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北海道の思い出 その6 [北海道の思い出]

  農地改革 一九四六~一九五〇年 

stronger than devils.JPG 軍国主義国日本を抜本的に変えるために、マッカーサー元帥の総司令部は、財閥の解体にのりだした。また、地主制が社会の封建制と軍国主義の温床を形成したと考えて、農村の地主制の改革に取り掛かった。この農地改革によって、日本の寄生地主は消滅することになった。この改革が成功した背景には、戦時経済の下で既に地主制度が崩壊の危機に瀕していた事実がある。農業従事者の戦地への動員や工場の作業のために徴用したことにより、農業労働力は極度に不足し、耕作放棄された土地が激増した。地主たちは、やむを得ず小作料を下げて労働力を確保した。食糧の配給制は、国家による価格統制となり、地主の経済的基盤を破壊して行った。地主たちは嘗てのような影響力や抵抗力を持っていなかったわけである。

      「地主制は一九二〇年を境に明らかに衰退しはじめていた。その頃から日本資本主義にとって半封建的地主制は、経済的にはじゃまになっていた。第二次大戦中に、食糧生産の確保と食糧の国家統制の必要から、国家が自作・小作の生産者からその生産米をすべて買い上げ、小作人が地主にはらう小作料は、政府がその米額に相当する金額を地主に渡し、地主と小作の直接関係をたち切り、また小作人の耕作権を大いに強めた。しかも、地主米価を生産者米価よりも低くし、小作料を実質的に切り下げた。これにより地主制は息もたえだえになっていた。そして、敗戦後の農民の立ち上がりにより、ついにとどめをさされたのである。」(井上清『日本の歴史 下』岩波新書pp228-229 

 もう一つの要因として、小作として入植した我が両親にとって幸いだったのが、A井家の長男何某氏の帰国である。彼はソ連軍の捕虜となって一九四八年に帰国したのだが、捕虜生活の最中には革命思想を十分に吹き込まれていた。「洗脳」されて来ていた。尤も、心底革命思想を信じているのなら、洗脳と呼ぶわけにはゆかないのだが。

 一九四五年十一月に極めて微温的な第一次農地改革案ができたが、これは地主の発言権の強い議会だったため、審議未了の可能性が出てきた。これに対して、総司令部(GHQ)は十二月に「農民解放指令」を出した。一九四六年二月には、GHQは政府の第一次農地改革案を拒否する。その後、ソ連案とイギリス案とが対立するが、最終的にはイギリス案を無修正で採用した第二次農地改革案が成立した。このイギリス案では、不耕作地主の小作地保有限度を一町歩とし、土地所有の限度は内地三町歩、北海道十二町歩とすることになっていた。農地改革は一九四七年二月より開始された。

 父は格安の値段で十町歩の泥炭地でない土地を、地主のA井さんから入手することが出来た。そしてそれ以外に国有地であった柏の原生林五町歩貰い受けた。この土地を開墾し、肥沃な土壌に変えていったのである。合計十五町歩の農地を所有することになった。反対に、小さいながらも土地を持っていた母の父親は地主であったわけで、その土地を小作の農民に格安の値段で譲ることになった。小さいながらもその財産を手放さなければならなかった祖父Yは、相当に落胆したようである。

      泥炭 石炭の一種で、新世代第三紀・第四紀に繁栄したミズゴケなどの湿地帯植物を原植物とし、長年水中にひたって酸化分解を受け、フミン酸をへて腐植質に変質したもの。これを泥炭化作用といい、石炭化作用の一段階である。(中略)寒帯地方は一年中水が枯渇せず、泥炭層を形成しやすい。ツンドラも泥炭の一種である。我国では北海道・東北地方の各地に見られる。層は通常数㍍から数十㍍の厚層で、泥炭地は農耕に不適である。(小学館 日本大百科事典) 
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北海道の思い出 その5 [北海道の思い出]

 引き続き、『北海道の思い出』。今日紹介する水彩画は1948年の9月から10月頃に我が家へやって来た低温科学研究所で研究をしていたK.Kさんが描いたものである。どのような関係かはよく分からないが、このK.Kさんは叔母のSさんの友人の兄で、中谷宇吉郎のいる研究所にいたそうである。(HPで調べたところ年譜と一致するので、このK.K.先生は昭和23年5月に当時北大の低温科学研究所文部教官になられている。)K.K.さんの描かれた絵の上に注釈をつけることはできないので、早速トレーシングペーパーに概略を写し取って、その上に文字を書こうと考えたが、トレーシングペーパーがなく、やむなくこの水彩画を元に、壁画を模写する方法でいい加減な模写をする。説明は脚注にて。


夫婦初めての新居 ― 掘っ立て小屋  一九四五年十一月

   

 一月ほどしてから新居の場所が確定した。手伝いに行っていた農家のA井家の本家と分家の間にあった家が空き家になったので、そこに住むことになったのである。しかし、家とは名ばかりで柾葺きの屋根はぼろぼろ、柱は土台がなく、掘っ立て小屋だった。

北海道の埴生の宿.JPGこの恐ろしく貧しい掘っ立て小屋は、文明人の住むと言う住居にはあらずして、むしろ、竪穴式住居と呼ぶに相応しく、弥生時代の住居に等しい代物だったようである。『三匹の子豚』の長男が作った藁葺き小屋に似ていた。原始人生活を堪能したい都会生活をしている家族が、夏休みに野原で拵えるような住居であろうか。入り口には垂(こもだ)れ。乞食小屋である。勿論電気もなく、照明と言えば、ことぼしと言う、鮭の缶詰の缶に油を入れて芯を付けたようなランプがあるきりだった。石油ランプであるが故に油煙が出た。しかし、もっと酷かったのはストーブで、煙突掃除をまめにしなかったので煤が出た。そのため兄弟は原因と結果が明確に分かるトラホームに掛かったのである!

 この貧しい家の構造を母親の話を聞いて、より詳しく述べるとこのようになる。一九四五年十一月頃、開拓団の人々が共同生活をしていた会館からこの場所に移動してきた。居抜きで引き取った家である。細長い長方形を羊羹を包丁で切るように、四つの空間に切った形である。板の壁が仕切りである。細長い三畳間の一部屋。続いて、薄暗い八畳間一つ、六畳間一つ、そして六畳か八畳かの広さの土間。とは言うものの、この四部屋は初めはどれも土間だった。八畳間と六畳間には乾した燕麦(えんばく)藁を敷き詰め、床の代わりにした。八畳間には窓が全く無く、暗かった。六畳間には土間に続く小さな玄関のような土間があり、この部屋だけに申し訳程度の明かり取りのガラスが(は)めてあった。勿論開閉は出来ない。六畳間にはストーブがあり、土間との境には板の扉がついていたが、壊れてしまったので、筵(むしろ)がぶら下げられた。

()土間の隅には燕麦を入れる箱が置かれた。この三つの部屋は板で仕切られていた。下屋があったが、只庇が付いているだけであった。この部屋の壁は藁だったと言う。また、屋根も茅葺きだった。この雨漏りを防止するために手を貸してくれたのが、名物親爺(飯沼の親爺)である。彼は「大工は流々」(細工は流々、仕上げはご覧じろと言うべきところ)と言いながら、せっせと((かます)をのせてくれた。

      叺とは、藁で編んだ袋で、収穫した穀物などをいれた 

 sept-oct, 1948.JPG井戸もなかったので、隣のA井家までリヤカーを引いて水を貰いに行ったり、貰い湯に行ったりした。一度だけ一キロ以上離れた川へ洗濯に行ったが、それは大変な仕事だった。兎に角、自立して住むことに一生懸命だったこの時期、A井の本家と分家には本当にお世話になった。親から急に手放された世間知らずの兄弟たちが、苦労を気にせず明るく過ごせたのも、部落の人々のお陰だったので、ただ感謝するばかりである、と母は言っている。

 一つ目の細長い部屋で、長女Mが誕生した。この部屋には扉が付いておらず、菰垂れしかぶら下がっていなかったので、ある日、母の義妹であるS(私の叔母)が寝ている時に大きな豚が入り込んできたそうである。近所の人が、三羽の鶏を呉れた。父の弟たちや妹が渾名を付けた。その中の一羽は鶏冠が進駐軍の被っていた帽子に似ていたので、「進駐軍」と呼ばれていたそうだ。進駐軍たちは、この壁のない下屋(したや)自由気ままに闊歩し、卵を産んでくれた。

 冬は恐ろしく寒いので、燕麦の床の上での生活は辛かった。大叔母が送ってくれた高価な絹(紬)の布団は湿気ですっかり襤褸(ぼろ)になってしまった。だから五年後、この家の隣に十坪の床付の家を建てた時は、母は嬉しかったそうだ。今までの家は早速厩舎になった。

註:
北を向いて描いてある。絵の中の細長い木はポプラ。左側の雪を被った山が大雪山。(兄の話では、南西方向には日高山脈が見えたそうだ。)左側にある荷車に載せてあるのは蕎麦の茎。色は臙脂色。その後ろの小屋や燕麦藁で葺いてある。絵の中央にあるのが柾葺き屋根の住居。その左側が下屋あるいは物置。右側が馬小屋。その右側の建物は、屋根と柱だけで、そこに農機具などを置いた。その斜め前と横にあるのが「にお」と呼ばれる刈り取った牧草などを積み上げたもの。これはチモシーの「にお」だそうである。そして、手前の畑には大根がずらりと植えられている。


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北海道の思い出 その4 [北海道の思い出]

 今日はやっと挿絵を一枚描く。もう10年も前に描いて置いた「北海道の印象」と言う絵があったが、そこに描かれた馬の描写がいい加減だったので、今日少しいくつかの馬の写真を見ながら、昔のことを思い出そうとしながら描き直し。右の方には舗道車と呼ばれていたのではないかと思うが、リヤカーのようなタイヤ付きの車を描いたがそれは画面から外してある。30分ほどで描いたので、細部は省略している。
この絵の場面は、北海道で15ヘクタールあった我が家の畑で一箇所飛び地だった、柏の原生林のあった場所からの帰り道。私が子供の頃の記憶に基づいて描いた。

入植時の農地 一九四五年九月
 

 父は東伏見に到着するや、すぐに町会長と一緒に土地を見て歩いたそうである。どの土地を借りればいいのか、土壌はどうか、いろいろ探して回っていた。そして、払い下げの国有地である未開墾地の原野である土地を五町歩手にした。この土地には払い下げの条件がある。所定の期間内に開墾を終えることになっており、実行できなかった場合には返還せねばならなかった。これでは生活が出来ないので、開墾地ではあったが放置され荒地になっていた土地を、A何某氏の弟さんより、小作として貸して頂くことになった。広さは十町歩だった。泥炭地を支給された人々に比べれば雲泥の差で条件はましだったが、それでも未耕地は荒れ果てていて、作物を植えて収穫するまでは大変な苦労があった。土は、火山灰状土だった。植えたじゃが芋も初年度(1946年)は直径五㌢ほどの小さなものばかりしか出来なかった、とは母の言葉である。小作料が気になるところではあるが、飯沼二郎著『日本農業の再発見』p149掲載の農林省農政局統計資料によると、昭和十六年から十八年では、水田現物小作料は収穫米に対して小作米の比率は四十五%から四十八%である。比率は前者が一毛作田、後者二毛作田である。随分高い小作料である。普通畑小作料は同期間で米納の場合二十三%、金納の場合には十二%となっている。終戦頃には小作のなり手が少なくなっており、小作料はもっと下がっていた筈である。その他に国税、地方税があるのだとすると、十二%でも随分法外な気もする。(この数字には北海道と沖縄が含まれない全国平均だとの但し書きがある。)

 北海道の思い出 2012-1-29 日曜日.JPG九月に入植して、何故農作業をすぐにしなかったかと言うと、北海道では霜の発生しない無霜期間にしか農業が出来ないからである。初霜の降る十月初旬から晩霜の降る五月下旬頃を、作物の育成上、必ず念頭において農作業計画をたてなければならない。二期作などは不可能で、単作が大原則である。「一日三%」と言う言葉があり、これは一日播種が遅れると、収穫が三%減ると言う戒めである。だから播種の時は一刻でも早く作業を終えたほうがよいので、慌しくてきぱきと作業をすることを「そそっぱやい」と言ったそうだ。特に、晩霜に新芽が持って行かれた(霜害を受けた)時には、新しい種を出来るだけそそっぱやく播かないと、一日の遅れが三%ずつ溜まって行くのである。この「そそっぱやい」の典型が、後で述べることになるA家の鎌さんである。

 この十五町歩の痩せ土地が満足な収穫を齎すようになるまでには、十年掛かったと父は言う。父は基本的には化学肥料を投下して行う略奪的農法を好んでいない。地味そのものを肥えさせる有機農法を重んじていた。短期的には金肥で地味を上げざるをえなかったが、長期的にはクローバーやティモシーを混播することで真の意味の地味を肥やした。結果的には、十六年後に十五町歩の農地を売却する際に、地味が肥えていた為に、他の開拓者よりも有利な条件をえることができたのであった。


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北海道の思い出 その3 [北海道の思い出]

 今日の部分は若干長い。挿絵を描きたいが、纏まった時間がない。ゆくゆくは写真などを見ながら足す心算。
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 そもそも北海道開拓団とは何なのか。それは、太平洋戦争の末期に、戦況の悪化に伴い、疎開と食糧の供給とを兼ねて考え組織されたものである。最初は「拓北農兵隊」と命名され、一般公募で参加する会員を募ったのである。終戦直後「北海道開拓団」に名前が変わったようである。これに応えたものには会社員や商店経営者が多かったが、中には画家なども混じっていた。当然のことながら農業の苦しさを本当に知っている者は少なかった。しかし、当時の日本では、これ以外の選択をすると言っても、別のより良い選択肢が残っている訳でもなかった。父の話などから想像するに、当時、同世代の若者たちが戦死してゆくのを見聞きしていて、自分達生き残った者は、どんなに苦労して生き延びて行くことが使命であると言うような義務感・使命感があったのかもしれない。この農兵隊に、祖父一郎が逸早く加わったのは、彼の性格上納得できることである。一見山師に似て、有名人好き、舶来物かぶれ。何時の間にか団長の座に収まっていたのは、人徳の故かその不敵な風貌の故かは分からない。祖父は世田谷区喜多見の自宅で、出発の号令が掛かるのを待っていた。しかし、すぐには命令が出ず、広島と長崎に原子爆弾が投下されて、政府はポツダム宣言を受諾した。辛く長かった日々は終わりを告げた。そして、新たな戦後の苦労の日々が始まったのである。その結果、祖父一郎と祖母しげは無念とは思いながらも、東京にとりあえず留まり後日息子達に合流することにし、私の両親とその兄弟が冒頭に描いたように北海道に出立したのである。

 ちなみに、似たような開拓団として満蒙開拓団があるが、事情は異なる。満蒙開拓団の場合には、日本国内で十分な土地のない農民や、事業に失敗して心機一転新しい生活を始めようとした人々が、政府の募集に応じて満州国に行き土地を与えられた。土地は中国人農民の開墾した農地を、強制的に買い上げたため、略奪するかのように、そのまま与えられた事例もあるようだ。しかも、日本人開拓団の人々が中国人や朝鮮人に対して、江戸時代の士農工商に似た階級的優越感を持つような指導を行ったようである。彼ら開拓団の人々は、内地のために食糧の安定した供給源となることを期待された。しかし、農業経験のない家族が入植した場合には、生活は悲惨だった。そして、敗戦後は、さっさと撤退してしまった関東軍の後に残され、一家離散したり、一家心中を考えたりしながら、異国を逃げ惑った。祖国へ帰って来られた人々は幸運であった。残された子供たちは残留孤児となった。そしてこの孤児達を、自分達の命を掛けて守り、自分達の子供として育ててくれた中国人の養父母の方々がいる。私はこの養父母の方々は菩薩ではないのかと時に思う。感謝しても感謝したりないほどの有難さを感ずる。敵国の子供たちを育てる、何と言う度量だろう。彼らは私が最も尊敬する人々である。

 

 ここで述べておかねばならないことが二点ある。一つは、祖父母が喜多見に留まるように、弱冠二十歳の父が強く忠告したことだった。当時祖父は四十九歳、頑固だったと思う。祖母しげは四十五歳。そして、この忠言がH家の人々の将来を救ったのである。もし、この時に祖父一郎が希望したように、世田谷の家を引き払って一家で移住していたら、一九五七年に喜多見(きたみ)の日本面印刷株式会社も設立されなかっただろうし、現在一族が住む川崎市麻生区村もなかったであろう。危険を分散する、先を読む、などの能力が父にはあると思う。

 もう一点は、父Tが、この開拓に対して情熱と夢を持っていたことだ。その夢は、甘いものではなく、現実を見据えた、決意に満ちたものだった。父は東京で開拓団を募集する際に聞かされていた、入植の好条件のことは覚えてすらいない。焼け出された後に、住む所も、食糧も配給で確保されていると信じて来た人々とは違っていた。確かに父は農業に関しては、全く未経験ではあった。だから到着後着々と準備して、農作業に備えたのである。そして、徐々に近所の農家の信用も勝ち得ることができるようになったのである。

 

 両親たち一行が北海道に到着して一ヶ月頃(十月十九日金曜日)の朝日新聞に次のような記事が載っている。

 

杜撰な机上計画北海道開拓 寒冷地に家なき人々 大地につかぬ理想主義

 第一に北海道開拓計画なるものは立案者のそのものがいい加減な机上の計画であったといふことを否定できない。黒澤西蔵氏等の提唱によって北海道庁が建てた計画では、第一次に五万戸、二十万人を入植するといふのであったが、今日までに実際に入植した数は二千二百六十六戸に過ぎない。すでに冬が迫ってるので、今年はこれ以上の入植はできない。 青函連絡船は一日四往復で四千人、この中一千人を帰還者輸送に充てるとしても、一箇月三万人、二十万人を輸送するには七箇月かかる。 終戦と共に帰農者の決意のゆるみもあるが、九月末現在で既に三十戸が脱落して東京へ引き上げてゐる。これらの人々は東京での募集の際聞かされた条件と、現地の生活の実際とが余りに相違してゐると訴へてゐる。第一に一応一戸について一町歩の既墾地が与へられるといふことだったが、実際に放り出された土地の多くは不毛の泥炭地や原始以来の笹薮であった。食糧も一応配給にはなるが、今日規正量だけで足りてゐる者がどこにあらう。帰農者はこの問題にも苦しんだ。しかしそこは人情暖かい農村のこととて、馴れるに従って、現在ではある程度補給の道がついてゐる。問題は住宅である、これも一応は学校や寺院で共同生活させ、年内には簡易住宅を建てるといふ北海道庁の計画だったが、現在のところ半数も建ってゐない。北海道では十一月と共に暖房がなくては暮らせない。帰農者の不安はいま相当のものである。 また開墾の上は、一戸につき十町歩乃至十五町歩を無償で与へるといふことだったが、終戦と共に将来もっと多くの帰農者を収容するといふ理由で、傾斜地で五町歩、平地で一町歩乃至三町歩に減少された。募集に当たって示された条件は片っ端から裏切られてゐる。 


 
尚、世田谷部落と呼ばれた地域があるが、これは拓北農兵隊の人々の部落である。世田谷区住人だった我が両親の入植したのは十勝の芽室町であり、世田谷部落は石狩平野の(え)(べつ)である。石狩平野は地図で見ると随分湿地帯が多い。

 
この拓北農兵隊の人々はその半分が三月二十日の東京大空襲で被害を受けた東京都の出身であった。七月六日にその第一陣が出発し、合わせて三千四百十九戸が北海道に入植。江別町の角山(かくやま)地区にもこのような集団帰農者の入植地であった。主要食料の配給と一戸当たり一町歩の開墾地を貸与すると言う好条件にひかれて、世田谷区から三十六戸が応募したものの、敗戦後の九月になって割り当てられた入植地は泥炭地であり、農業にまったく素人の集団には手も足も出なかった。彼らの入植地はその後世田谷部落とよばれるようになったが、入植直後から脱落者があいつぎ、たちまち半数の十八戸に減ってしまった。(「県史1 北海道の歴史」山川出版 pp301-302

 

この辺の状況を昭和二十年に発行された朝日新聞の記事により、順を追って確認してみると左記のようになる。

 昭和二十年
七月五日木曜日 代用食 食べ方いろいろ 玉蜀黍、甘藷、大豆、野草         
                その名も「拓北農兵隊」 あす堂々と壮途に上る第一陣。焦土から屯田兵として
               
起ち上がる北海道集団帰農者の第一陣千百余名、二百四十余世帯は、いよいよ六
               
日十六時三十分上野発列車で出発する。(一部省略)同日昼過ぎから下谷区櫻ヶ丘
               
国民学校で壮行式を挙行、西尾都長官から「拓北農兵隊」と命名される。なほ、
               
第二陣千三百名は十日、第三陣千四百名は十三日、それぞれ同時刻、
               上野駅より
出発。 
七月七日土曜日 拓北農兵隊 第一陣の首途 (省略)生命保険の外交員で一家十一名の家族を同
                する人もあれば、元警部、中等教員、彫刻家、俳優等、約八割までが生粋の
                江
戸っ児ばかり。七十九歳の高齢の老婆もある。 
八月二日木曜日 沖縄に敵千五百機  苫小牧を艦砲射撃 
八月八日水曜日 広島へ敵新型爆弾
B29少数機で来襲攻撃 相当の被害、詳細は目下調査中
八月十日金曜日 ソ連対日宣戦を布告 東西から国境を侵犯。満州国内へ攻撃開始。
八月十一日土曜日 原子爆弾の威力誇示 トルーマン対日戦放送演説
八月十二日日曜日 長崎にも新型爆弾 昭和二十年八月九日十四時四十五分長崎にも
八月十五日水曜日 戦争終結の大詔渙発さる 新爆弾の惨害に大御心 帝国四国宣言を受諾
八月二十四日金曜日 東京都長官 広瀬久忠氏 チャンドラ ボース氏逝去 日本訪問の途次台北で
八月二十七日月曜日 連合軍第一次進駐の日程変る 台風来襲のため 四十八時間延期す 調印も九月二日に順延
八月二十九日水曜日 米、先遣隊、厚木着陸 テンチ陸軍大佐以下百五十名
八月三十一日金曜日 マツクアーサー元帥到着 厚木着陸、主力と共に横浜入り
九月二日日曜日     けふ降伏調印式 ミズーリ艦上にて
九月十四日金曜日   新兵器レイダーの全貌 投じたドルは三十億 原子爆弾と双璧 

 


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北海道の思い出 その2 [北海道の思い出]

 今日は、従姉妹の所属する狛江市民吹奏楽団の第12回定期演奏会へ行く。狛江駅は本当に久々に降りる。高架になってしまってからは初めて下車したのだが、祖師谷大蔵駅同様、駅前の風情は全くなくなってしまっていて、在り来たりの、どこでも見られる風景になってしまっている。祖師谷大蔵駅前は、あの雑然とした感じが、大きな魅力だったのだが。
 駅前にエコルマホールと言う会場があり、改札を出て20メートル位の場所にエレベーターがある。実に便利である。客席は700席あると言うので、なかなかの演奏会場である。
 演奏曲目はP.スパーク『ハイランド讃歌』組曲から5曲、酒井格『大仏と鹿』、三浦秀秋編の『AKB48メドレー』ほかであった。『AKB48メドレー』では団員のダンス付きであり、指揮者も一緒にダンスが踊ると会場はかなり盛り上がった。

 引き続き『北海道の思い出 その2』。

 北海道開拓団出発 一九四五年九月四日火曜日

 一九四五年九月四日火曜日のことであった。坊主頭の厳つい青年は、大きな火鉢を背負い、手にも大きな荷物を持っていた。その横には、結婚してまだ日の浅い妻がいた。更に、青年の妹と弟たちがいる。皆、手に手に旅の荷物をぶら下げている。妹は中央公論の幟で作った風呂敷きに七輪を入れている。この若夫婦は我両親T男とM緒である。妹の名前はS、弟たちとはKとTである。私の両親は九月四日時点でまだ二十で、もう数日で二十一才になるところだった。大学を中退してしまった父と、三菱商事に勤めていた母とが、少女と少年たちを引き連れて、経験したことのない野良仕事を始めるのである。

 世田谷区喜多見の家を出る前に、祖父の知人、洋菓子屋コロンバン社長K氏が、愛車ハーレー・ダビッドソンに乗ってやってきた。自社製の手作りクッキーを餞別としてくれた。砂糖が貴重な頃のことなので、この贈り物には皆大喜びをした。

 昼頃、両親一行は上野駅についた。当時は終戦直後のこととて、一面焼け野原で、建物らしいものは何も残っていなかった。辺りには復員兵たちが散見された。彼らは何やら詰め込まれた袋を持ち歩いていた。そこへ、続々と北海道開拓団世田谷分団の人々が集合し始めた。皆が揃うと、東京都副都知事が激励の挨拶をし、壮行式が行われた。世田谷区の隊は芽室と言うところに行くことになる、と説明されるが、全く聞いたこともなく、見当もつかない地名だった。ただ、指示に従うしかなかった。世田谷区隊で一緒になった他の人々は、中年の夫婦とその子供達が殆どだった。また、彼らの多くは戦災に会っていた。そして、開拓団の人々のみを乗せた特別臨時列車は、昼過ぎ上野駅を発った。

 青森で青函連絡船に乗ったが、その船も客船ではなく貨物船だった。終戦直前の開拓団第二陣を乗せた船は水雷によって沈没したと言う噂があったので、第三陣の母は心細い思いをしたそうだ。


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北海道の思い出 その1 [北海道の思い出]

 今日は、記録『北海道の思い出 その1』。この記録は両親の体験を私なりに纏めたものであり、一部本を読んで補足している。その場合、段落最後に引用元、出典を書いてある。
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北海道の思い出 

はじめに

 私は自分の性格の中にどこかしら大陸的な要素があり、こせこせとしていることを馬鹿にするような傾向があるような気がする。人が犇めく都会から発作的に逃避したくなったりする。鳥たちの気持ちになって、開発されすぎたセメントと鉄とアスファルトに塗り固められた都市を俯瞰して、ここには着陸する場所がないと思ったりする。狭い所にいると檻の中の虎を思い浮かべたり、籠の鳥を想像したりする。自然が好きというよりは自然がないと死んでしまいそうな気がする。環境破壊に対して異常な位に敏感である。これらはすべてこの誕生し育った大地、環境が強く影響しているのではないかと思う。 

私は北海道十勝にある河西郡芽室町上(めむろちょうかみ)美生(びせい)から四キロ東に向かった(しん)大和(たいわ)と言う所で生まれた。この十勝の地名の悲しい由来が「アイヌの伝説」と言う小さなポケットサイズの本に書いてある。昔アイヌがこの辺りに居住していたコロボックル族と言う蕗の下の人々を十勝川で溺死させてしまったその時コロボックルたちがアイヌたちに向かって「おまえ達もトカップの焼け焦げるような運命に逢うだろう。」と叫んだ。そのトカップは魚の皮と言う意味らしいが、それ以降この川は十勝川と呼ばれるようになった何故、魚の皮が焼け焦げるような運命に逢うだろう叫んだのか。鮭が焚き火の中で焼ける姿を想像したのだろうか。

私はこの『北海道の思い出』で、父・母の一家が十六年間過ごした北海道での記録を、両親と姉・兄の思い出と、自分の極限られた体験と書物で得た知識とを織り交ぜながら、歴史的事実を注釈に挿入することで作り上げたいと考えている。

まず、何故我一家が北海道に住むようになったかから語り始めることにする。

 父 東京都新宿区大久保生まれ 母 長野県生まれ 

 

 玉音放送 一九四五年八月十五日 

 この日に母は義理の姉H子と一緒に、東京駅へ行った。H子の荷物(チッキ)が大津から東京に送られて来るので取りに行ったのである。東京駅ではそのチッキを受け取る時に、日本人ではない、恐らく朝鮮人らしい男が荷物を渡してくれたが、その態度がとても横柄に思われたそうだ。どこかそれまでと違っていたように感じられたらしい。の説明によると、「多分、どこかから日本の敗戦について情報が入っていたんじゃないかと思うよ。」と言う推測ができそうな態度の変化だった。昼頃に新宿駅に到着すると、駅員これから重大な放送があるから、ホームで待っているように、とった。小田急線新宿駅のプラットフォームで待っていると、駅のスピーカーから、雑音混じりの放送が流れてきた。聞きづらく何を言っているかよく分からない。皆、黙って聞いていた。母は原子爆弾と言う単語だけははっきりと聞き取ることができた。興味深いことだが、母にとって天皇の声を聞くのはこの時が初めてだった。

 放送の後、電車に乗ると、襟のボタンを外した、いかにもだらしなく見える少尉か中尉がいた。軍人が襟のボタンを外していると言うことは今まで考えられないことだった。

 喜多見の駅につくと、父が迎えに来ていた。そして「日本は負けたよ。」と言った。それを聞いてH子は怒って「そんな馬鹿なことはない!」と言った。義母シゲは敗戦が悔しくて、涙を流したそうだ。一方、母は、やれやれという気持ちだった。

 母がこれほど冷静でいられたかと言うと、三菱商事と言う企業に就職していたことも一つの理由である。学徒出陣のあった一九四三年に母も専門学校(現在は短期大学となっている)を繰り上げ卒業させられ、十月に入社した。部署は産業部の庶務課。丸ビルは七階建てだったが、新築されたばかりの三菱商事の新館は八階建てで、丸の内では一番高いビルだった。エレベーターがあり、地下室もあった。丸ビルのトイレが和式だったのに対して、三菱商事はすべて洋式の水洗だった。二時間おきに清掃の入る、当時最高級・最新式の設備である。タイピストプールがあり、英文タイピストが八十人位、和文タイピストが百数十人いる。地下には暗号室があった。社員食堂もあり、社員用の食券が利用できた。食堂にはシェフがおり、給仕もしてくれた。本館には講堂があり、音楽好きが開くレコード鑑賞会があった。その時にボロディンの『中央アジアの草原にて』などを聴いた。

 いくつか興味深い話がある。母は出社初日、遅刻をした。そして、土曜日だったので半ドンだと思って、弁当を用意して行かなかった。そして、半日で帰ってきてしまった。それでも許された時代だったのかもしれない。当時、日本の大手の会社員が随分優雅だったのだと思われるのは、勤務時間。朝九時から午後の五時。男も女もどんどん退社してしまう。残業はなかった。サービス残業が問題になっている今とは何と異なることか。

 そして、水洗式トイレの話。母は洋式トイレなど使ったことがなく、大いに困った。どうやって使ったらいいか分からない。土台、どちらが前か後ろか分からない。仕方なく、八階からトイレを見てみると、全部洋式トイレだ。これは大変と、丸ビルに駆け込んだ。こちらは和式だったので救われた。

 洋式トイレの話と言えば、本の数十年前のエチケットの本には、洋式トイレの使い方なる項目の出ているものもあった。そして、笑い話として、トイレの便座の上にしゃがんで用を足したり、前後を間違えて座ったりする人がいたことなどが紹介されていた。

 これだけの経済力のある大手企業のことであるから、情報もかなり正確に掴んでいた。だから、社員の中には「日本は負けるよ。」とか、「日本が勝ったら困るよ。」と言う人々もいた。専門学校の先生も二派に分かれた。文部省精神文化研究所から来る先生は「日本は勝つ!」と主張する。その一方で、法政大学などでも教えている経済学の先生は「日本は負けますよ。アメリカみたいな、あんな経済大国に勝てるはずがない。資源も金もないんだから。」と言う。

 入社した時は既に戦況は悪化していた訳だが、会社の社員サービスも悪くなっていった。社員食堂では食券がなくなり、弁当を持参することになった。社内には救護隊があったが、宮城遥拝と言う儀式があり、この救護隊として隊列を組んで外堀まで行き、毎日遥拝することが義務付けられた。 


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