SSブログ

原始言語 [変化]

 今日、世界のニュースをNHKで見ていて思った。ベルファストの鶏もコケコッコーと鳴いている。これは驚きである。分かっていることではあるが、改めて驚きであった。牛はモーと吼えるだろうし、馬はヒヒーンと嘶くだろう。しかし、しかしながら、この人間という種は言語を持っており、その発せられる言葉の意味によって、相手の考え、感情、状況を判断しようとする。件の動物の鳴き声ですら表記、表現がことなる。地域によってはその声を認識されないことすらある。言語の違いは、発想、文化の違いでもある。
 東武動物公園の初代園長だった西山氏は、上野動物公園で河馬の飼育係をしていた時に、フランス人の女性だったと思うが、彼女に動物園を案内する役目を仰せ付かった。西山氏は外国語が話せない。しかし、なんら不自由はなかった。なんとなれば、彼は動物と意思疎通をしていたので、人間も動物の一種と考えれば、言葉は不要だったのだ。彼女も満足して帰ったらしい。私は、この話を読んだとき、なるほどと感心したものだ。ボディーランゲージの本を読んだのもこの話を知った頃だった。
 原始言語を考えてみると面白い。私がここで言う原始言語は、アウストラロピテクスやネアンデルタール人達に共通言語があった、と言う意味ではない。そのような共通の母言語を研究する学者もいたと思うが。人間と言う種は、鶏や犬や猫のように、同じ音声を発していたはずである。それが、コケコッコーやモーのような表記にするとどのような音声だったのか。どうすればこの原始言語、音声を再現できるのか、今後考えておこう。私は原始言語は、ヒトが知能を有するために、鶏や猫のように数少ない音声によって表現されるとは考えていない。もっとずっと複雑だったろうと思う。
 原始言語があったにも拘らず、たまたま声帯があるために、音程や音自体の変化をお互いの意思をより細かく規定するために固定化させ、子々孫々伝えることになったのである。九官鳥やセキセイインコも音声を変化させることが出来るが、それが言語とならないのは、大脳との関係があると思うが。記憶力がないと、変化を変化として保存しておくことが出来ない。類人猿は言語がないと言われているが、短期記憶は非常に優れた能力を示したりする。緑という色を抽象的な単語によって覚えるのではなく、色そのものとして記憶しておく。人間の場合は、その緑は範囲が広く、より正確にするためには、更に細かい定義をすることになる。黄緑、深緑と言う水準から、舞台照明のようなゼラチンの番号表示もある。それだけ記憶する単語量が増える訳である。そのため、世の中に住んでいる学者と言う種類の人々は、自分の専門分野に於いては、言葉の使い方が正確である。それゆえ、彼等の話は具体的、専門的で興味深い。彼等の話は七面倒くさいと思う向きもあるかもしれないが。
 人類が経験してしまった言語による変化は、変化速度に加速度をつけてしまった。いまさら、原始言語に戻ることは出来ないが、それがどのようなものであったかを知ることは、人種ごとに、地域ごとに異なる言語の成立を考える上で、非常に重要であると思う。聖書にあるバベルの塔の話は、実に叡智に満ちた例え話だ。確かに、人類は多くの言語のために意思の疎通に障害を来たし、お互い不信感を抱き、殺し合い、憎みあい、戦争を繰り返している。いっその事、言葉を話すことの出来ない猿であった時代に返れば、人間はもっと平和で仕合せな時を送ることができるのかもしれない。エデンの園で暮らしていたアダムとイブも、知恵の林檎を食べてしまったために、つまり現実を知ることによって不幸になった。(彼等は裸体であることを認識し、慌てて恥部をイチジクの葉で隠したが、この羞恥心はどこからきたのか。改めていつか考えてみたい。)
 化学では不可逆の法則がある。しかし、敢えて逆行して、人間については多少楽観的に考えたい部分もある。そうしないと、自分の存在意義すらなくなってしまうからだが。知恵の林檎を食べて善悪を知った上で、原始言語時代に近い発想をもって生活をすることはできるだろう。生き物とはそも、利害関係が対立した場合には、共存できないのである、と知れば、憎みあうことも、殺しあう必要もない。知った上で、寛容になることができれば、世界平和が訪れるであろう。
 そして、あの「三歩馬鹿」と呼ばれる鶏は、未来永劫世界中でコケコッコー(日本語表記)と啼き続けるのであろう。あぁ、なんと平和な生き物だ。
nice!(12)  コメント(7)  トラックバック(0) 

nice! 12

コメント 7

にすけん

 文化の起源的にはつながりがないとされる言語の間で、共通の音と意味を持つ単語が存在するという話はよく聞きます。日本語の『そう』英語、独語などの"so"などは有名な例ですね。
 喜怒哀楽の表情と発声は全国共通ですから、あちこちに言語の起源の名残らしきものはあるんでしょうね。

 私は、相手が人間であれ動物であれ機械であれ、コミュニケーションの姿勢に区別をつけません。特に人間は思考して言語を操作するため、言語で本当に意思疎通している割合って結構低いと思いますね。
 福田総理の言葉なんかいい例でしょう。あの日本語そのままの意を酌む人がいたら、社会生活を送れません(笑)
by にすけん (2008-04-07 10:13) 

tsuji1

はじめまして。
猿が色覚を回復させたのは表情を読むためだという説があります。
筋肉の動きだけでなく、緊張や感情の起伏が血管を収縮させたり血流を促進させたりするので、変化する顔色を読み取ろうとしているようです。

専門家が言語を多様化している一方で、言語能力そのものは衰弱していますよね。漢字や熟語を知らない若者が急増している気がします。

原始言語を蔑ろにした結果が言語能力を衰退させたのだと私は考えています。
by tsuji1 (2008-04-12 20:39) 

アヨアン・イゴカー

にすけんさん 書き込み有難うございます。

tsuji1さん 書き込み有難うございます。大変興味深い専門的なブログを開いていらっしゃるので、早速お気に入りに登録いたしました。時々、訪問させて頂きますので、宜しくお願いします。

tsuji1さんの仰っている
>専門家が言語を多様化している一方で、言語能力そのものは衰弱
と言う点ですが、実際に、会社の採用などで「コミュニケーション能力」などと言うことが問われるようになってしまっています。
尤も、これにも考え方が二つあると思います。若者にコミュニケーション能力が無くなってきつつあるかもしれないと言う考え。もう一つは企業が「社会人たるものが身に着けるべき社会人としてのコミュニケーション能力」を新たに定義しただけだと言う考えがあります。考えかたは他にもあるでしょう。そもそも「コミュニケーション能力がなければならない」と言う考えが正しいのかを問わねばならないかもしれません。
by アヨアン・イゴカー (2008-04-12 23:23) 

tsuji1

お久しぶりです。

「コミュニケーション能力がなければならない」との問いかけに私も考えてみました。

人間は言語や科学思考などを知能を進化させて生き延びてきました。
その真髄は原始言語の能力、言い換えれば同化能力にあると思います。
同じ人間にとどまらず、万物に同化することで精霊信仰を、そこから科学的な思考が生まれたのではないでしょうか。

相手と同化することなく自己を正当化した結果、戦争が生じたのでしょう。
言語が多様化しても西山氏のように同化能力が真っ当であれば、平気で他人を殺すような世の中にならずに済むはずです。ですからコミュニケーション能力は不可欠であり、単なる情報交換レベルではなく、もっと深い相互の同化(相手に期待し、相手の期待に応える充足)が求められているのだと思います。
by tsuji1 (2008-05-17 21:47) 

アヨアン・イゴカー

tsuji1様 コメント有難うございます。仰っていることは正しいと思います。自己のみを正当化することは、独善的であり、時に排他的で、排外的になることです。考えの一致しないもの、気に食わないものをオストラコンで追放するギリシアの考え方も、コスモポリタン的発想ではありません。人類が、自然と一体化して平和に、お互いに憎しみを持たずに暮らすためには、コミュニケーション能力は不可欠だと思います。

ところで、私が「コミュニケーション能力がなければならない」と言う考えが正しいのかを問わねばならないかもしれません。」と書いた趣旨は、会社の人間が自分達に都合の好い論理を受け入れるかどうかを、「コミュニケーション能力」と言う言葉にすり替えているのではないか、と言う指摘でした。
by アヨアン・イゴカー (2008-05-30 00:10) 

玉川..河童.

高知県安芸市の生まれです〟
もう、ほとんど無くなったようですが、老婆たちの会話の中に、
英語にそっくり言葉がありました〟

何か重大で悲惨な事などがあった時に、発する感嘆詞があります〟
英語=Oh No !
安芸=おうのう(オーノー)と相槌を打ちます〟
非常に似ています〟
by 玉川..河童. (2012-05-20 02:05) 

アヨアン・イゴカー

玉川..河童様
コメント有難うございます。
たまたま同じような音を発することはあるようですね。
ドイツ語でAch so?と言うのは、日本語のあっそう?と似た意味のようです。
by アヨアン・イゴカー (2012-05-20 15:38) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0