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劇団木馬座の思い出 その35 [劇団木馬座の思い出]

 劇団木馬座ではいろいろな人々に会うことができた。それもあの時代の懐かしい思い出であるばかりか、私にとっての宝物でもある。人間は、素晴らしい人間に出会うことによって、触発されたり、感化されたりして、今までなかったり、不足していた部分に、少しずつ新しい自分が形成される。
 大道具方の人々について。先ず、思い出すのは日本大学芸術学部卒業したNGさんだった。彼は大道具方として、入って来た。私よりも四、五歳年長者で、劇団ロバと言う人形劇集団に属していたそうだ。その劇団が潰れたのか何かで、やってきたのだ。既に劇団での経験があったので、彼は一緒に入ってきた同僚に対して、何かと世話を焼いた。OKさんから「NG君は、一言多いんだよ!」と嫌味を言われていた。経験がある人ではあったが、木馬座と言う職場での経験はなかったので、同僚より優れていたかと言うとそうでもない。NGさんについて思い出すのは、彼が『種の起源』を読んでいたことである。私と言えば、ダーウィンについては岩波新書『ダーウィン』と『ビーグル号航海記』を学生時代に読んでいたが、『種の起源』は未読だった。昼食後、日向でシートか何かに腰掛読んでいるので、私は「
何で読んでいるんですか?芝居の役立つのですか?」と尋ねた。「何でもいいじゃぁないの。読んでおかなければならないのだよ。」彼に刺激されて、私は後日『種の起源』を買った。そして、現在になってやっと岩波文庫の三冊目を読んでいる。彼がカップヌードルを昼に食べた時のことだが、「塩分は体によくないからね。」と言ったので、汁を捨てるのかと思いきや、お湯を注いで汁をみな旨そうに啜った。「そうやったら塩分の摂取量は変わらないのでは?」と私が聞くと、にやりとして「あっ、そうか。」と言う。日芸と言うと、逸材を輩出する学部であるが、NGさんは今何をしているのやら。
 木馬座の後、前進座の大道具方となった俳優志望のOTさん。彼は、色黒で背が一八〇センチ近くあり、細身だが並外れた腕力があった。裏方には力自慢が結構いた。それなりに皆鍛えているからである。OTさんに、どうして力がそんなにあるか尋ねてみたら「俺、土方やってましたから。」と笑って答えた。やはり土方と言うのは大したものだ。ちょっとやってみたい、と思ったが、結局、その経験はないままである。
 *ここに紹介する写真は、なぐり(舞台用ハンマー)、小鍛冶(こかじ)、釘三種類、二寸、一寸五分、八分。stage hammer, etc.2.JPGなぐりは、六本木にあった俳優座大道具で購入したもの。退職後も日曜大工で愛用している宝物。柄の頭の部分は、金具でしっかりと固定され、飛んで行かないようになっている。反対側は斜めに削ってあるが、これは、搬出準備で大道具を解体するときに、パネル同士を繋ぐのに使う貫(ぬき:幅10センチ、厚さ1センチの板)をパネルから剥がすときに、パネルと貫の間に差し込んで梃子のようにして使うためである。ちょっとした工夫であるが、こうなっていないとなぐりは使い物にならない。なぐりを持っている者は皆同じようにしている。
 小道具方では法政大学国文科卒業のKNさんがいた。彼は青森県の出身だったと思う。いつもにこやかで、温厚で立派な人物だった。彼とは好きな作家の話をしていて、ケストナーで盛り上がった。彼が好きな作品は『飛ぶ教室』である。私もケストナーの作品では、この作品が一番好きかも知れない。劇団木馬座では『五月三十五日』と言うケストナー作品を上演していた。子供の頃その舞台を母に連れられて弟と一緒に観に行ったことがあった。ケストナーは姉が岩波書店のシリーズを何冊も持っていた。『エミールと少年探偵たち』『点子ちゃんとアントン』『ふたりのロッテ』『動物会議』『サーカスのこびと』『私が子供の頃』など。KNさんは、『飛ぶ教室』の冒頭も好きだと言った。ケストナーがクリスマスの物語を書く為に、ツークシュピッツェ山の麓の湖畔にやって来る。そこでケストナーは蝶にゴットフリートと言う名前をつけて呼んだり、子牛のエドアルトに話しかけたりしている。ケストナーが使うのは緑色の鉛筆と沢山の原稿用紙である。この緑色の鉛筆がKNさんには、とても印象的に記憶していると言っていた。緑色の鉛筆、と言う表現が美しいから、そして、この『飛ぶ教室』に描かれる少年達に相応しいからだとも。主人公のマルティンが大好きで、涙がでそうになるくらい感動した、と語る彼は、とても情熱的だった。本に書かれた文字、単語、物語をこのように読み込み、愛することができる人がいるのだ。私もケストナーは好きだ、と思っていたが、その程度がまるで違っていた。好きだと言うのは、こういうのを言うのだろう。
 木馬座を退職してからも付き合いがあったBB君のことを簡単に書いて置きたい。彼は九州出身であった。大学を中退し、演劇か音楽かで身を立てるために上京してきたのだった。彼は大学在学中に日本書紀に基づき、ヤマトタケルを主人公にした戯曲を書いた。それが大学祭で上演され、大好評だったそうである。彼からその物語を聞いて、私もその芝居の上演を観てみたくなった。私も自分が構想していて書き上げていない小説『山賊の娘』について熱く語った。彼はこの物語に興味をもち、身を乗り出すように私の話を聞いた。退職後、彼が書いて自主上演した芝居を二本観たが、どちらかと言うと私好みの作品であり、それなりに才能を感じさせた。不条理演劇的であり、また、閉塞感のある社会に生きる人間を、象徴的に面白く描いていると思った。
 しかし、彼には欠点があった。恐ろしく不器用なのである。製作の手伝いもしてもらうが、彼には仕事をさせてはならない。やり直ししなければならないからである。鋸一つまともに挽くことができない。挽いているうちに、どんどん曲がってしまう。一度は、あまり乱暴に挽いているうちに、自分の手を挽いて、怪我をしていた。なぐり(舞台用ハンマー)で釘を打つ時も、釘の頭を外したり、釘を斜めに打って頭が曲がったり、およそ普通の人間ではやらないヘマばかりをする。ある時、舞台の準備中であったが、十五尺の立ち木を運んでいて、客席に向かってその張物を倒してしまったことがある。あまりの不器用さに「馬鹿!」と怒鳴りつけてしまう。本番中であったら大問題、事故に繋がるような失態である。よって、ものを壊すこと、失敗すること、台無しにすることを「BBる」と言う動詞が使われるようになった。
 彼は作詩、作曲もする人間だった。楽譜が書けないので、自分でギターを弾きながら歌った曲をカセットテープに取ってあると言っていた。それを楽譜にしてもらえないかと頼まれたが、その気になれなかったので断った。
 彼とは退職後も会い、一緒に劇団を作ることも計画したのだったが、結局、「BBる」その破壊的な人間性故に、反りが合わず、絶交状態にある。私が彼を許すことができなかった最大の理由は、私の書いた『夜長姫と耳男』の台本を、汚れることも気にせず林檎を齧りながら読み、読み終わってから私に放り投げてよこしたからである。そして私が感想を求めると「原作がいいからなぁ。」とだけ言う。ビートルズの”The fool on the hill”を私が編曲したものについて意見を聞くと「原曲がいいから、よく聞えるのは当たり前だよ!」と言う。これは私がとても気に入っていた編曲で、アメリカ人にも「よく、このような謝肉祭のような、お祭のような雰囲気がだせるね!」と感心され、自信を持っていた曲でもあった。詩人の友人NB君にも同じことを尋ねると「編曲次第で音楽はいくらでも変わるもの。この編曲は好いよ。」と褒めてくれた。ちなみに、この詩人の作った曲を私は自分なりに編曲してカセットテープを彼に渡したところ大いに感激してくれた。BB君とは、木馬座時代の彼の友達二人も絶交状態になってしまった。彼の才能を私はそれなりに認めていたので、残念である。
  


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SAKANAKANE

職場であれ、学校であれ、所謂青春時代と言われる頃の人との出会いというモノは、人生にとってとても大きな影響をもたらすように思います。
それまで全く経験したコトの無い、全く異なる価値観とか、カルチャーショックとでも呼べるような驚き、最初は違いの大きさに面喰いつつも、やがては共通点も見出せたり、そうやって成長して行くのでしょうね。
逆にその成長が上手く成し遂げられないと、社会性とか協調性が著しく阻害されて、一般的な人付き合いが難しくなるのでしょうね。
by SAKANAKANE (2009-05-11 03:13) 

さとふみ

『飛ぶ教室』、なつかしい話です。前書きの緑色の鉛筆はインパクトがありました。
中学校1年の時、この話を読んで、ドイツ語の教科書を買ったものです。
by さとふみ (2009-05-12 10:18) 

エルモ

ご自身で編曲されたThe fool on the hill、聞いてみたいです。
BEATLES以外にはセルジオメンデス版しか知らないので・・・^^;;;
by エルモ (2009-05-13 10:59) 

sig

こんにちは。
仕事は辛くてもこころに残っている暖かい人間関係があり、またその逆もあり・・・、青春時代のおそらく誰でも体験するだろうと思われるこうした記憶に、とても共感を覚えます。
それにしても、アヨアン・イゴカーさんの青春が今なお生き生きと描かれていること…それだけまじめに自分を見つめていたことの証左だと思います。
by sig (2009-05-13 17:28) 

いっぷく

道具を今でも大切に使っていることに同感。私も道具は大事に使うほうで激しく使ってもかわいがれば変わらない性能を発揮してくれます。

その当時に出会った彼らは粗削りではあったかもしれませんが今ではみんな角が取れて丸くなっているかもしれませんね。
人との出会いで残念なのはやはり価値観の相違が大きいとは思いますが、意思疎通の失敗や誤解でしょうか。
by いっぷく (2009-05-16 12:33) 

mimimomo

こんにちは^^
人生は、人との出会いそして経験が全てと言っても過言ではないですね~
そのくらい自分に影響を与えるものだと思います。
九州出身のBB君とどうもそりが合わなかった様子。九州も広いので分かりませんが、確かに繊細さに欠けるところがあると思います。わたくし自身
九州の出身で思い当たる所がありますから^^
by mimimomo (2009-05-16 12:40) 

アヨアン・イゴカー

SAKANAKANE様、Krause様、takemovies様、toraneko-tora様、夢空様、お茶屋様、アリスとテレス様、えれあ様、くらま様、くーぷらん様、olive様、アマデウス様、orange-beco様、flutist様、kaoru様、さとふみ様、Chinchiko-Papa様、doudesyo様、エルモ様、イリス様、sig様、shin様、kakasisannpo様、U3様、いっぷく様、mimimomo様、ララアント様 nice有難うございます。
by アヨアン・イゴカー (2009-05-17 00:50) 

アヨアン・イゴカー

SAKANAKANE様
青春の思い出がなぜ人生に大きな影響を与えるのか、ちょっと考えてみました。きっと脳の成長が大きい分だけ、記憶に残る部分も大きくなるのではないでしょうか。

さとふみ様
私がドイツ語版を買ったのは、大学を卒業してからです。それもちゃんと読んでいません。

エルモ様
ビートルズのthe fool on the hill について反応していただき有難うございます。早速、カセットテープに録音しておいたものを、アップしました。

sig様
一生、青春の思い出を引きずり、青春時代に考えていたことを成就させようと努力し続けるような気がしています。

いっぷく様
劇団時代に、肩紐のついた大きな帆布のエプロンを工業用ミシンで作りました。今でも、看板を作ったり、木工作業をしたりする時には、これを着用します。それを見る度に、母が「懐かしいエプロンをしているねぇ。」と言います。

意志の疎通を欠くと言うことよりも、やはり、人生観の相違が大きいのではないでしょうか。BB君の場合、3人の友人によって見放された訳ですが。育ってきた環境、生まれつきの性癖などが原因?
こんなことがありました。中華料理店で一緒に夕飯を食べた時です。彼は店の年配の女性にいろいろ注文を付けた上、一つの料理をまずいと言って、一口食べた後、そのままにしてしまいました。せっかく作った料理、それを不味いといって放り出すようにして食べるのを止めてしまったのです。私は、多少不味くとも、体に悪いのでなければ、出されたものは残さず食べます。作った人、食べ物に対して、残すのは失礼だと考えるからです。このようなことが、何回もありました。

mimimomo様
出会うこと、また出会わなかったこと、「あれかこれか」ですね。二択しかないのですが、その両方ともが、人生を形作ってゆくのですね。



by アヨアン・イゴカー (2009-05-17 01:27) 

doudesyo

おはようございます。
難しい部分ですね。才能と営業とそして、舞台と。それぞれがそれぞれに要求されるレベルがありますから、全て完璧にというのはできないまでも、有る程度協力しあわないと出来ないところもありますからね。どれにせよ、アヨアン・イゴカーさんは、凄い人生を歩んでらっしゃるのが分かります。^^;
by doudesyo (2009-05-23 06:30) 

アヨアン・イゴカー

lapis様、piattopiatto様、サチ様、北国の帝王様 nice有難うございます。

doudesyo様
まだまだ20代の話ですから、大したことはありません。自分の中に、あの時代が、記憶が焼きついて残っていて、思い出だけ語るといかにもそれらしく聞えてしまうのでしょうか、それが気恥ずかしいです。
by アヨアン・イゴカー (2009-05-23 19:23) 

いっぷく

食に関してもその考え方は私とアヨアン・イゴカー さんの考えは同じです。
明日の食物をも心配して生きている人たちが世界にはたくさんいます。

by いっぷく (2009-05-24 07:05) 

アヨアン・イゴカー

いっぷく様
再びご見解を頂戴し有難うございます。
食べ物については、私は脅迫観念のように、粗末にしない癖がついています。一般的に、物を粗末に扱わない、と言うのが染み付いています。両親や祖父母の時に注意をしてくれた言葉の影響です。
by アヨアン・イゴカー (2009-05-24 09:47) 

samohan

たまたま木馬座で検索しましたらここに辿り着きました。
劇団木馬座の思い出、一気に読ませて頂きました。
白雪姫のあの熊をもう一度写真でみることができ、大変感激です。
しかもそれをアヨアン様が作っておられたとは…。

確かあの熊は悪い妃に毒リンゴを口に詰められて悶絶してしまうのです
よね。
今思えば、リンゴを口にくわえる仕掛けも大変だったのではないかと。

それからマジックミラーの魔法の鏡は今も鮮明に驚きがよみがえります。
私は当時小学1年生でした。
鏡のセリフの「やきもちをやいたお妃さま」の意味がわからなかったこと
を懐かしく思い出させて頂きました。

実は私は何度か回想に出てくる、演出家Kの息子です。
親父はもうすぐ80ですが、元気にしております。
長嶋さんも90を越えておられるのでしょうが、まだまだお元気そうですね。

長文失礼しました。今後もご活躍をお祈り致します。
by samohan (2010-05-06 23:53) 

アヨアン・イゴカー

samohan様
お越しいただき有難うございます。
K先生の息子さんなのですね。K先生、お元気なのですか。とても懐かしいです。宜しく、お伝え下さい。
実は、K先生とは何回か対立のようなものがありましたが、それは私が世間知らずで生意気だったからです。木馬座を退職して暫くしてから、あの時私はもっと大人であるべきだった、と心の中で冷や汗を流しました。
「やきもちをやく」と言うことは、小学一年生には理解できない言葉だったでしょうね。長嶋社長は、それでも、情操教育を木馬座の存在意義として捉えていた筈ですから、分からない言葉のもつ意味も考慮して、敢て易しい言葉に置き換えたりしていなかったのだろうと思います。

気が向いたら、またお越し下さい。
by アヨアン・イゴカー (2010-05-09 16:03) 

落葉サンタ(中村 剛)

 初めてご連絡いたします。

 私はアヨアンさんのブログから少しだけ
遡る時期に木馬座にご縁があった者です。
 このたび自分のブログを開設するにあたり、
アヨアンさんに触発されるかたちで少し思い出を
書いてみようと思い、ごあいさつすることに
いたしました。
 アヨアンさんとはすれ違いではありますが、たぶん昭和51年4月7日の南国酒家ではご一緒したのではないかと思っています。
by 落葉サンタ(中村 剛) (2011-09-22 09:20) 

落葉サンタ(中村 剛)

アヨアン・アゴカーさま

 コメントをいただきありがとうございます。
 お会いしたとの勝手な勘違いをお許しください。
 ブログの方は少しづつ書いていくようにいたします。
   では また
by 落葉サンタ(中村 剛) (2011-09-24 00:17) 

落葉

役者のいない劇団なんて当時は想像を絶していました。
でも、今ならわかります。
100人以上の役者を抱えていたらどれほどの人件費がかかることか…劇団四季のように高価で頻繁な公演を打ち続けなければ無理でしょう。そしてそのつけがやがて来たわけです。
 元の木馬座は一人の卓越したクリエーターがいてその意を実現しようと突進する集団だったのです。
by 落葉 (2011-09-27 08:43) 

落葉改め楽葉

 ぬいぐるみを初めて劇団近くのクリーニング店に持ち込んだ時の店員の当惑顔がおかしかった…

 大阪事務所は当時通称エミちゃんアッちゃんコンビが取り仕切っていたように覚えています。
by 落葉改め楽葉 (2011-10-02 08:32) 

楽葉

 劇団木馬座になって人間の面がすっぽりかぶるものから仮面にシフトしていったのは長嶋社長の美意識でした。
面の下につける襟の部分がいやだというのです。
ぼくたちは面から胴体へのつながり上、必要だと思ったのですが、長嶋さんの目には不自然に映ったようです。
by 楽葉 (2011-10-15 17:47) 

楽葉

『スケートをはいた馬』ではずっと馬の後足をやっていました。後足でしたので、あまり舞台を見る機会がありませんでした。最後に馬のネグロカバロが南洋でフィアンセを見つけてコンラートたちとお別れする場面は別のコンビに交代するので、その時だけ、袖からフィナーレを見た記憶があります。


by 楽葉 (2011-10-30 02:40) 

楽葉

 ぬいぐるみは代役が立てやすいのは間違いありませんね。少し先の話ですが、ぼくも一日だけ主役の代役を務める機会がありました。

 なかなか劇団木馬座のエピソードに到達しませんが、しばらくお許しください。秋の地方ツアー『ピーターパン』、冬のツアー『ヘンゼルとグレーテル」藤城清治が関わった最後の冬公演『雪の女王』と続き、長嶋社長の新体制が始まります。
by 楽葉 (2011-11-08 10:34) 

落葉

 ぼくの知らない全盛時…木馬座は舞台を遊園地にしてしまった…という劇評があったといいます。遊園地上等じゃないでしょうか。お金をかけて夢のある舞台を子どもたちにみせるのは立派な仕事だと思います。国立劇場の舞台…ぼくもできれば関わりたかった…
by 落葉 (2011-11-12 11:00) 

楽葉

 木馬座の芝居や影絵を子ども時代に見る機会があったらずいぶん印象も違うのでしょうね。
 カチャカチャ…とすばやくボタンを押して音の頭出しをする様子がDJのレコード操作のようでかっこよかった…(見ている分には) 
今でも777は使われているのでしょうか…コンピュータ制御なのかなぁ…

by 楽葉 (2011-11-30 01:19) 

楽葉

 分裂の時、北社長に引きとめられていればそのまま残ったとは思います。別に大したポリシーもなかったので…それはまた全然違った人生になるわけですね。
by 楽葉 (2011-12-10 23:39) 

楽葉

 複数のスタッフがバラバラに面を作ることはそれが動物の面であっても統一がとれないと思います。でも劇団木馬座スタートの状況では目先の作業で精いっぱいでした…
by 楽葉 (2011-12-18 03:26) 

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