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『変化』と言うマイカテゴリー [変化]

 自分で作り出す、自分だけのカテゴリーがあったら面白いと考え始めたのは、askさんの『表面積』と言うカテゴリーに出会ったことがきっかけである。とりあえず何かカテゴリー、範疇、括りを自分なりに考えてみること、それに意味があると思う。
 そして、昨日から大風が吹き荒れ、空気中に埃が充満している外には出ないで、窓からフラダンスを踊っているように見える檜の小枝と大枝を眺めながら、『変化』と言う括りを考えた。実に有り触れた概念であるが、そんなことはなんのその。変化と言う切り口で、物事を見てみたい。
 askさんの紹介された『痴呆老人は何を見ているか』には、人間の仕合せを簡単にまとめてある。
 
 「自己卑下」と先祖の智恵  J.ダイアモンドがまとめた閉鎖系社会の崩壊要因から、逆に存続条件を抽出してみると、①平和である、②環境、とくに森林がたもたれている、③極端な経済格差がない、④世代を超えた環境政策を実施する、⑤人口過剰を防ぐ、⑥異常気象が続かない、となります。p212
 
 平和とは、争いのないこと、極端な感情の相違、利権に関する理解に置いて食い違いがないこと、つまり、変化のないことである。森林が保たれていること、保たれていることそのものが無変化である。極端な経済格差がない、富の配分における差が小さい。変化が少ない。世代を超えた環境政策を実施、これは世代間における価値観のブレが少ないことである。親が子供や子孫のことを思いやりながら現在を生き、子供達はその親の思いを後世に受け継ごうと考えながら生きる。人口過剰を防ぐ、特定の世代が多すぎて、人口構成上不均衡を齎さない、人口の変数が小さいこと。異常気象がない、これは言うまでもなく、気候が安定していることである。こうやって全体を見てみると、変化が大きいと言うことが、いかに動物、植物に影響を与えているかが分かる。
 
 変化と言うものは、誰が求めるのか。それを求めるのは変化によって利益を得られる人々、変化によって、現状を打開したいと考えている人々、変化せずには生き残っていけないと考える人々、生来変化せずにはいられない「変化志向遺伝子」を持っている人々などであろう。
 会社は生き残るためには変わらなければならない、と主張し、それが正当だと考える人は多いように思われる。他社を犠牲にしても、自社は変化して生き残らなければならない。この考え方が、非人間性を許容してしまう。20世紀前半は特に、植民地主義、帝国主義が正当化されていたので、他者の権利を踏みにじること、公海と勝手に定義づけされたところから資源を略奪することは、黙認されていた。自分達がやらなければ、相手がいずれ同様のことをやるのだから、先んじてやることは悪いことではない、と言う考えである。
 しかし、グローバル化の進行中の現在、こういう考え方は許されない状況になった。変化してゆくことは新しい環境に適応するため、新しい文化を創造するため重要であることは間違いない。しかし、変化崇拝、変化偏重は許されない。人間一人ひとり、また動植物の生命を尊重すること、再生できる資源を使うこと、もったいないと考えること、個々の文化を尊重し維持し、伝統を大切にすることにより、本来の「人間力」、「地域力」などが醸成されるのである。