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永山則夫 短編集『木橋』を読んで [評論]

2010425日(日曜日)

永山則夫短編集『木橋』『土堤』『なぜか、アバシリ』『螺旋』を読んで 

 何故、永山則夫は死刑にされねばならなかったのか。四人の人々を短銃で射殺した少年は、死刑にされるべきだったのか。

 結論を言えば、処刑を実行したことが日本の後進性の証明である。人間を死刑に処することが出来るのは、許されるのはどのような場合か。その人間が凶暴で、先天的に殺人嗜好を持っていて、殺すことが楽しいような人間である場合かもしれない。それは只の殺人鬼に過ぎないからである。人食いライオンのように危険なので、殺処分されねばならないのかもしれない。(それでも死刑にせず、無期懲役にして強制労働させるという手段の方がよいと思われるが。)人間一人を殺すことは殺人だが、大量に殺戮するのは『戦争』とか『粛清』と呼ばれることもある。(ちなみに、動物を殺すことは殺人にはならない。それが遊びのためでも。)そういう行為は行為者たちによって常に正当化されるが、勝てば官軍で、体制が代わった時に厳しく批判されることもある。イラクのフセイン大統領は独裁者として、大量の殺人を行ったために処刑された。しかし、永山則夫のように自分の行為に対して深く反省をし、贖罪の人生を生きようと誓っている人間を殺してはならない、仮令意図的殺人者であっても。特に、少年法改正のための布石にするための実施であったのであれば、それは断固許すべからざることであった。

 永山則夫の小説を読んで思ったことは、どうして一人の人間がこれほど連続して苦労させられなければならないのかという、世の中の不合理である。個人的な体験を言えば、私が子供の頃住んでいた北海道の十勝の田舎には、恐らく永山則夫の家族と同じか或いはそれよりも貧しい人々が住んでいた。私には殆ど記憶がないのだが、O家の人々は美生川の近くに掘っ立て小屋を建てて住んでいた。その家には扉もなく、(こも)が代わりにぶら下げられているだけだったそうだ。真冬には零下20℃にもなる十勝で、どうやって生きていたのか不思議なくらいだ。それでも、O家の兄弟達は、裸足で川原を楽しそうに走り回っていたと言うから、兄弟仲、親子関係は良かったのだと思う。それに対して、永山少年のなんと不幸なこと。彼の不幸は、生来の向上心に起因すると思われるのだが、彼の誇りになりうるものがことごとく目上の者、学校の教師、雇い人たちに否定されてしまうことであった。中学校の時のマラソン大会で一年生ながら五位入賞を果たしたにも拘らず、突然賞を貰う順位を四位までに変更してしまう学校、教師。こういう不条理、不公平を平然と許しておく学校は、異常である。彼は母親に五歳の頃兄弟三人と置き去りにされ乞食同然の生活を余儀なくされたり、兄達に毎日のように乱暴されたりした。人間が成長してゆく上で最も大切な心の拠り所も、自分を愛してくれていると信ずることの出来る人間もおらず、自己を形成する基盤となる、自己自身を確認できる何らかの特技すら、持っていることを認めてもらうことができなかった。最低でも、自分が死んだら泣いて悲しがってくれる人がいると思えば、それほど自暴自棄にはならずにいられるものだと思う。しかし、彼には自分の死を悲しんでくれると信じられる人間がいなかった。一年生ながら三年生たちを追い越して、マラソンで全校五位と言う素晴らしい成績を収めたにも拘らず、誰もそれを正当に評価しようとはしなかった。もし、誰かがこの快挙を正当に評価していれば、彼は全く別の人生を送っていたと思う。こんな精神状態にある人間が、幸福な人生を送ることが出来筈もなく、知性的な永山少年は、自分の存在を無にしようとする。

 彼が結果的に殺人を犯してしまったのは、自分自身の存在を確認する為だったのである。それは自傷する少女、思春期痩せ症の少女達の、自己自身の存在の希薄さに耐えかねて行う行為と同じものではないかと思う。社会の中で自分の存在意義が感じられないと、自傷する。傷つけることによって血が出る、とりあえず自分が存在していることが確認できる。自分の好きな人、依存している人に、自分の存在を気づいて貰いたい、だから食事を減らしてしまう、自分自身を透明にしてしまえば、自分が見えなくなればきっと気付いてくれるだろう、後悔してくれるだろう、と考えて。

 永山則夫は、最初自分に殺人をさせたのは社会であると言った。世間はこれを非難したようであるが、私は、これは責任の転嫁と言って済ましてはならない問題だと思っている。事実、永山則夫という人間は、最悪の環境で、いつも彼の存在を否定されて育ってきた。それは彼が作った、選んだ環境ではなかった。もし彼の生活環境が異なっていれば、しっかりと勉強し、それなりの人物になっていたと思われる。彼の主張には、正当なものが多い。しかし、どんなに主張が正当であっても、処刑はその存在を抹消、否定してしまう。そして、社会は正当な主張そのものもそのまま葬ってしまうことになる。犯された罪は、殺人者が死ぬ時まで、何故その殺人が行われたかが語られ、償われなければならないにも拘らず。


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コメント 6

悠実

深く共感し、考えさせられました。
お恥ずかしいのですが、私は永山則夫という人物の存在すら知りませんでしたが・・・。
今度、手にとって自分なりに再解釈してみようと思います。

論点は全く違ってしまうのですが、昔「死刑執行人の苦悩」という本を読み、同じ様な想いを致しました。
by 悠実 (2010-04-27 20:25) 

アヨアン・イゴカー

HAL様、kaoru様、旅爺さん様、mimimomo様、くらま様、kurakichi様、yakko様、aranjues様、ゆきねこ様、siroyagi2様、ナカムラ様、ぼんぼちぼちぼち様、りぼん様、もめてる様、くーぷらん様、えれあ様、sig様、アリスとテレス様、flutist様、Mineosaurus様、いっぷく様、mouse1948様、nyankome様、kakasisannpo様、optimist様、Krause様、utu_mamoru様、shin様、be-sun様 ,悠実様、takechan様、ひろきん様、Enrique様、lamer様、moz様、toraneko-tora様、雉虎堂様、orange-beco様、よっちゃん様、アマデウス様、リュカ様、扶侶夢舎様、北のほたる様、glennmie様、YUYA様、ChinchikoPapa様、スー様、PENGUING様、dorobouhige様 皆様 niceありがとうございます。


by アヨアン・イゴカー (2010-05-02 23:54) 

アヨアン・イゴカー

悠実様
死刑の問題は、犯罪を抑止したり、再犯を予防する必要性もありますので議論はいろいろあると思います。いずれにせよ、自分の行為に対して後悔している人間、反省している人間、反省できる可能性を感じることのできる人間は、死刑にしてはならないと思います。
by アヨアン・イゴカー (2010-05-03 00:00) 

SAKANAKANE

私も、現行の死刑には否定的意見を持っています。
真に死刑に値するような犯罪者であれば、それは何の贖罪にもならないと思う部分も有ります。
私は、命を奪うよりも、人権を剥奪すべきではと思っています。
by SAKANAKANE (2010-05-08 18:18) 

アヨアン・イゴカー

野うさぎ様、sak様、tacit_tacet様、SAKANAKANE様
nice有難うございます。

SAKANAKANE様
かなり厳しいご意見ですね。確かに、目には目をで、殺人犯を死刑にしても、なんら犠牲者の命は救われません。殺人犯に、新たな殺人の予防となるような言動をさせる方が、社会のためであるとも考えられます。
妻は死刑廃止派ですが、彼女は地雷掘りに従事させるのがよい、と常々言っています。


by アヨアン・イゴカー (2010-05-09 15:17) 

SILENT

河出ブックスの「人と思考の軌跡 永山則夫」を読んでいます。
彼にとって死刑、犯罪、文学を根底から問い返すものとは
なんだったんでしょうか?
細見和之さんという著者のあとがきに、彼が死刑執行されてから13年の今年の夏も 日本人の85パーセントが死刑制度の存続を希望しているという。そのニュースに接し背筋の凍る様な感覚を覚える。ほとんどファシズムと呼ぶべきではないか。

今基地問題や 時効制度廃止の日本の姿を思う時 何か根本的なものへの怒りが湧いてきます。表層のみに流れるこの国の姿に切なくなります。
by SILENT (2010-05-17 09:34) 

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