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短編小説集『栗の里の愉快な女房』より『角田のおとっつぁん』 [栗の里の愉快な女房]

 今日からは、まだ完成してはいませんが、短編小説集として構想している『栗の里の愉快な女房』より、第一作として『角田のおとっつぁん その一』を公開致します。

角田の親仁を、私は勝手におとっつぁんと呼んでいる。背が低く、体つきはがっしりした労働者のようで、硬そうな髪は短い。団子鼻、頬骨の出た赤ら顔で、唇は厚く、小さな目はいつもうつろで何を考えているか推し量り難かった。眉毛の殆どないつるつる顔のお上さんが四十代で亡くなってしまったので、男やもめの暮らしをしていた。子供達はみなちょっと変わっていて、長女は高校を卒業してから働いていたが、家の手伝いは殆どしなかった。息子は精神を病んでいて、未だに病院に入っているようだ。私が通りかかると、おとっつぁんは、外に置いてある小さな洗濯機で洗濯をして、千草の生えた小さな庭にある斜めに傾いだ物干しに、穴の開いた肌シャツやらパンツやらを干しているのを見かけることがあった。

 彼の家は駅へ向かう階段の脇にあり、T高校の通学路に面していた。朝夕、学生達が無言で、或いは声高に話をしながら通るのを不快そうに眺めていた。ある学生がおとっつぁんの小さな家を見て「あれっ。人が住んでいるんだ。」と驚きの声を上げた。その声が聞こえたかどうかは分からない。中には、この家の壁目がけて石を投げる不届き者がいた。空き家だと思ったのだろう。開校当初は生活指導を徹底的にしなければならなかったこの高校は、受験指導が軌道に乗り今ではすっかり名門高校になっていて、入るのも大変になってきている。更に中学校も小学校も出来た。かなり多くの生徒と教師が昼間人口としてこの栗の里に移動してくるようになっている。だから保護者会のある時など、母親たちがそれなりに化粧をして、まるで就職試験を受ける大学生のように、制服のようにスーツ姿でぞろぞろ通る。彼らが歩いている時、急ぎ足で歩かないと予定の電車に乗り遅れることも覚悟しなければならない。牛の群れを移動させているカウボーイのような気分だ。数が多く、狭い道を塞いでしまうのである。

 角田のおとっつぁんは、文字が苦手のようである。しかしながら、家の前を通る高校生や中学生の声に腹を立てて、彼らに対して文字を使って意思表示をすることにした。階段を上りきったところの駐車場入り口にあるガードレールに、チュウイ シズカニと二行に分けて黒ペンキで警告を書いた。おとっつぁんの家の向かいの土手に作ってある、元気の無い竹製のバリケードに、コワスナと書いてある。近道をしようという不届き者、或いはこの先はどんな風になっているのだろうと好奇心を持って探険家気取りで侵入する子供達を撃退する目的と見た。警告は他にもある。三段ほどの高さに積んであるブロック塀に、ハチニイタズラスルナと書いてある。このハチニイタズラスルナと言う注意書きについては、こういう経緯がある。

 角田のおとっつぁん その1.JPGおとっつぁんの家から十メートルも離れていないところに、指定保存樹のラベルを貼った太い柿の木がある。樹齢百年年以上で根元近くに洞がある。そこに地蜂が巣を作っていて、洞の周りを旋回していた。ある土曜日、下校途中の高校生たちが目ざとくその蜂の姿を見つけ、洞を覗き込んだ。そして悪戯して石を投げつけたものだから、すっかり蜂たちが怒ったり驚いたりして、巣から飛び出してきたのである。相当大きな巣だったらしく、その数は凄まじかった。柿の木の周りには蚊柱ならぬ蜂柱が、否、むしろ蜂の雲が出現した。駅に向かって歩く私は、遠くから何か煙のようなものが揺らいでいると思ったのだったが、近付いてみて事情が飲み込めた。私が近くに来た時は、既に蜂たちの混乱も大分収まっていたようであったが、それでも沢山の怒れる蜂が飛び回っていた。私は彼らを刺激しないように、ゆっくりと観察しながらその場所を通った。女子高生たちは恐がって、遠回りをしている。この状況を、半袖の肌シャツを着たおとっつぁんが、余計なことをしやがる、と言った顔でじっと見ていた。この一件があってまもなくその警告が書かれたのである。

 この角田のおとっつぁんの片仮名の文字について、ふと思ったことがある。彼は勉強が得意ではなかったらしく、漢字は書けないようだった。彼の書く片仮名は単なるコミュニケーションの手段としての文字を超越しているかもしれない、もしかすると象形文字であるかもしれない、と。エジプトの神聖文字、マヤ文化の絵文字コジセに相当するのかもしれない。コミュニケーション手段であるばかりでなく、芸術作品に近いようにも思える。一文字ずつがなんの意味も持たない片仮名であるにも拘らず、彼が唯一書くことのできる文字であるが故に、特別な意味を持っているように感じられたのである。

 

ハチニ イタズラスルナ。

コワスナ。

チュウイ シズカニ。


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コメント 16

mimimomo

おはようございます^^
先が楽しみな読み物ですね~
現代から置き忘れられたような生活の、このおとっつぁん。
どうなっていくのでしょ。
by mimimomo (2009-10-25 07:16) 

doudesyo

おはようございます。
おお、これは楽しみな小説です。角田のおとっつぁんの人柄が興味ありますね。
by doudesyo (2009-10-25 08:38) 

ナカムラ

一人で置かれるようになるまでの状況は気の毒ですね。でも、人生は常に思うようにならず、楽しくもあれば厳しいもありですから・・・。
by ナカムラ (2009-10-25 12:14) 

yakko

こんにちは。
楽しみです(^。^)
by yakko (2009-10-25 15:45) 

orange-beco

本当は大声に出して怒鳴りたいようなことを、警告文を掲示するだけにとどめて耐えているけれど、カタカナで表すことで平仮名や漢字にはない“怒り”の感情を表現しているように思いました。
by orange-beco (2009-10-25 22:46) 

ciscokid

こんにちは。
ご訪問&nice有難うございました。
by ciscokid (2009-10-26 10:10) 

SilverMac

ご訪問アリガトウございます。
by SilverMac (2009-10-26 10:58) 

クンツ

カタカナ表記はきちんと読みますね。旧かな使いが入ると尚更に。
by クンツ (2009-10-26 11:46) 

sig

こんばんは。
昔ならどこの町にも居そうなキャラクターですね、角田のおとっつぁん。
こんな感じの大人は少なくなりましたね。 
by sig (2009-10-26 21:14) 

唐糸

明日から出かけますので、新作、携帯で読ませて
いただきます。
by 唐糸 (2009-10-26 21:30) 

ララアント

山本周五郎の"街へゆく電車・どですかでん」を
思い出しました。
by ララアント (2009-10-26 22:51) 

ムーミン

カタカナの文字に、特別な意味が込められているんですね。
続きが楽しみです^^
by ムーミン (2009-10-30 21:06) 

アヨアン・イゴカー

kurakichi様、gyaro様、Krause様、mimimomo様、kaoru様、ulyssenardin36000様、いっぷく様、mitu様、YUYA様、doudesyo様、デッコン様、ecco様、かりん様、もめてる様、sony様、ナカムラ様、ほりけん様、サチ様、takemovies様、お茶屋様、旅爺さん様、yakko様、siroyagi様、さとふみ様、sak様、ムク様、アリスとテレス様、丸!様、aranjues様、orange-beco様、くーぷらん様、野うさぎ様、shin様、空楽様、ciscokid様、SilverMac様、クンツ様、flutist様、釣られクマ様、SILENT様、sig様、KENNY様、ララアント様、ばぁどちっく様、asahama様、ChinchikoPapa様、青い鳥様、Mineosaurus様、リュカ様、スー様、+k様、イリス様、mimoza様、くらま様、zenjimaru様、とらさん様、olive様、アマデウス様、yuki999様、yukitan様、はっこう様、ムーミン様、すうちい様、toraneko-tora様、えれあ様、ムネタロウ様 皆様 nice有難うございます!


by アヨアン・イゴカー (2009-11-02 09:23) 

アヨアン・イゴカー

mimimomo様
おとっつあんの話は、数話だけで終わりです。
栗の里の愉快な、変な、悲しい話を少しずつご紹介させていただく予定です。

doudesyo様
想像で書くと、真実味がなくなるので、基本的には実在の人物を多少デフォルメして書き続ける予定です。

ナカムラ様
人生、どの、誰の家庭に生まれてきたか、それだけで大きく進路が異なってしまいます。しかし、一人ひとりには存在意義があるので、そこを考えながら書いてゆきたいと思います。

yakko様
出来るだけ楽しい話を書いてゆきたいと思います。

orange-beco様
恐らくは、彼はあまり漢字が書けないのだと思います。それが故に、伝達文字であるところの片仮名の意味が大きくなります。

ciscokid様
ヨセミテ公園の写真、素晴らしいですね。
宜しくお願いします。

SilverMac様
ぼけずにころっ。みなの願いだと思います。
宜しくお願いします。

クンツ様
確かに、メリハリを付けるために片仮名表記をする場合がありますね。そして、かなり効果的になります。
彼の場合、これしか書けないのだとは思いますが。

sig様
野良猫やら野良犬、昆虫やドジョウやらめだかやら、角田のおとっつあんのような人間。めっきり少なくなりました。
恐らく臭いものには蓋、と言うような表面を取り繕う社会になってしまっているからかもしれません。

唐糸様
時々小説も書いてゆきます。宜しくお願いします。

ララアント様
我が家では、「ドデスカデン」に出てくる浮浪者の親子の台詞の真似などをすることもあります。山本周五郎好いですね。

ムーミン様
手話、点字。彼にとっては片仮名がそのような伝達手段なのかもしれません。
by アヨアン・イゴカー (2009-11-02 09:40) 

SAKANAKANE

ノンフィクションのようなリアリティーですね。
集団の高校生は、かなりの厄介モノですね。
by SAKANAKANE (2009-11-07 12:57) 

アヨアン・イゴカー

ミモザ様、lapis様、Mimosa様、yoku様、SAKANAKANE様 nice有難うございます。

SAKANAKANE様
「ノンフィクションのようなリアリティー」鋭いですね。ご明察です。多少脚色していますが、殆ど事実です。このような小説になりうるような人間がいるのです。これから公開してゆく小説も、半分は事実を元にしています。
  
by アヨアン・イゴカー (2009-11-07 22:48) 

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