考える。そして、この情報を舞台監督に伝える。平面図を持って、あれこれ話し合うのである。最終的に決めるのは舞台監督である。舞台関係では、必ず確認を要するのがホリ裏(ホリゾント幕と言う舞台最後方に吊ってある白い幕の裏)が通行可否である。役者は場面によって上手(かみて)からあるいは下手(しもて)から登場するので、上手から下手或いはその反対に移動しなければならない。バックドロップが下りている場合にはその裏を通ればいいのだた、ホリゾント幕と背の低いボサ(草)しかない場面では、ホリゾント幕の裏を通らねばならない。そして、このホリ裏が全く通行できない会館もあった。奈落を通ってゆかねばならない会場もあった。
 音楽については、決まっていた。例えば『はくちょうのみずうみ』であれば越部信義。主題歌、踊りの歌、カーテンコールの音楽など全部で7,8曲以上あったのではないだろうか。『ねむり姫』は渡辺岳夫。主題歌、姫の踊りの歌、王子の歌、他は主題歌の変奏曲であったが合計6,7曲あったのではないかと思う。音楽では、劇を盛り上げるBGMの作曲もこれらの作曲家が担当していた。不安を煽るような音楽(ねむりひめ)、元気のでる行進曲(白雪姫と七人の小人)、サーカスのジンタ(ピノッキオ)など。
 音についてはその他にはSE(効果音)の作製があった。これは音響担当の会社が請け負っていた。CSG或いは総合舞台と言った会社の音響担当が、必要なSEを録音して持ってくる。これらは実際に公演で使用するマザーテープを作製する際に、演出家によって台詞と同時或いは単独に流されるように指示され完成する。音響を実際に操作する担当者を音屋(おとや)さんと呼んでいたが、制作は音屋さんが持ってくるマザーテープを預かり、制作室のロッカーにしっかり保管した。ロッカーの中には、これまで上演して来た出し物のマザーテープがずらりと並んでいた。

 次に役者関係である。先ずは、声優である。これも決めるのは社長や演出家であった。制作助手の仕事は、台本を必要数声優事務所に送ること、本読みの場所確保、録音の場所確保、本読みの立会い、録音の立会い、それぞれ食事の準備。
 (今日は一旦ここで筆を置く)
 下の図面は、杉並公会堂のもの。舞台は『シンデレラ』。私が退職する頃、劇団木馬座ではビデオを作製したが、この図面はビデオ撮影のために杉並公会堂を借りた時のもの。公会堂なので広くはないが、それでも間口8間(1.8メートル×8倍)である。木馬座の芝居は8間を標準の間口としていた。尚、この図面に書き込んだのは私である。

stage plan suginami ward hall.JPG


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劇団木馬座の思い出 その32 [劇団木馬座の思い出]

 今日は、劇団に入社してから3年目位から、つまり二十六歳頃になって少しずつ担当することになった舞台監督の仕事について書いておきたい。
 入社したての時、私にとって舞台監督という存在は、随分難しそうな仕事で、専門家でなければできないものに見えた。初めて東横ホールへ『シンデレラ』を観に行った時、私達新入社員には舞台監督は紹介されなかった。演出家や役者達だけだったので、この時舞台監督を勤めていたのがTK さんだと言うことは、この年の北海道・東北地方公演で一緒になって初めて知った。舞台監督は大道具の一見荒くれ男達を従えた親分のようで、ちょっと近寄りがたかった。が、TKさんの方から声を掛けてくれたので少し話してみると、そのようなことは全くなく実に優しい好い人だった。
 どんな舞台監督達と出会ったかと言うと、他にはTDさん、THさん、SOさんYS君で、TDさんは造形大学出身だった。目の小さなTDさんは小柄でちょび髭を生やしていて、頭はパーマを掛けていた。他には、OKさんが舞台関係者の名簿で捜し出したジャンボと言う渾名の付いた一九〇センチ近い身長のある、舞台監督専門にやっている人もいた。彼らの仕事を思い出してみると、仮に舞台開始前、舞台稽古、本番の順で分けると、次のようになる。
 まず通し稽古を見に行く。この場には舞台監督以外に音響、照明、制作が来ていて、裏方全員の顔合わせが行われる。皆、演出家の坐るテーブルに横に並んで坐る。そして、気づいたことや、演出家が役者や自分達に出す指示を台本に書き込む。例えば、緞帳前の芝居があるかどうか。どのタイミングで緞帳を上げるか。場面ごとの大道具の配置。バックドロップ(布の書割)の吊り位置。場面転換のきっかけは何か。転換時間制限はどれくらいか。音響や照明とのキューの確認。演出家はストップウォッチを持って、タイミングを計ることもあるので、その場合にはタイミングの確認。
 舞台稽古
。大道具は、例えば東宝舞台の作業場からトラックに積んで直送されてくる。仮面や衣裳、小道具は制作部が持って来る。仮面や衣裳は必ず実際に着けて見なければならないので、一旦は稽古場に運ばれ、微調整をしたものを倉庫や制作室に保管しておく。舞台監督は、舞台で使われるものを全て把握しなければならないのであるが、木馬座の場合には主に大道具方をまとめるのが仕事のように思われた。舞台稽古が始まる前に、バックドロップをバトン(鉄パイプ)に吊り込んだり、大道具のパネルに貫板と言う平たい板を使って組み立てたりする。次に「人形たて」と言う直角三角形に組まれた垂木の支えを打ち付ける。その後は、場面転換に便利なように、また役者の出入りの邪魔にならないように、左右の袖奥にその大道具を立てておく。往々にして照明の場当たり(実際に照明を当ててみる)が終わっていないことが多いのだが、稽古が始まると、場面ごとに大道具や小道具を演出家の指示に従って設置し、そのそれぞれの場所にビニールテープで印をつける。これをバミると言い、その目印に使うビニールテープをバミりテープと呼んでいた。暗転で、役者も裏方も見えない場合には、蛍光テープを使用することもある。役者は演技を、音響は音を、舞台監督は全てをこの舞台稽古で確認する。演出家の気分が現場で変わることもあるので、その場合にはきっかけや、出が変わったりすることもある。演劇は生ものなのである。舞台稽古は、実際に公演を行う場所で行われることもあるが、そうでない時もある。そうでない場合には、舞台稽古が終わると搬出と言う仕事が続く。如何に手際よく、短時間で積み込み作業が終わるか、それも大事な仕事であるが、木馬座では大道具方の中で積み込みが得意な人間が、搬出は指揮を取ることが多かった。舞台監督は、楽屋、客席、舞台袖、花道などを隈なく歩き回り、忘れ物がないかどうかを見て、何もなければ小屋つき(舞台事務所にいる事務員)さんに挨拶をして、スタッフには翌日の集合時刻を確認し、解散を宣言して帰宅する。
 本番の時は、搬入からである。これは上記の搬出の逆である。既に千葉市民会館での『ねむりひめ』の舞台稽古の時に書いたように、トラックからできるだけ迅速に大道具、小道具、衣裳、照明機材、音響機材を降ろすのだが、その指示を行う。勿論自分でもどんどんやりながらである。搬入後は、大道具の組み立て、立て込み、ドロップ、スクリーンなどの吊り込み。ドロップやスクリーンは布製で吊っただけでは裾がはためいてしまう。ドロップの舞台に接する裾の部分は袋状に縫ってあって、その中に鉄パイプを通す。映写機を使う場合には、大道具やスクリーンと映写場所の位置合わせ。袖幕(左右の黒幕)の位置決め。一文字幕(舞台前面の上方にある黒い幕で、吊ってある照明を隠す場合もある)の下げ位置決め。バトンの上げ下げは、綱元と言う場所で行われる。綱元と言うロープが縦に並んだ場所は上手か下手のいずれかにある。バトンはロープによって吊られているが、鎮(しず)と言う平たい鉄の塊によってバランスが保たれている。上皿天秤と同じ原理で、パイプの重さに加えて吊られる物の重さ分、鎮が綱元側のロープに載せられるのである。例えば大道具でも比較的軽い布製のドロップではなく、大きなパネルで出来た家を吊ることもあるので、その場合にはパネルの重さに見合うだけ、何枚もの鎮が使われる。一文字幕もバトンに吊られているので、その下げ位置が決められると、綱元のロープは固定される。固定の方法は会館によって若干違いがある。止める装置がある会館もあれば、紐で固定するところもあった。大道具の仕込みが終わると、照明が場当たりをしてゆく。舞台監督は、客席の真ん中に座り、照明の仕込み具合も気にしながら、舞台の額縁を確認する。袖幕は大道具や役者の出入りや移動が見えないようになっているか、一文字幕はボーダーライトやサスペンションライトと言った照明を隠しているか(見切れないか)、緞帳の前のスペースは幕前芝居をするのに十分か(不十分な場合には、裏方に緞帳を舞台の中から少し内側に引っ張るように指示することもある)など。そして、緞帳裏でも作業ができると判断できた段階で、操作盤に行き緞帳を降ろす。これは舞台監督の非常に重要な仕事である。操作盤は最近、小屋付きさんが行う場合が多いかもしれない。何しろ、何百キロもある緞帳の下は危険だからである。吊り込んでいた大道具が落ちて来て役者が大怪我をしたと言う話はSOさんから聞いたことがある。だから舞台監督や綱元は上演中も時々舞台の上を見上げて、大道具やドロップに怪しい動きがないか見ているのである。すべては客入れの時刻までに、全てを完了していなければならないのである。通常は時間を押すこともなく準備が終わる。終わると、受付に行き、定刻で開始してよいかどうか確認。定刻であるならば、照明、音響他スタッフ、役者にその旨伝える。
 SOさんは、自分でも台本を書いたりするような舞台監督だったので、本番が終わると演技の駄目ダシをしたりすることもあった。演出家の意図からずれるようなことはなく、単純に演技を演技としてみて、体の動きが真に迫っていたとか、あの演技は不自然なところがあるとか、自分は納得できないとか意見を述べた。
 大体このような仕事が舞台監督の仕事であるが、その仕事を初めて任された時、私は大体は分かっていたのであるが、かなり緊張した。ベテランのTHさんが、私が『はくちょうのみずうみ』で舞台監督になった時に、一緒に操作盤にいて要点を教えてくれた。他にもTDさんが別の機会に「心配することないって。兵隊みんなが分かってるから。」と言ってくれた。それでもしっかりと舞台監督を務めたかった私は、新宿の紀伊国屋書店本店に行き、水品春樹『演劇の道』や『演技求真』(ダビッド社)を買ってきた。経費削減のために舞台監督を制作スタッフも担当すると言う方針を出した木馬座では、殆ど誰も教えてくれることがなく、まさか経費削減をする対象の人々にあれこれ聞くわけにもゆかず、自分で調べるしかなかったのである。制作の仕事そのものが、私には全貌が見えていなかった。この『演劇の道』によれば、舞台監督の仕事は以下のように説明されている。
 ・・・真の舞台監督というものは、芸術上と実務上の両面から当該演出者を補佐し、その演出者から任された舞台作品の観客を前にしての進行をつぶさに司るために、十分に仕事の知恵と勘とを働かせうる人であって、その本領は、演劇を心から愛する忠実なしもべであり、稽古中は演出者の創造活動上の協力者の一人として、また公演中は、幕の開いているときも閉まっているときも、演出者に代わってその演劇進行のいちばん中心にいることを自覚する人、これが舞台監督であるとおもうのである。(p238)
 同書で千田是也『演劇とは何か』から次のような文章が引用されている。(p237)・・・舞台監督は、上演準備の実務方面を担当し、その点で演出者を補佐する役目であるから劇場機構、大道具小道具の製作・操作、電気技術、舞台効果のあらゆる部門に精通し、そこに働く技術者、労務者に十分に心服されるだけの実際的手腕を持つことが、第一の条件であるが、それと同時に演出者の方針をよく理解し、敷衍し得る芸術的感受性をもつこと、とくに「演技」や「戯曲の流れや盛り上がり」について優れた勘を持っていることが必要である。・・・
 これと前後して、私は舞台照明の本、演技の本などを買った。努力した方向は、間違っていなかったとは思う。


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劇団木馬座の思い出 その31 [劇団木馬座の思い出]

 一九八〇年冬の新作は『さるかに合戦』であった。制作の割り振りは、SY君が蟹と柿木の仕掛けを担当し、私は猿を作ることになった。
 この柿木の仕掛けについては私も案があったが、SYの案の方が安定していて、尚且つ簡単であろうということでそのまま採用されることになった。柿の種を植えて、蟹が成長を見守る場面である。仕掛けは単純で、柿の木の形をしたベニヤ板を何箇所も切って関節のように折れ曲がるようにしてある。ベニヤ同士を木綿で繋ぎ合わせてあるのである。それを舞台の上に寝かせる。梢の部分にバトンから下ろされているテグス糸が付いている。蟹が「早く芽を出せ柿の種、出さぬとちょんぎるぞ!」と歌うのに合わせて、ゆっくり糸を引っ張る。客席正面から見れば、柿の木が少しずつ伸びてゆくように見える。
 『さるかに合戦』では、私はさっさとボスざるの仮面を作り始めた。大きな頭で、口の出た、憎憎しい猿である。この面では、私は東洲斎写楽の歌舞伎絵を思い描いていたので、目玉が左右であらぬところを向いている。自分で作っていて、実に気持ちが好かった。上の階から例によって社長が降りてきて、私の背後からこの猿を見ている。にやにやしてこう言った。「ほう、いい面を作ったなぁ。まぁ、HG君も、長いからな。」
 この「いい面を作ったなぁ」と言う台詞は、その時点で木馬座を去ってしまっていたOKさんが、『こぶとり爺さん』の鬼の大将を作った時と同じだった。私は当然だろう、と思いつつ、尊敬していたOKさんと同じように褒められたことが、実は内心得意だったのである。私はこのボスざるの仮面に赤いボアを貼った。この猿には赤しか思いつかなかったからだ。
 ところで、この頃から、木馬座では収入を確保するために、あちこちの幼稚園で短縮版の芝居を上演するようになった。本公演に向けての宣伝活動も兼ねていたのだろう。営業担当が幼稚園回りと呼んでいたが、大道具は殆ど使わないで、仮面と衣裳と音響だけを日産のキャラバンに積み込んで、幼稚園に出かけて行った。同時に、社長は雑誌の出版を開始した。『もりのこ』と言う子供向けの隔月か季刊の雑誌だった。更に、その後、舞台のビデオを作製し販売することになった。それは私の退職する半年位前だったと思う。多分、一九八一年秋ではなかったろうか。
 
 そして翌年一九八一年の冬の作品はヴィルドラックの『ライオンのメガネ』であった。これは既に作られていた仮面を再利用して行う再演であった。私たちにとってみれば新作と同じであるが、その仮面は全て既にあったので、表面の布を張り替えたりする作業が殆どであった。この作品で思い出すのは二点ある。一つは、舞台衣裳である。この時衣裳担当としてアルバイト女性が二人入ってきた。彼女達は桑沢デザイン研究所の卒業生であった。SY君と私は彼女達に衣裳のデザインについて簡単に説明した。何しろ既に上演された作品なので、何か新しさを加えたい、だから好きなようにデザインして欲しいと。
 結果は上々だった。彼女達は画用紙に舞台衣裳を描いて見せてくれた。ライオン王は深緑色の別珍で重々しく。裏切り者の虎大臣はその性格を表すように、手袋も長くしてとげとげしさを出す。以前に上演された舞台の写真と比べて、明らかに新しい工夫、新風が送り込まれた。我々はその絵に従って衣裳を作成するように彼女達に言う。この二人は友達同士だったのだが、実にてきぱきと仕事をこなしていった。衣裳で手が加えられたのは、そのほかにはペリカンの大臣、ライオン王子だった。
 SY君と私も、これに刺激を受けたわけではないが、再演とはいえ何か自分達らしさを出すために、脇役の衣裳を工夫した。『ライオンのメガネ』には、アラビア風の場面がでてくる。そのために通行人や蛇使いやら町の人々の衣裳の参考になるものを探した。木馬座には参考図書として、写真集などもあった。その中の一枚に中近東の水売りの写真があった。体から金属の容器をいくつもぶら下げた奇妙な格好の男だ。これは私も作ってみたかったがSY君が作ると言ったので彼が担当。私は街中で踊るアニトラのような娘の面に化粧をした。ジョーゼットでヴェールを作り、アラビア娘の踊る姿を想像しながら。この娘の衣裳は彼女達がやってくれたと思う。いずれにせよ、私達制作部の面々は、何か新しい工夫をせずにはいられないのだった。
 翌年、一九八二年の頭にはSY君が退職した。給料は遅配が続くようになっていた。そして私は美大系の制作スタッフがいなくなってしまったため、すっかりやる気を失ってしまった。このような状態では、生活が出来ない、英語を使う職業に付きたい、と思い、姉が薦めてくれた海運ブローカーと言う全く未知の世界へ転職することになった。三月下旬のことであった。
 退職を決意した私が社長の所へ行くと、「あぁ、そうか。」とだけ言った。余りに辞めて行くので言葉がなかったのかもしれない。ニヒリストにも見える社長は、いつも眉間に皺を寄せている印象がある。営業のYMさんが「これからしっかりさせてゆこうと思っているのに、一緒にやりましょうよ!」と言ってくれた。しかし、OKさんとSY君の抜けた穴は大きすぎた。職場として、私がいられるところではなくなっていたのである。  

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劇団木馬座の思い出 その30 [劇団木馬座の思い出]

 1980年夏の新作は『マッチ売りの少女』に決まった。この作品も二本立てでもう1作は既に三年前の新作『はくちょうのみずうみ』である。記憶がはっきりしないが、制作で舵を取っていたOKさんと社長や演出家の小森先生との関係が上手く行かなくなってしまった。OKさんが意見を述べると、それを否定されることが多くなっているようだった。それは、制作全般についてだったのではないかと推測する。出し物、美術、台本、役者への給料の支払いのこと、劇場への使用料支払いの遅延などについて。直接理由を聞いたことがないので、本当に憶測にすぎない。一つ覚えているのは、『白雪姫』の立案段階で、OKさんが自分の提案した林檎形の透明棺を作ると言うアイデアが否定され、立腹している姿だった。虚しそうにOKさんは言った。「いろんな意見を出しても、だめだな。ちっとも変わらない。」そして、私が反発しながらも、絶対的に兄のように慕っていたOKさんはやがて木馬座を去ることになる。
 この年あるいは前年末には、黒テントで芝居をしていたKWさんが入ってきた。小柄で眼鏡を掛けていた。OKさんと同じ九州出身ということで、彼には結構共通部分があり、また年齢も近いこともあり盛り上がっていた。KWさんは学生運動にも積極的に参加していた過激派であった。木馬座には学生運動をしていた人々が何人もいた。勿論、KWさんも入社時にはそのような政治的情熱は胸のうちだけに秘めているようだったが。正直言うと、私は制作には美大の方が好ましいと思っていた。なぜなら、制作はものを作る仕事だったからである。KWさんは役者として活躍していたようなので、芝居については一家言を持っていた。何しろ夢の中ではあるが、唐十郎に赤テントの芝居にでなかと誘われた、と嬉しそうに言っていた位であるから。そして、実際に『マッチ売りの少女』では、雪の降りしきる街中を歩く通行人として出演した。彼が下手袖から出て「あぁ、寒い、寒い。」と言う台詞に合わせて通り過ぎると、無機的な舞台に生気が出た。袖の役者たちは「臭い、臭い!」と言った。私には、その「臭い」演技が、こういう子供の芝居には向いていると思ったが。  
 新作『マッチ売りの少女』では、長嶋社長はまた新たな企画をした。仮面劇である木馬座で、素顔を出そうと言うのである。そして、新聞に広告を出した。「美少女募集」。この芝居では、主役の少女のみ仮面を付けず、メークだけで出ることになった。何人もの少女達が応募してきた。履歴書が送られてきた。中学生、高校生、社会人などであった。主役を決めるためにオーディションを開いた。バレエシューズを履いて、音楽に合わせて踊ると言う課題である。歌詞は「寒いわ、冷たいわ、お腹が空いて、死にそうなの、マッチは売れないし、お金もらえない、家へ帰ったら、きっと、お父さんにぶたれるわ」大体、こんな風だった。そして、選ばれたのは一番年下の少女で、多分中学生だったと思う。目鼻だちのよい、小柄な少女で、母親は絵本作家かなにか、創造的な仕事をしていた。

 この作品での制作物は、SY君が焼き鵞鳥、私は赤々と燃えるストーブと家の中で談笑する家族のシルエット。焼き鵞鳥はちょっとティラノサウルスに似ていた。私の作ったストーブは、焚口に付いている円形の覗き窓がモーターで回転した。そのモーターの回転音が袖に居るとよく聞えた。この鵞鳥とストーブの場面は、一本目のマッチを擦った時に広がる、少女の想像である。暖色の照明の中で、暖かい炎が燃えストーブと食べ物が楽しそうに踊っている。しかし、マッチの火が消えると共に、これらの幻影も消えてしまう。なんとも悲しい物語である。小道具では、馬車の御者の持つ鞭をKWさんに作って貰った。が、やはり、基本的には制作を任せないでいようと思った。それ以外にも私は黒い野良犬を作ったりしたが、この作品の内容は殆ど覚えていない。
 印象に残っているのは、通りを行過ぎる馬車の色を社長がバーミリオンにするようにと指示した時のことである。SY君は、バーミリオンは朱色で良いと解釈して、朱色のスプレーを買ってきて馬車を塗装した。しかし、社長のバーミリオンとずれていた。「こりゃぁ、バーミリオンじゃないよ。SY君。これは朱色だ。」SY君は不服そうであったが、SY君は社長のお気に召すように、色を塗りなおした。社長は自身で油絵も描く人なので、こういった色使いには、強い拘りを持ったのである。そして、舞台照明を浴びた時、このバーミリオンの馬車は随分派手に輝いて見えた。悪くもないか、それが私の感想であった。
 一九八〇年八月二四日神奈川県民ホールへ行った時に書いたものがあるので、書き写しておく。 

 無題 - 横浜にて(山下公園にて)
 合唱コンクール前に練習をする少女たち
 フリスビーをして遊ぶ少年たち 
 ビーチパラソルの下でアイスクリームを売る女
 暑さにめげず仲良く歩くアベックたち
 カメラで風景をとりまくる人 
 写生をする中学生たち
 気軽に飛び回る雀、鳩
 芝生に遊ぶモンシロチョウ
 犬を連れて散歩する親子
 アイスクリームを舐めながら歩く男と女
 ローラースケートで目の前を通過するジーンズ姿の少女たち
 木陰のアベック
 日傘をさす女たち
 観光船の案内をするラウドスピーカーの声  
 夾竹桃の並木
 ぶらつくインド人たち
 カメラの前でポーズする少女たち
 微動だにしない客船
 ちょこちょこ動き回る小船
 鉄棒 ブランコ シーソー すべり台
 アフガン犬 シェパード テリア
 ゴミ箱を漁る浮浪者
 じめじめした所で弁当を広げる女たち
 蝉の声
 錆び付いた線路
 日曜画家たち
 竹の籠
 ヒマラヤ杉
 ボールを投げあう男女
 暑さにうだる犬 
 フランクフルトソーセージ
 カキ氷 焼きソバ
 水飲み場
 スピーカーだらけの自転車
 これが山下公園の日曜日の午後

焼き鵞鳥とストーブ(曖昧な記憶による絵)

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劇団木馬座の思い出 その29 [劇団木馬座の思い出]

 最近、so-netブログの記事を書こうとすると、文字のポイントがかってに12ポイントになり、改行も一行余計にしてしまう。これが実に煩わしい。なんとかならないのかと思う。こういう設定は、勝手に変えないで欲しい。
 さて、今日は久々に木馬座の思い出その29を書くことにする。
 *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

 1979年の夏の新作は『一休さん・アルプスの少女ハイジ』に決まった。この年に、木馬座制作部に一人の美大卒が加わった。SY君である。木馬座を退職した後最終的には独立し、北野たけしの『誰でもピカソ』や『どうぶつ奇想天外』の特殊美術を担当しているようである。出し物が『ハイジ』決まる過程では、私の意見が取り入れられた。これまで出し物は社長が演出家たちと決めていたようだった。それで、私は『白鳥の湖』や『スサノウのぼうけん』などで十分に成功しているとは言えないのだから、観客からアンケートを取ってはどうか、と提案したのである。その提案が通り、業務部の人々が往復はがきでアンケートを実施した。その結果は、見たい作品は一休さんやハイジとなっていた。それでこれらの作品が新作として作られることになった。
 結果としての客入りが予想を裏切ったことを考えると、このアンケートは失敗であった。アンケートに答えてくれた人々は、自分達がテレビで知っている作品を書いただけなのではないかと思われる。アンケートに書かれる意見を冷静に分析しなければならないと知ったのは、この苦い経験があってからである。社会が既に作り上げた意見のようなものに、アンケートの声は反映されるのであろう。
 さて、私はこの作品は子供の頃絵本で読んで知っているくらいだったので、まず新宿の紀伊国屋書店本店へ行き、Puffin版の”Heidi”を買ってきた。そして、電車の中や家で、読んで内容を再確認しておいた。
 今回の仮面の制作は次のようになった。ハイジとその友達ペーター、家庭教師ロッテンマイヤーをOKさん。私はアルム爺さん、ハイジの叔母デーテ。その他の、クララやゼーゼマン夫人、ゼバスティアンは誰が作ったのか、忘れてしまった。アルプスの少女ハイジは、田舎の娘らしく野趣のあるよい顔に仕上がっていた。ペーターもどうように、田舎の少年らしく作り上げられていた。一方、私の作ったアルム爺さんは、頑固者の偏屈しかし根は優しいと言う人物で、作り上げるのには試行錯誤があった。
 小道具としては、山羊飼いのペーターの連れている白山羊と赤茶の山羊とを作ることになった。白山羊が白鳥さん、赤茶の山羊は小熊さんである。私は件の”Heidi
”の挿絵にある山羊を発泡スチロールで作った。ボアや別珍で仕上げた。首や脚が可動式になっていて、細い鉄棒と鉄板で作ったキャスター付き台の上に載せて、ペーターが引きずると言ういい加減な山羊であった。形は山羊そのもので問題なかったが、結果的には失敗であったと言わざるをえない。いくら赤べこのように、頭が動いても、それは不自然で、生きた動物の動きではなかったからである。今ならどうするか、と考えてみると、モーターを内蔵させて首を自分で動かすくらいの工夫はするであろう、と思う。
 『ハイジ』については声優の録音に立ち会った時の思い出がある。声優の録音立会いは何をするかというと、録音スタジオまでゆき、弁当や飲み物の用意をする位であった。
 声優の配役の割り当てであるが、通常、力関係があり、その集団の代表が主たる役を当てられるのが普通である。この集団の名前は略すとG8である。首脳会議のような名前である。この集団に属している人々の何人かはテレビの声優をやっていたので、テレビの画面で名前を見ることが何度もあった。この集団の代表は、自分がアルム爺さんの役をできるものと予想していたようである。が、演出家の小森先生はこの声がお気に召さない。そこで代表はやむなく、年配の男性声優を連れてきた。この男性は実にアルム爺さんにぴったりだった。厳格、頑固、気難しい、これらの要素がしっかりと演じられた。面白いもので、アルム爺さんが台詞を気難しい顔で読むので、緊張感がある。眉根に皺を寄せながら、都会人となったデーテに対して、烈しい口調で怒鳴る。
 面白かったのは、このアルム爺さんが、物分りの好いゼーゼマン夫人に接して、自分の存在が認められて嬉しさを隠し切れなくなった時、この声優の声にも緩みがでた。その台詞まではよかったのだが、連続して優しさが出てしまった時、演出家が間髪入れずに「はい、その台詞だめです。アルム爺さんは、そんなに簡単に胸襟を開きません。もっと、時間が掛かります。」と言う。こういうやりとりは愉快であった。
 木馬座の『アルプスの少女ハイジ』には、ゼーゼマン夫人が絵本をハイジに読んでやる場面があった。客席からもその絵本が見えるようにベニヤ板一枚が一ページになっている絵本が舞台に出された。夫人が絵本のページをめくる度に、裏方が大きな本のページをめくった。この絵本の絵やアルプスの地図のバックドロップを描いたのは、長嶋社長のお嬢さんで美大の油絵出身である。絵を描き慣れていて、その仕事は確かに速かった。同じ油絵科のSY君が「すごいよね~っ!僕なんかあんなに速く、しかも構成もしっかりと描けないもんね。」と驚嘆していた。彼女は今は絵画教室の先生をしているようで、ホームページがあった。夕焼けの場面は特に感動的で、赤い夕陽と放牧されている牛の姿を見て、ハイジがアルプスに帰りたいと泣きながら夫人に訴える。ハイジを演じていた女優は、稽古場でこの声優の台詞を聞くと、涙していた。
 主役を泣かせるほど、感動的でよい作品ではあったが、客入りは好くなかった。
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劇団木馬座の思い出 その28 [劇団木馬座の思い出]

  一九七八年の冬の新作は『白雪姫』と決まった。『ぶんぶくちゃがま・人魚姫』の二本立て公演を近畿で秋公演に行って帰ってから着手した。今回はOKさんが制作助手となり、舞台美術の担当をし、舞台装置の原画を描き、白雪姫と小人の面を作った。HTさんが王子と小人の面を担当。小人の面は二種類だけ作り、メーキャップを変えることで個性を出した。私も小人を作りたくて、試作品を作って見せたが、鼻梁を曲げ、眼の位置を歪ませて作ったところ、恐い、気持ち悪い、と言われた。デフォルメだと主張する私に対して、OKさんは、こういうのはデフォルメとは呼ばないのだ、と言う。私の代わりにHTさんが小人を作ることになった。結局私はお妃と宮廷の女官、そして森の小人の友達の大熊。『白雪姫』はその前の二作品と異なり、単独の作品となった。
 今回、前回の『白鳥の湖』のオデットの顎の反省を踏まえてO
Kさんの作った白雪姫の面は、完成度は高かった。顎なども綺麗に纏められていて、曲線も美しかった。瞼や頬のふくらみも柔らかさが出ていた。しかし、個人的感想を言えば、日本人形のようだった。よくみれば、美しいと言えたかもしれないが、奥が深い制作なので、必ずしも一般受けする美しさではないかもしれない。尤も、こういう感想は仮面を作り続けている制作のものであって、観客として見ている子供のものではない。
 今回の仕掛けは三つあった。一つはハーフミラーの使用である。お妃が鏡に向かって言う「鏡よ鏡、答えておくれ。この世で一番美しいのは誰?。」グリム童話では壁に掛けてある鏡が答えるのだが、木馬座ではこの鏡には生命が宿っている。キャスター付きの小さな縦長の衣裳箪笥のような形をした鏡は、お妃に呼ばれるとスポットライトが当たる。鏡にはお妃が映っているが、「この世の中で一番美しいのは誰?」と言うと、ハーフミラーの後ろに立っている白雪姫に照明が当たり、妃の代わりに白雪姫が浮かび上がる。これはなかなかよい仕掛けだったと思う。この仕掛けは、社長が脚本を依頼する段階で、決まっていたようである。
 二つ目の仕掛けは、妃の憎悪姿への変身である。これは私が担当した。例によって、兄に相談したら、ブラックライトでいいのではないかと言われた。顔に蛍光塗料を塗っておけば、その部分だけブラックライトで明るく見えるので、一番簡単だろうと言う助言だった。しかし、私はブラックライトでは、怒りの過程が表現できないのでないか、と反論した。結局、仮面の内側に電球を入れて、それを光らせることにした。小さな電球を十個位裂けた口の形に並べた。お妃役の女優は、コードをあらかじめ衣裳の中に付けていて、この変身の時だけ、袖から延長コードを引っ張って舞台に出た。変圧器で電圧を変えて、怒りが最高度に達する時は百二十ボルト位まで電圧を上げた。女優は、恐いと言っていた。そうかもしれない。仮面の中では電球が猛烈に輝き、温度が上昇するからだ。今考えれば、悪いことをしたものである。ブラックライトにしておけば、そんな恐怖はなかっただろう。いずれにせよ、この場面では、当時流行った言葉が子供達から飛び出したそうだ。「口裂け女だぁっ!」私はその反応を聞いたことがないが、そう言っていたと聞いた。
 三つ目は仕掛けと言うよりも、見世物である。小人の友達である、森の熊。社長より大きな熊を作るようにと指示があった。直ぐに私は制作を買って出た。私は競合劇団であった劇団飛行船の、『ジャックとまめの木』の大男を舞台写真で見たことがあった。また、研究に行って観させてもらった『長靴をはいた猫』にも大男が出てくるが、それは舞台で実際に動くさまを見ていた。だからどのように作ればよいかは分かっていた。まず、大きな発泡スチロールで上半身を作る。大きい塊なので、最初は鋸で引いて、形を切り出してゆく。徐々に体の曲線を木工やすりで作り出す。そして、サンドペーパーで仕上げをし、その上に赤茶色のボアを木工ボンドで貼る。制作の途中で、どれくらいの大きさになるか、ベランダに出て業務部のKS君に着てもらう。突然出現した大きな熊に、隣にある麹町学園の女生徒が手を振る。反応は上々であった。この熊は、下手袖から登場すると、子供達からざわめきが出た。舞台の袖にいて、これは聞いたことがある。
 『白雪姫』の制作で述べておきたいことは更に二つある。それは、舞台衣裳である。今回は、衣裳代が今までになく高かった。そして、衣裳が実に美しかった。エリザベス朝のような、ホルバインが描く貴族達が着る衣裳のような、雰囲気のある衣裳だった。支払いのことで、後日もめたらしいが詳細は知らない。
 そして、もう一つは髪の毛である。ここでは苗字だけ実名を出してその技術を讃えたい。渡辺さんと言う眼の大きく小柄な女性がこの年の制作にアルバイトで入ってきた。彼女は仮面に付ける髪の毛を整えてくれた。今までも毛糸を使うことが何回もあったが、今までやっていた作業とはことなり、彼女は先ず髪の毛一本一本丁寧に揃え、アイロンを掛け、髪型を整え、仮面に綺麗に取り付けていった。髪の毛にリボンを編みこんで形を整えたり、衣裳担当のデザイナーが作った帽子や王冠を髪に付けたり、その仕上がりは素晴らしいものだった。彼女は舞台稽古に劇場に来てからも、仮面の髪の状態を一つ一つ触って様子を見ていた。私は宮廷の女官を作ったのだが、髪の毛によってこんなに雰囲気が変わるものなのかと、彼女の技術に圧倒された。

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劇団木馬座の思い出 その27 [劇団木馬座の思い出]

   一九七八年夏の新作は『ぶんぶくちゃがま・人魚姫』だった。春の新作『こぶとりじいさん・おやゆびひめ』の制作助手はそれぞれIYさんとHTさんだった。自動的に夏の新作の製作はOKさんと私になった。制作助手が主役の仮面を作っていたので、私は当然のように、人魚姫と王子の仮面を作ることを申し出た。そして、その希望はそのまま受け入れられた。OKさんはぶんぶくちゃがまの狸と和尚さんの面を作った。
 木馬座の『人魚姫』は初演時のスタッフは、脚色長嶋武彦・稲坂良弘、演出小森安雄、演出助手牧田耕治、美術若菜珪、音楽斉藤恒夫、照明外崎俊彦、装置東宝舞台となっている。川崎市多摩区生田にあった倉庫には、その初演時の仮面が保管してあった。若菜珪さんの美術は、面長の顔で、水彩画で描かれた原画も、独特の味があってよかった。仮面は全てその若菜さんの美術に統一されていた。しかし、何についても一言を言わずにはいられなかった私は、人魚姫の仮面を作り直すことを提案した。理由は、以前に制作された面は、彫が浅く、平坦な顔をした面だったからである。横を向くと、殆ど鼻が隆起していない。祭の屋台で売られているビニールの仮面のようなうすっぺらい面に思われたのである。早速、私は、若菜さんの描いた人魚姫の可愛らしさを損なわないように、それでいて自分なりの人魚姫の顔を描いてみた。
 出来上がった仮面は、可愛いと言う人もいたので私はそこそこ満足していた。しかし、OKさんの指先に宿る職人的な技術がなく、仮面の表面の仕上げは不十分であったことは認めざるをえない。いくら可愛い姫を作っても、例えば、頬の表面の曲線の精度、左右対称の精度はOKさんに比べて劣っていた。当時、そんな瑣末なことは気にしていなかったのである。私は何に於いても、仕上げが甘い気がする。
 人魚姫で記憶に残っているのは、姫の髪の毛の色である。人形の仮面につける頭髪の素材は、ボア、麻糸、毛糸、荒縄(ピノッキオ)などがあった。私は新宿のオカダヤの毛糸売り場へ行って、明るい緑青の毛糸を買ってきた。そして、仮面に付けた。この髪の毛の色はOKさんも、美しい緑色だね、と褒めてくれた。渋谷東横ホールでの公演が終わって会社に戻ってからだったろうか、業務部のWTさんが、制作室に入ってきて「外国人から電話入ってるの。なんだか、髪の毛のことを言っているの。応対して!」言う。私は電話に出るとその外国人女性は日本語でこう尋ねた。「あのお姫様のKattura綺麗ですね?あのKatturaは何で作りました?」と繰り返す。最初何のことが分からない。「Wig?Wig?ですか?」今度は、相手が私の言った単語が英語であることが分からない。状況から判断して、人魚姫の髪の毛の素材を聞いていることが分かったので「あれは毛糸です。オカダヤで買ってきた毛糸、woolですよ。」なんとかご納得頂いた。何よりも、あの色を気に入ってくれた人が、OKさん以外にもいたので嬉しくなった。
 『人魚姫』舞台で印象に残っているのは紗幕である。海底の場面では紗幕が下ろされ、姫や魚たちは紗幕の後ろで演技をした。うっすらと青色のつけられた紗幕があると、舞台により一層の遠近感が出て、海中の雰囲気も出た。紗幕の内側だけに照明が当たるので、空間が水中と客席で截然と分かたれるのである。

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 ところで、『ぶんぶくちゃがま』の旅公演の時に、私が舞台を台無しにして、顰蹙を買ったことを書いておかなければならない。『ぶんぶくちゃがま』では、ちゃがまに化けた狸が、見世物として綱渡りをする場面がある。この場面はこんな風に作られる。中割幕と言う黒い幕が上手と下手から閉められて、真っ黒な背景を作る。その幕の前に、平台と呼ばれる教壇のような台が上手から下手まで三尺の高さの脚をつけて、ずらりと並べられる。その台からは黒い別珍の幕が前面に垂らされているので、正面から見れば、ただ真っ黒い舞台があるだけである。その平台の上に、一本の太い縄が上手袖から下手袖まで置いてあり、両側で裏方がその綱を肩に担いでいる。ちゃがま狸の役者は、その太い縄の上を唐傘を持って踊るのである。客席から見れば、狸が綱の上を歩いているように見えるのである。
 この綱は大切なので、私はこの時は舞台監督ではなかったが、何度か大道具方に設置を確かめるように言っておいた。しかし、転換直後、幕が上がる直前になって、無いことに気づいた。私は平台の上をこの綱をもって韋駄天走りした。しかし、ちょっと間に合わず、私の駆け抜ける姿が、一部見えた。笑いがきてしまった。
 役者は何が起こったのか分からず、演技を続けた。楽屋に戻ってきた役者に攻められたのは言うまでも無い。木馬座の思い出を書いていて、この恥ずべき失敗を書かずにはいられない。

(このスケッチは、1978年に描いた人魚姫。)

 

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(この尼僧は、王子と結婚することになる、隣国の姫。1978年にスケッチブックに描いた下絵)


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