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キリコ風 その2 [日記・雑感]

20161002DSCN3116.JPG その実、少しもキリコではないのにもかかわらず、何となくキリコ。そんなことをしているうちに、新しさがでてくるのだろうと思っている能天気な人間。何事もまずはまねびから、などと。

 キュビスムで共同制作をしていた時代のピカソとブラックは区別が付かない作品があるが、区別が付かないというのは個性が必要になる芸術家にとっては致命的だ。共同制作とは言うものの、お互い、焦ったのではないか。「これー、パブロの作品でしょう?」とか「これは、ジョルジュさんのですよね?」などと言われた時の空しさ。ピカソが「いや、これはもともと俺が最初に考えて描いた画法だ!」と怒鳴ってみても、共同制作で作家の区別できなくなってしまったら。
 芸術に公式は禁物だろう。公式と言うものはあくまで技術を身につけるための手段ではないのか。オリジナル作品に公式を使った段階で、オリジナリティーが損なわれるのではないか、部分的に、あるいは全面的に、オリジナリティーが失われるのではないか。(一部公式を使えば、オマージュになるかもしれないが。)皆で作るもの、誰でもができるもの、作りうるものは芸術作品ではない、とは必ずしも言えないが、新しい一流派を形成することはないだろう。公式が弟子に伝授された時に、弟子は別の要素を追加しない限りオリジナルではなく、亜流になってしまうだろう。
 群馬県板倉東洋大前と言う駅に何度か行ったことがあるが、駅前の空間にトタン板を貼り付けたパネルがずらりと並んだ塀があった。そこには 一見するとホアン・ミロ風の絵が描かれていた。ミロの絵を写したものかと思いきや、そうではなく、あくまでもミロ風。塀をキャンバスに見立てた場合そこに生まれる、丸や四角や三角などの形や動物が何も描かれていない空間がある。ただの空間になっていて、そこにはミロが楽しみながら(苦しみながら?)描いて作った遊びや緊張がない。水墨画にあるような、必要にして十分な余白、空白、空間ではない。あくまでもミロ風、模倣なのだ。こういう手法は、その基本的な考え方が量販店、フランチャイズ店舗にも共通しているのかもしれない。そこそこの品質を提供する、が、本物に近いが、本物ではない。最近では、本物の専門店がどれだけあるのやら。料理でも衣料でも、最も良いとされているものをその道の専門家達が分析して、再構成して公式を作り出し、誰でもが同じことをすることができるように指南書を書く、販売する、研修する、商品化する、こういう流れが出来上がっている。それまでより多くの消費者が期待でき、販路を拡大でき、そうすると儲かるからである。量産化によって、その物自体の存在は広がり、裾野は広がるのだが、そのものに対する認識、理解、把握など根本的なものは薄められてしまう危険もあるのかもしれない。薄っぺらな民主主義、平和、教育、文化等々の言葉が氾濫することにもなりかねない。 

 


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mimimomo

おはようございます^^
衣料も芸術品と言うのかどうか知りませんが、わたくしも着る洋服はオリジナリティーがある方が好きなんです。誰も着ていないような^^ その方が自分らしいと思うのです。
by mimimomo (2016-10-08 10:13) 

Enrique

私が企業にいた時,量産化こそが至上命題でした。売り上げが月1億で課長,10億になれば部長,と言われていました。量産化して売り上げを立てたものがエライと。しかし私にとってそれは最もイヤな仕事で逃げ回っていました。ですからいずれにもなる前に会社を飛び出しました。
by Enrique (2016-10-08 16:37) 

アヨアン・イゴカー

SILENT様、carotte様、かずのこ様、Mitch様、majyo様、ChinchikoPapa様、yam様、さとふみ様、くらま様、doudesyo様、mimimomo様、tommy88様、八犬伝様、芝浦鉄親父様、めもてる様、Enrique様、ファルコ84様、schnitzer様、森田恵子様、KEI様、月夜のうずのしゅげ様
皆様nice有難うございます。
by アヨアン・イゴカー (2016-10-09 13:25) 

アヨアン・イゴカー

mimimomo様
やはり、誰も着ていないような洋服を着たいというのは、当然の思いだと思います。制服を着ているほうが便利な時もあるかもしれませんが、私もやはり他者と一緒ではありたくないという気持ちがあります。スーツはサラリーマンの制服、と思っていますが、幸いそれでも滅多に同じ柄の物にはであうことがありません。もし出会ってしまったら、やはりその人を避けると思います。自分の意図で彼と同じ柄を着ているからではないからです。昔は、今のようにスーツにも種類が多くなかったので、同じようなものを着ている可能性はずっと高かったのではないかと思います。
傘についても、私は自分の名前のイニシャルを刺繍したり、ボタンの位置を付け替えてしまったりしています。

Enrique様
量産化は松下幸之助の水道哲学ではないですが、一般庶民の生活水準を上げるためには必要な要素であることは間違いないと思います。が、量産化によって失われてしまうものもあるのではないかと思います。
量産化する仕事から逃げ回っていた、と言うのは面白いですね。量産化の反対の考え方が専門化、特殊化、個別化であるかと思いますが、社会が経済的、物質的に一定の水準に達すると専門化、特殊化、個別化に向うと言う事です。他者と同じ物ではなく、自分用に誂えられたものを希求するようになるように見えます。
by アヨアン・イゴカー (2016-10-09 13:54) 

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