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北海道の思い出 その14 [北海道の思い出]

今日は休日出勤の振り替えで休み。このところ忙しく、来週も気が抜けない。あまり面白いとは思わない本であるが、『菜根譚』に達士以心払処為楽、終為苦心換得楽来(道に達した人は、苦しみに打ち勝つことを楽しみとするので、結局、苦しみのお蔭で楽しみを手に入れる。)(岩波文庫p210)とあるので、それを目指して我慢している。 

 

小学校の思い出 

 北海道時代の小学校の思い出は、至って少ない。上美生小学校は明治四十一年(1908)九月六日、上美生特別教授所として開設された。私が通学した頃は、生徒が各学年、十人前後しかいないのだから、全校で五、六十人だったのではないか。床の奇麗な学校だった。木材を鉋で削ったままの美しい色。靴下で歩くと、滑って転ぶほど蝋で磨き上げてあった。一九六〇年十二月中旬に、世田谷区の明正小学校に転校してきた時に、まず目にはいったのは黒土のように黒っぽい、油を吸わせた床だった。汚い!それが私の第一印象である。いずれにせよ、北海道の学校では蝋で磨いた奇麗な床だった。担任は渡辺先生だった。髪の毛がベートーベンの蓬髪のように、横に広がった髪で、眉根に皺の寄る、眼光が鋭い女性だった。極度に自意識過剰であった私は、オープンリールのついた大きな録音機のマイクロフォンに向かって、自分の名前を言いいなさいと言われ時、恐ろしく小さな声で、且つ早口で自分の名前を言った。それも何度も先生に早くするよう促されてのことだった。後日、父兄会でその録音を聞かされた母が、早送りしたテープのような声にがっかりして「どうしてもっとちゃんと言わないの?」と私に言った。

 図画工作の時間に、チューリップの絵を描かされた。私は絵が大好きで、いつも母に褒められて煽てられていたような気がする。勝手に図鑑(玉川百科かもしれない)を見て、クレヨンで魚を描き、切り抜いて貼り付けて立体水族館のようなものを作った記憶がある。そんな私だったが、他の女の子や担任の渡辺先生が綺麗に花弁を描く様を見て、上手な人がいるものだ、と感心したものだ。

 sputnik shock 1957.JPG絵と言えば、兄が新聞紙にクレヨンでロケットや人工衛星を描いたのが、子供ながら甚だ印象的に記憶に残っている。一九五七年十月四日にソ連がスプートニク一号の打ち上げに成功した。十一月三日にはライカ犬が人工衛星に乗せられた。米国がロケット打ち上げ競争でソ連に敗北したと感じ、教育改革を始めるきっかけになった出来事だった。子供は単にそのロケットの姿、人工衛星の形の美しさに感動しただけである。球に箸を何本も刺したような人工衛星が、未知の世界全般への憧れを掻き立てた。このスプートニクについては、兄は母に教わったのと、学習研究社の『学習』によって知識を得たそうである。上美生小学校ではだれもスプートニクのことなど知らず、話題にもならなかった、と兄は言う。

 広尾の海に行ったことがあった。早朝。母によると朝四時頃に、黄色い声を上げながら、姉と出発したそうである。母は食パンにバターを塗り砂糖を掛けた弁当を用意してくれた。私はこの砂糖入りバタつきパンが大好きで、私にとっては大変なご馳走だった。

防波堤があり海岸のある海をこの時初めて見た。波、大洋としての海は、青函連絡船に乗った際に見ているのであるが、それは海としての対象ではない。広尾の海には、小さな漁船が防波堤の近くを航行していた。荒い、黒っぽい海だった。淋しい風景であった。どことなく物悲しい風景。しかし、帰宅後、あの漁船の色の美しさに感動していた私は、広尾の海の絵をクレヨンで描いたのだった。海の色は紺色。漁船の白い船橋が印象的で、何としても絵に残しておきたいと感じた。そして、稲黍色した砂。砂を掘ると、蟹がいた。貝もいた。広尾の海岸での思い出はこの程度である。

 帰りのバスの中での思い出は、O橋家の母と子である。何人かは母親が一緒に来ていたのだった。O橋君の母親は、ビニール袋に昆布などの海藻も取って来ていた。私は母と子のその収穫を見て、羨ましさを感じていた。尤も、漁民が取らずに残しておいた海藻は、煮てもなかなか柔らかくならず、結局は食べられたものではないそうである。

 学校にバスが到着して、いよいよ帰宅する頃、夕立が降り始めた。凄い大雨になって、姉と私はすっかりずぶ濡れになってしまった。途中で、新家のよっこちゃんが、オート三輪に乗せてくれた。オート三輪は、あれはミゼットと言う名の三輪車だったのだろうか?ハンドルはオートバイと同じ形だった。四輪自動車に付いている円形のハンドルではなかった。いずれにせよ、当時、オート三輪でも大変な地位の象徴だったようだ。本家の浅井博敏氏は、もっと大型で円形のハンドルのついたオート三輪自動車を所有していた。母の話によると、この大雨は、一挙に家の前を川のようにしてしまったそうである。

 

一九五七年 二月 日米通商協定調印       
            九月 東海村原子炉の完工式
       
            十月 ソ連、人工衛星スプートニク成功
          
                  日本、国際連合非常任理事国に当選
          
                  南極観測船宗谷出帆。五八年四月帰国
       
            十二月 日ソ通商条約調印
 
一九五八年 二月 アラブ連合共和国成立、大統領ナセル
       
            十月 フランス第五共和制発足
       
           十二月 日ソ貿易協定調印
 
一九五九年 一月 ドゴール、仏大統領に就任、キューバ革命    

   十一月 全学連等、国会乱入事件

   十二月 北朝鮮帰国第一次船の出発

一九六〇年 一月 日米新安保条約調印          
                  三井三池争議無期限スト突入、十二月妥結
       
           四月 韓国暴動、李承晩退陣
       
           七月 池田勇人第五十八代内閣総理大臣に就任
       
           十月 社会党委員長浅沼稲次郎刺殺される
       
           十二月 池田首相「国民所得倍増計画」「十年で月給が二倍以上になる」と説明
 
一九六一年 六月 農業基本法成立
       
           七月 韓国政変、朴正熙
       
           八月 ベルリンの壁遮断
 
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mimimomo

こんにちは^^
海に遊びに行くのも、昔は一大事だったような^^  わたくしも田舎に住んでいて父に福岡の百道に連れて行ってもらったことを思い出しました。
今の海外旅行より興奮する思い出ですよ^^
by mimimomo (2012-05-24 17:44) 

青い鳥

スプートニク、懐かしい思い出です。
by 青い鳥 (2012-05-24 23:56) 

Enrique

私は直接記憶は無いですが,人工衛星で米がソ連に先を越されたスプートニク危機の時は,米国内で教育に対する猛省でファインマンやシュウィンガーといったノーベル賞受賞者が教科書を書くなど教育改革が起こったこと,日本では安保闘争勃発,浅沼委員長が刺殺された時は子供達から刃物を遠ざけたこと,など後に知りました。
by Enrique (2012-05-25 05:08) 

zenjimaru

昔、オートバイに屋根が付いたオート三輪を見た事があります。
ただそれは一人乗りで、エンジン部からオイルか何かが発火して
砂をかけ消していた様子を記憶しています。
アヨアン・イゴカーさんが乗せてもらったミゼットは新型なんでしょうね^^
by zenjimaru (2012-05-25 22:40) 

アヨアン・イゴカー

gigipapa様、りんこう様、ぼんぼちぼちぼち様、kakasisannpo様、tochi様、niki様、はくちゃん様、めもてる様、kurakichi様、mimimomo様、砂漠のラクダ様、アリスとテレス様、krause様、flutist様、orange-beco様、海を渡る様、ChinchikoPapa様、山子路爺様、八犬伝様、スマイル様、般若坊様、青い鳥様,glennmie様、404様、Enrique様、旅爺さん様、carotte様、ほりけん様、SILENT様、くらま様、zenjimaru様、月夜のうずのしゅげ様、えれあ様、マチャ様、兎座様、Halumi様、rtfk様 皆様nice有難うございます。
by アヨアン・イゴカー (2012-05-27 22:47) 

アヨアン・イゴカー

mimimomo様
初めて海を見た時、感動しました。北海道の広尾の海岸は砂が黄色っぽかったので、江ノ島の砂や東京湾の潮干狩りに行った時、砂が黒かったので不思議な気持ちがしました。黄土色の方が、なんだか肥沃なような感じがしました。広尾で見た海は、青黒かったのも印象的でした。

青い鳥様
スプートニクは、私は小さな子供で認識はありませんでしたので、後で理解した訳ですが、兄が新聞紙などに描いていたロケットや人工衛星の形は覚えています。

Enrique様
ファインマンは、スプートニクショックで教科書を書いたのですか?
"Surely You're Joking, Mr. Feynman!"2/3ほどで中断したままですが、面白い先生ですね。金庫破りの話など、論理的で実に面白く、非常に示唆に富んでいます。兄は教員をしていますが、ファインマンの書いた物理学の本は、とても分かりやすいと言っていました。

zenjimaru様
ミゼットは、東京では当時結構見かけました。四輪車に圧倒されて直ぐに見なくなったような気もしますが。



by アヨアン・イゴカー (2012-05-27 22:59) 

sig

こんばんは。
私の頃の小学校はみんな裸足でしたから、床は適当に光って滑らかでした。当番制で、みんなで雑巾がけをして磨きました。
世田谷区の小学校の床は油をひいてあったということは、みんな靴を履いていたということですね。時代の違いを感じます。
by sig (2012-05-31 00:45) 

Enrique

ファインマン物理学はつとに有名です。これはカルテクでの講義内容のものです。これがスプートニクショックが端緒だったかどうかは分かりませんが,国家プロジェクトとして小学校の算数,ニュー・マスの教科書を書いたようです。
by Enrique (2012-06-02 14:40) 

アヨアン・イゴカー

sig様
北海道の小学校の床は、乾拭きさせられたのを覚えています。兎に角、普通の家の廊下のように、白木が光っていました。学び舎を綺麗にすることは大事ですね。

Enrique様
ファインマンの物理学はカルテクの講義録を基にしていたのですか。と言うことは授業も、分かりやすかったということなのですね。往々にして、頭の回転の速い人の説明は、端的で明瞭で分かりやすいと感じます。
by アヨアン・イゴカー (2012-06-02 18:30) 

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