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北海道の思い出 その15 [北海道の思い出]

   

 雨と言えば、夕立が印象的である。夏、一天にわかにかき曇り、まるで夜になったかのように暗くなり、大きな雷鳴と共に激しい勢いで空から降り注いでくる大粒の水の塊。地面を打つ水滴、跳ねる水飛沫。夕立雲が指揮者となって演奏を始めると、辺り一面から湧き起こる打楽器の顫音が世間の喧騒をその音の中に飲み込んでしまう。時折クレッシェンドとデクレッシェンドを繰り返す。雨が大地や屋根や木の葉を打つ音は、絶対的服従を要求する。その音の中に閉じ込められると、孤独を感じる。絶大な愛を感じる。自然との一体感を感じる。冥想的な気分になる。或いは、身体の中の野生を呼び覚ませられる。

 多分、五才か六才の頃だろうと思うのだが、ある夏の日、夕立が降った。その時、私は異常に興奮した。雨が降ることが嬉しかった。余りに気分が良かったので、着ていた物をすべて放り出して、素っ裸になって表へWhen it pours, I ... 2012-5-27.JPG飛出した。そして、高い空から降り注ぐ雨を体中に浴びて歓声を上げた。母がやってきて「なにしてるの?濡れちゃうよ。早く家へ入りなさい。」とたしなめた。私は言い分けとして「雨で身体を洗っているんだよ。」と言って誤魔化した。今や、果たして本当に身体を洗おうと思って飛出したのか、それとも自然と一体になることが気持ち良いから飛出してしまったのか分からない。夕立の雷が鳴る時、舞台の照明が落とされた様に薄暗くなるが、その暗さは夜の暗さを想起させるものであり、夜の暗さはそのまま両親の存在でもある。明るい昼の間分散していた家族が寄り集まる時でもある。その暗さが持っている一家団欒の楽しさをどこかで感じ取り、母の存在も意識した上での行動だったのかどうかは、やはり分からない。それでも多分に狂喜的であった。西脇順三郎の『雨』と言う詩の雨とは大分異なる。

 

 南風は柔らかい女神をもたらした

 青銅をぬらした 噴水をぬらした

 ツバメの羽と黄金の毛をぬらした

 潮をぬらし 砂をぬらし 魚をぬらした

 静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした

 この静かな柔らかい女神の行列が

 私の舌をぬらした  (Ambarvalia

 

この詩に表現されている雨は静的である。思索的、哲学的である。しかし、十勝の夕立は遥かに動的でありディオニュソス的である。お祭り的である。じっとしていられないような、焦燥感を煽るような、地母神的な、非文明的な、大地崇拝的な野生が潜んでいる。私が外へ裸で飛出したのはあれきりだったが、身体に感じたあの軽さと、天然のシャワーに打たれることの何とも言えない快感と解放感は忘れ難い。人間の身体の中にはその本来の姿に回帰したいと言う願望が内包されているのではないだろうか。

 

 『嵐』

 

 気違い猫がうろついて

 人間どもが笑いどよめく月夜に

 流れる雲が

 月を食った

 

 やがて巨大な雨粒がおしよせ

 濁流となり

 不敵な流れがすべてを飲み込んで進む。

 とどめることの不可能なこの奔流は

 流れ流れて突き進む。

 果てしなく、進み行く。      (第一詩集より)

 この『嵐』は、一九七六年九月十日に書いた詩である。丸い月を足早に流れる黒雲が覆い隠してゆく様を帰宅時に見ながら、嵐模様を空想して書いた。私にとって夕立は巨大な力を秘めた自然力、超自然的な力をいつも連想させるのである。


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北海道の思い出 その14 [北海道の思い出]

今日は休日出勤の振り替えで休み。このところ忙しく、来週も気が抜けない。あまり面白いとは思わない本であるが、『菜根譚』に達士以心払処為楽、終為苦心換得楽来(道に達した人は、苦しみに打ち勝つことを楽しみとするので、結局、苦しみのお蔭で楽しみを手に入れる。)(岩波文庫p210)とあるので、それを目指して我慢している。 

 

小学校の思い出 

 北海道時代の小学校の思い出は、至って少ない。上美生小学校は明治四十一年(1908)九月六日、上美生特別教授所として開設された。私が通学した頃は、生徒が各学年、十人前後しかいないのだから、全校で五、六十人だったのではないか。床の奇麗な学校だった。木材を鉋で削ったままの美しい色。靴下で歩くと、滑って転ぶほど蝋で磨き上げてあった。一九六〇年十二月中旬に、世田谷区の明正小学校に転校してきた時に、まず目にはいったのは黒土のように黒っぽい、油を吸わせた床だった。汚い!それが私の第一印象である。いずれにせよ、北海道の学校では蝋で磨いた奇麗な床だった。担任は渡辺先生だった。髪の毛がベートーベンの蓬髪のように、横に広がった髪で、眉根に皺の寄る、眼光が鋭い女性だった。極度に自意識過剰であった私は、オープンリールのついた大きな録音機のマイクロフォンに向かって、自分の名前を言いいなさいと言われ時、恐ろしく小さな声で、且つ早口で自分の名前を言った。それも何度も先生に早くするよう促されてのことだった。後日、父兄会でその録音を聞かされた母が、早送りしたテープのような声にがっかりして「どうしてもっとちゃんと言わないの?」と私に言った。

 図画工作の時間に、チューリップの絵を描かされた。私は絵が大好きで、いつも母に褒められて煽てられていたような気がする。勝手に図鑑(玉川百科かもしれない)を見て、クレヨンで魚を描き、切り抜いて貼り付けて立体水族館のようなものを作った記憶がある。そんな私だったが、他の女の子や担任の渡辺先生が綺麗に花弁を描く様を見て、上手な人がいるものだ、と感心したものだ。

 sputnik shock 1957.JPG絵と言えば、兄が新聞紙にクレヨンでロケットや人工衛星を描いたのが、子供ながら甚だ印象的に記憶に残っている。一九五七年十月四日にソ連がスプートニク一号の打ち上げに成功した。十一月三日にはライカ犬が人工衛星に乗せられた。米国がロケット打ち上げ競争でソ連に敗北したと感じ、教育改革を始めるきっかけになった出来事だった。子供は単にそのロケットの姿、人工衛星の形の美しさに感動しただけである。球に箸を何本も刺したような人工衛星が、未知の世界全般への憧れを掻き立てた。このスプートニクについては、兄は母に教わったのと、学習研究社の『学習』によって知識を得たそうである。上美生小学校ではだれもスプートニクのことなど知らず、話題にもならなかった、と兄は言う。

 広尾の海に行ったことがあった。早朝。母によると朝四時頃に、黄色い声を上げながら、姉と出発したそうである。母は食パンにバターを塗り砂糖を掛けた弁当を用意してくれた。私はこの砂糖入りバタつきパンが大好きで、私にとっては大変なご馳走だった。

防波堤があり海岸のある海をこの時初めて見た。波、大洋としての海は、青函連絡船に乗った際に見ているのであるが、それは海としての対象ではない。広尾の海には、小さな漁船が防波堤の近くを航行していた。荒い、黒っぽい海だった。淋しい風景であった。どことなく物悲しい風景。しかし、帰宅後、あの漁船の色の美しさに感動していた私は、広尾の海の絵をクレヨンで描いたのだった。海の色は紺色。漁船の白い船橋が印象的で、何としても絵に残しておきたいと感じた。そして、稲黍色した砂。砂を掘ると、蟹がいた。貝もいた。広尾の海岸での思い出はこの程度である。

 帰りのバスの中での思い出は、O橋家の母と子である。何人かは母親が一緒に来ていたのだった。O橋君の母親は、ビニール袋に昆布などの海藻も取って来ていた。私は母と子のその収穫を見て、羨ましさを感じていた。尤も、漁民が取らずに残しておいた海藻は、煮てもなかなか柔らかくならず、結局は食べられたものではないそうである。

 学校にバスが到着して、いよいよ帰宅する頃、夕立が降り始めた。凄い大雨になって、姉と私はすっかりずぶ濡れになってしまった。途中で、新家のよっこちゃんが、オート三輪に乗せてくれた。オート三輪は、あれはミゼットと言う名の三輪車だったのだろうか?ハンドルはオートバイと同じ形だった。四輪自動車に付いている円形のハンドルではなかった。いずれにせよ、当時、オート三輪でも大変な地位の象徴だったようだ。本家の浅井博敏氏は、もっと大型で円形のハンドルのついたオート三輪自動車を所有していた。母の話によると、この大雨は、一挙に家の前を川のようにしてしまったそうである。

 

一九五七年 二月 日米通商協定調印       
            九月 東海村原子炉の完工式
       
            十月 ソ連、人工衛星スプートニク成功
          
                  日本、国際連合非常任理事国に当選
          
                  南極観測船宗谷出帆。五八年四月帰国
       
            十二月 日ソ通商条約調印
 
一九五八年 二月 アラブ連合共和国成立、大統領ナセル
       
            十月 フランス第五共和制発足
       
           十二月 日ソ貿易協定調印
 
一九五九年 一月 ドゴール、仏大統領に就任、キューバ革命    

   十一月 全学連等、国会乱入事件

   十二月 北朝鮮帰国第一次船の出発

一九六〇年 一月 日米新安保条約調印          
                  三井三池争議無期限スト突入、十二月妥結
       
           四月 韓国暴動、李承晩退陣
       
           七月 池田勇人第五十八代内閣総理大臣に就任
       
           十月 社会党委員長浅沼稲次郎刺殺される
       
           十二月 池田首相「国民所得倍増計画」「十年で月給が二倍以上になる」と説明
 
一九六一年 六月 農業基本法成立
       
           七月 韓国政変、朴正熙
       
           八月 ベルリンの壁遮断
 
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北海道の思い出 その13 [北海道の思い出]

 美生川の思い出 

 美生川はアイヌ語でびばいろと言うそうだ。この川の記憶の糸を手繰って行くと懐かしい風景が出てくる。私は兄や姉に連れられて川遊びに行った。海水パンツを持っている筈もなく、下着のパンツ一つで川で水遊びをした。苔が生えてぬるぬるする石を跣の裏に感じながら、向こうの中州に渡った。透明な水、煌く水、石の下に隠れる鰍(かじか)。それをどんかちと呼んでいた。どんかちを焼いて食べたこともあった。少々生臭かったが、それでも美味かった。水が重く生温くなっている淀にはヤツメウナギがいて身体に吸い付いた。それを兄が指で挟み取って見せてくれた。目玉に見えるのは目ではないのだ、と説明してくれた。

Bisei river.JPG この川の流水は飲むことが出来た。次姉が友達と、桃色の細いビニールの管を使って川の水を飲むのを、私も真似た。ストローのようなものなのだが、直径一ミリメートル位のビニールの管を通すと、口の中に少量ずつしか入って来ないので、特別な水であるかのように感じられ、冷たくて美味しかった。

 小学生の一年生の夏だろうか、私は美生川に架かる上美生橋の欄干から川面を見下ろした。そして、下って行く川の流れと見つめていると、自分が動いているような錯覚を覚えるのを楽しんだ。どんどん自分が上流に後退してゆく感覚。そしてあの静かな川の流れる音。

 

行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつきえかつむすびて、久しくとどまることなし。

 

 ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ

   われらの恋が流れる

  わたしは思い出す

 悩みのあとには楽しみがくると

・・・(アポリネール詩集「ミラボー橋」堀口大學訳)

  

 それともう一つ美生川の思い出がある。あれだけ記憶が残っているのだから、多分五才位の頃だと思う。コンクリートで出来たこの上美生橋が出来る前のことだったのだろうか。濁流の中に、木で作られた危なっかしい橋が、この川に架かっていた。架かっていたと言うより、木で作った骨格のような構造物が岸から岸へ横断していた。それを渡って、学芸会を母と弟と観に行った。荒れ狂い、激しく流れる美生川の一面である。

 
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北海道の思い出 その12 [北海道の思い出]

 運動会の思い出 

 田舎では、運動会はお祭りの一種である。果たして運動会が日曜日に催されたのか、それとも平日に催されたのか記憶が定かではない。種蒔きの終了した六月中旬頃だったのではないかと、兄が言っていた。これは村を挙げてのお祭りだった。晩秋十一月の大きな節目であった学芸会同様に。一寸した食べ物屋や氷菓子屋が屋台を出す。

 私が思い出すのは、何と言っても父の食べたアイスキャンデーの本数多さだった。父は運動会が始まって暫くすると、ゆっくりとペダルを漕ぎながら自転車でやってくるのである。そして、家族のいる応援席に顔を出した後、彼の年に一度の楽しみが始まるのである。アイスキャンデーの幟を立てた屋台に行って、家族の分を買ってくる。さっさと食べてしまうと、追加を買いに行く。そして自分の分をうまそうに食べてしまうと、また屋台へ行く。そんなことを繰り返すのである。一本のアイスキャンデーは割り箸に砂糖水を凍りつかせただけの氷菓子だった。それ以外にバニラやらチョコレート味のバーと呼ばれるやや上等なアイスクリームがあった。父が買って食べたのは、専ら理科の実験室でも簡単に作れるような割り箸に付いた氷の棒であった。その数は二、三十本だったと思う。私は五十本食べたと思うと言うと、せいぜい二、三十本だったのだと言う。私は小さく、とても沢山だったとしか記憶していないので、ここは父の言葉を信用するしかない。父は運動会そのものはそっちのけで、アイスキャンデーを只管食べた。そして暑い陽射しの中でも、一人、徐々に冷えてゆくのである。ついには身体中が冷え切ると、「おぉ、寒い!食べたなぁ!」と自分の食べた後の割り箸を自慢そうに見る。それから「もう帰るぞ。」と言って、一人で自転車に乗って家に戻ってしまうのだった。

 それで肝心の運動会のほうだが、観戦した競技内容は良く覚えていない始末である。小学校一年生の時に、初めて自分が参加者の一人となった時のことは覚えている。団体競技が苦手で、どうしても真面目にやる気が出ない。それでいて、隊列を組んで秩序正しく行進し、二列が所定の地点で二手に分かれたりするのは鳥肌が立つほど感動した。この妙な感動がどうして私に湧き起こってきたのかは、後程十分に考察してみなければならない。

 運動会の時の思い出は、しかしながら、私の場合あまり面白いものではない。その一つ。上美生小学校は、それ自体小さかった(各学年一クラスのみ、それも一クラス二十人もいない)にも拘わらず、更に分教場があった。そこから運動会に参加する子供たちが教諭に引率されて来ていた。彼らは私の全く見慣れない少年少女たちであった。彼らは運動会用の真っ白な運動着を着ていた。色の浅黒い天然パーマの入った少年が一人いたように記憶している。少し汗ばんだ額と鹿のような小さな目が印象的だった。

 お遊戯。これが私が大の苦手とする種目だった。運動音痴なのである。渡辺先生の指示通り身体を動かすことが出来ない。自分でももどかしく、しかし、先生はもっともどかしく、されど身体は侭ならず。運動神経の発達していた次姉とは雲泥の差であった。彼女はなにしろ、小学校三年生の時に何処ぞの学芸会か何かで、小さい小学校ではあったがその上美生小学校を代表して闘牛士の恰好をして踊ったのであるから。「ぼーくはかわいい闘牛士、どぉんな牛だって負けないぞ!」と言う勇ましい歌詞の付いた音楽を伴奏にして。白いタイツに黒いブルマー、銀紙を貼ったボール紙製の短剣を腰に差して、実に勇ましく踊っていましたね、姉は。そんな姿を見ながら、私は音楽に合わせて踊るという芸当が出来るとは、凄いものだと思っていた。

 徒競走について。私の兄弟は二つに分かれる。それなりの成果を出せる者と、そうでない者と。私はそこそこの成果が出ない組に属していた。母the dash.JPG方の伯父達は剣道の稽古をしていたり、運動会でもリレーの選手だったことを考えると、どうやらこの鈍足は父方の血も大きく影響しているようだ。父方はどちらかと言えば、瞬発力よりも持久力、筋力を誇っていた。馬で言えば、輓馬か競走馬かの違いだ。いずれにせよ、私は足が遅かった。帰り道が一緒になる高山君と言う少年がいたのだが、彼は足が速かった。半ズボンからすらりとした脚が伸びていた。当時、運動会では一等賞を取ると、ノートやら鉛筆やらが貰えた。彼はそれを幾つも貰っていたが、片や私は、参加賞である最小限の文房具しか貰えなかった。私はあのやり方に疑問を持った。何故、出たくもない徒競走などの競技に参加させておいて、差別をするのか。自分から望んで参加しノートを貰えない結果になっても、それは自分の意志でしたことであるから納得はできるのだ。この高山少年は自分の脚が早いことが分かると、私の帽子を頭から奪い取って、帽子を振りまわしながら走り回って私を苛々させることがしばしばあった。こんなことも、その後私が運動会を嫌いになる理由になったのかもしれない。

 玉入れと玉転がし。私は学研の学習で知ったのであるが、運動会には玉入れとか玉転がしがあることを知っていた。しかし、期待に反して、上美生小学校では玉入れはなかった。今考えれば、単に十分な予算がなくて用具がなかったのだろうとは思う。それでも、何か寿司屋に行って、何か好きなものを食べ損なったような感じが残った。後日、世田谷区立明正小学校に転校して来て、こちらの運動会で玉入れを見て、やっと安心できた。籠の中に投げ入れられた玉を、先生が生徒と一緒に「ひとーつ、ふたーつ、みーっつ・・・」と数えるところが脳裏に焼き付いている。玉転がしは、残念ながら明正小学校でも競技になかったと思う。


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北海道の思い出 その11 [北海道の思い出]

 洞爺丸台風 一九五四年九月二十六日 

 この驚異的な猛威を振るった洞爺丸台風については、母が何度も話してくれた。しかし、私は実態を十分に知らないまま、伊勢湾台風やキャサリーン台風などと同じ自然災害の一つと言う認識でいた。

この貨客船は、野口雨情作詩・本居長世作曲『あかいくつ』の情景を思い出させ、遠い外国への憧れと、漠然とした不安を掻き立てる言葉だ。童謡の本の挿絵にあった、小高い丘からの港の風景が、未知の国への旅をいろいろと想像させたものだった。

昭和二十九年八月に第九回国体が北海道で開催され、往航では青函連絡船の洞爺丸が御召船として使われた。洞爺丸は起工が1946917日、進水が1947326日、1121日より函館にて就航。三菱重工神戸造船所の建造、総噸数三八九八噸、定員一等44人、二等255人、三等829人、合計1128人の客貨船であった。煙突が四本ついた豪華客船を連想させる作りの船だった。

これからの引用部分は坂本幸四郎著『青函連絡船ものがたり』(朝日文庫)によるものである。

  洞爺丸台風  台風五四一五号・マリーと命名される。一九五四年九月二一日(マリーは米軍が台風に付けた名) 特徴  大型で猛烈に速い。進行速度北東五十五ノット。 午後十時三十九分「SOS.こちら洞爺丸。函館港外、青灯より二百六十七度八ケーブルの地点に座礁せり」 やはりSOSが出た。内容は、十時二十八分の鉄道電報と同文である。ただ、SOSなので、国際遭難周波数五百キロヘルツで発信している。この直後、洞爺丸は、今度は国鉄函館桟橋海岸局に、専用周波数四百七十八キロヘルツに切り換え、通報した。・・海保「洞爺丸、こちら函館海上保安。貴船のSOS受信了解。詳細なる状況知らせ」pp170-171午後十時四十五分。保安CQCQCQこちら函館海上保安。SOSSOSSOS連絡船洞爺丸報。二二三九JST(日本時間)、函館港外、青灯より二百六十七度八ケーブルの地点 座礁。付近の船舶注意あれ」 p172函館市内では昼頃から断続的に停電が発生し、桟橋の停電もその一つだった。この時停電がなく、洞爺丸が出航していたら、波に揉まれはしたであろうが、無事に青森についた。 洞爺丸の運命を決めた、二分間(の停電)だった。 p187  *補注「八ケーブルは一五〇〇メートルの距離。CQcall to quarters応答依頼の信号 ・・後日の解析で明らかになったことだが、午後五時頃、函館付近に現れた台風の目と思われた青空は、実は台風の目ではなかった。台風は午後六時、洞爺丸が出航スタンバイをかけた時刻に、渡島半島江差の西方百キロあたりの日本海にいた。しかも、百十キロあった速度は、午後三時半頃から急激に落とし、四十キロほどで進みつつあったのである。津軽海峡と函館湾は、台風の右側、つまり最も恐れた危険半円に入ったのだった。・・・午後九時には九六五ミリバールにまでなっていたのである。 pp205-206一等船室では乗客も職員も全員死亡してしまい、様子が全くわからない。二等船室では、宣教師ドナルド・B・オース師(三十二歳)が助かって記録がある。(『キリストの証人たち』四竈揚、関田寛雄編)師は、一年前から北海道帯広で布教していたが、長野県沓掛(軽井沢)で開かれる協力伝道協議会に出席するため、乗船した。 二等入り口広間には、どこから入って来るのか、早くから波が入って来て、走水していた。救命具を着けるよう指示があった時、女、子供が泣き出し、同僚の宣教師と一緒に、この人たちに救命具を着けてあげる。船が揺れるにつれて、波は飛沫を上げ、天井まで届いた。全部のドアにボーイが二人ずつ立っていて、ドアを開けさせてくれなかった。「なぜ通さない。人殺し」という怒声が起こる。船が横倒しになった時、売店が倒れてきた。急に壁が壊れて下部遊歩甲板の通路の波がどっと浸入してきた。師は波に飛ばされ、角窓に押し付けられ、泳げないのでそのままの姿勢で頑張った。二、三人の人が窓を開けた。窓から海水が激しく出入りし、ついに海中へ放り出された。 pp207-208 米軍関係以外の外人旅客は五名だったが、生存したのはオース師一名である。 乗客一一六七名のうち、生存したのは一一六名である。 p217 

ここで登場する宣教師オース師は、上美生の我が家に牧師さんとこの年に一度やってきたことがあった。彼は副牧師としての立場であった。カナダ出身のオースさんの実家は五百ヘクタールの農場を経営していたので、日本の農業経営に興味があったのかもしれない、とは父の話。母の思い出では、背が高く一八〇センチ以上あり、入り口では首を傾けて入って来た。どのようなものでもてなしてよいか分からず、とりあえずドーナッツ1954.JPGを作って出した。他に母が覚えていることは、彼が自宅では脱脂乳を飲んでいると言ったことと、賛美歌を一緒になって歌ったが、あまり上手ではなかったことである。姉にオースさんの思い出を訊くと、金髪だったこと、日本語が片言だったこと、そして頭を撫でてもらったことなどが分かった。

洞爺丸台風の翌日朝、母は何の用があったか、上美生へ行った。町では小学校校長が落ち着かない様子だった。教諭の一人の妻が、赤ん坊を連れて埼玉の実家に帰る際に、洞爺丸に乗船したからだ。結局、この母子は遭難し亡くなった。

ところで、母は家で、蚊の鳴くような音でしか聞こえない有線放送でニュースを聞いた。耳に入ってきたのは「大津さん」と言う人物が、生存者にいると言う知らせだった。そしてこの大津さんこそが、オースさんだったのである。

洞爺丸台風は郵便も運んでいたが、遭難によって届けられなかった郵便物が送り主に返送されて来た。母が内地に送った手紙も帰ってきた。一緒に、一枚の葉書が間違って届いたが、その文面が大変に親孝行の子供のものだったので、感動したそうである。

 一九五四年 三月 ビキニ米水爆実験で第五福竜丸被災       六月 周恩来、ネルー会談、平和五原則声明

         防衛二法案成立、自衛隊発足    

一九五五年 八月 原水爆禁止世界大会を広島に開く 

一九五六年 七月二十八日 三男誕生(三男だったが五番目に生まれたので、誰からも親しまれるように可愛い名前を選んだ)

※写真は、カナダ人牧師のオースさんが撮影。落葉松の防風林を背景に、ジープの前に立つシャツ姿の父、長姉、兄、次姉を抱く母、左の二人はGさんとT牧師。1953年9月の写真。


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北海道の思い出 その10 [北海道の思い出]

 電気が点いた日 一九五〇年八月十一日  

 どのようなことでも、初めてのものには、感動はあるものだ。今までと異なったものを見る驚きはまた一入である。

 一九五〇年には、西伏見の奥に発電所が出来た。村人達も労働力を提供した。電柱は皆で農作業のない冬、凍った地面を掘って立てた。堅い凍土を掘るために、十分に深く掘れず、倒れた電柱もあったようだ。いずれにせよ、電気が通り文明人の生活が始まった。

 電柱が立って、電線も引かれ、電気を使えるようになった。その喜びは農村の青年の言葉に現れている。電気が通った日、隣家からこのK三郎氏が息せき切って走ってきて母に言ったそうである。「おまえんとこも点いたか?おれんとこも点いたぞ!」この台詞は、電燈が初めて点灯する度にthe day when the electricity service started(August 11, 1950).JPG繰り返された感激の言葉であろう。百科事典によれば、一八七九年に、アメリカのエジソンとイギリスのスワンが略同時に真空白熱電球を発明した。我日本では、明治二三年、一八九〇年に東京芝浦電気の前身であるところの東京白熱社が電球の製造を開始した。電球の組み立てと構造という図表を見ると、足管、無空棒、排気管、ハブボタン、シュメット線(導入線)、フィラメント(タングステン)、アンカー(モリブデン線)、口金と記載してある。部品の名前を見ると、如何にも文明の産物である。電燈自体の歴史はもっと前で、一八八二年に二千燭光のアーク燈が初めて銀座で点燈された。当時の「東京銀座通電気燈建設之図」と言う錦絵を見ると、この絵は遠近法で描かれているのだが、ずれた消点のやや左側に立った五メートルほどの高さのアーク燈を明治時代の人々が見上げている。二千燭光と言う明るさはどの位のものであるのだろう。定義を調べてみると、一燭光はハーコート一〇燭ペンタン灯の水平方向の光度の十分の一であるそうだ。これでは、訳が分からなくなってくる。いずれにせよ、蝋燭二千本以上の明るさがあり、眩くばかりで、大変明るかったのである。現代のように照明が過剰である時代の夜とは全く夜そのものが異なっていたことを想像して見なければならない。この明治時代の感動を、六十八年後の昭和二十五年に北海道の開拓者部落では再び体験した訳である。秋には発電所のダムに落ち葉が詰まって、しばしば停電してがっかりさせてくれたそうだ。

 一九五〇年 一月 米三軍首脳、日本の軍事基地強化を声明      五月三〇日 人民決起大会皇居前広場で開催六月 朝鮮動乱始まる八月 警察予備隊令公布十二月 アメリカ非常事態宣言 一九五一年 三月 イラン石油国有化       四月 マッカーサー解任、リッジウェイ中将後任に       九月 対日講和条約に調印(49カ国)。日米安全保障条約調印       十二月 スエズ地帯の反英暴動起こる 一九五二年 四月 破防法反対のゼネスト。全学連スト。日華平和条約。インド、対日終戦宣言。       七月 公安調査庁発足  一九五三年 二月 NHKテレビ放送開始       三月 ソ連スターリン没  一九五一年 次女誕生(朝鮮戦争が始まったので、母が平和を願って命名) 一九五三年 次男誕生(母が白樺派に憧れていたため命名)
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北海道の思い出 その9 [北海道の思い出]

  床のある新居  一九五〇年 

 大自然の中の住居は実に粗末だった。平屋で東側から順番に五右衛門風呂の据えてある風呂場、室のある六畳間の台所、その向かい側にあった寝室、ストーブのある六畳の食堂、それはそのまま玄関に面していた。玄関は一帖位の広さだったのだろうか。玄関には薪が積んであった。この薪を取ってきては、ストーブで炊くのだ。この手鉞や鉞で行う薪割も父親の大切な仕事の一つだった。そして西側には子供部屋を兼ねた六畳の寝室があった。この部屋には物置が付いている。更に西側には押し入れの付いた八畳の部屋があり、箪笥や寝台が一つ置かれていた。この寝台は、いつも便利屋の様に手伝ってもらった名物親爺、飯沼の親爺の息子に頼んで、素人大工で拵えて貰ったものである。ベッドとは名ばかりで、垂木を足にして板を乗せただけの代物であった。家は南に面しており、目の前にはぞんざいに作られた花壇があり鬼百合やダリアなどが植えられていて、季節に彩a view from our house.JPGりを添えていた。父は母に「花壇など作る暇があったら仕事をしろ。」と言ったそうだ。実際に仕事がきつくて、花を楽しんでいる状況ではなかった。それでも、本家や新家やS藤家や、つまり我が家以外の農家では、どこでも奇麗な花を庭に植えていた。特に斉藤家には花ばかりではなく、花林檎の木が植わっていたし、本家には赤い実のなる櫟の木や、サクランボのなる桜が植わっていたのが羨ましかった。そのことを知っていた私は、悲しい思いをしたものだ。そして花壇の先は、畑である。畑は緩やかな丘になっていて、頂上まで行って同じくらい下るのである。畑と畑の境界線は落葉松の防風林である。両隣との間にも落葉松の防風林があった。また南隣のA藤家との間にも落葉松。生まれ故郷では、落葉松の防風林は至る所にあった。国道も畑も防風林で仕切られていたのである。新しく開墾された所らしく、奈良時代の条里制のように整然とした、と言うよりはむしろ単純明瞭な区画である。東側のお隣さんは、A井家である。新家と呼ばれていた。西隣には本家のA井家があった。三軒とも道から十メートルほど離れて立っている。お隣と言っても、国土地理院発行の二万五千分の一の地形図で見ると五百メートルの間に二軒あり、我が家は真中、本家A井家は遠い端の方に立っていたので、二百数十メートルは離れていたことになる。子供の頃は、それが随分遠く離れているように感じられた。北海道から内地に引っ越してきたのは一九六〇年の年末だった。そしてその時から現在まで住んでいる川崎市栗木の家に引っ越してきた時、なんとも狭くて息が詰まりそうな気分になったものだ。なにしろ両隣が三十メートル位しか離れていないのだから。

*写真は、我が家からその南側広がる畑を撮ったもの。右側の筋骨隆々としているのがA家新家のYさん。馬を操っているのが本家のHさん。馬が牽いているのはマワー(mower)と呼ばれた草刈機。高価な機械ゆえ本家の所有物である。写真が撮影されたのは1950年よりも後。


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北海道の思い出 その8-2 [北海道の思い出]

翌、一九四八年四月初旬のことである。雪解けは終わっているが、大地は沢山の水分を含んでいた。父と母はA井家の人々と開墾作業に勤しんでいた。仕事の手を休めて、ふと馬を繋いでおいた木を見ると、進纓号も当年子も、A井家の馬も姿が消えていた。父の心境は、イタリア映画『自転車泥棒』の主人公が、大事な交通手段の自転車を盗まれた時のあの心境ではなかっただろうか。

すぐに二人は馬を探しに出掛けた。柔らかい地面の上に残った蹄の跡を辿って行けばよかった。しかし、ある地点まで来ると、蹄の跡では識別できなくなってしまった。

あくる日も、その次の日も、夫婦は馬を探した。近所の人々も困った時はお互いさまで、捜索を手伝ってくれるのだが、それでも見つけることが出来ない。途方にくれた若夫婦は、伯楽のところへ、兎馬の前歴を尋ねに出掛けた。そして、この兎馬が士幌(しほろ)からやってきたことが分かった。また、尻に井の字の焼印があったことから、大津牧場で育ったことも判明した。しかし、生まれ故郷に帰るには、雪解け水で増水した札内川(さつないがわ)を泳ぎ渡らねばならない。進纓号は仔馬を連れていたので、この川を渡れる筈がないと、皆が言った。

八方手を尽くしたが埒が明かないので、父が捜索を単独で続行し、母は幼い娘Mと家に残ることになった。父はあちこち探しながら、帯広にやってきた。一晩の宿泊を頼み込んでも、着替えも十分にないために、薄汚れた柔道着を着た鬚面の男を泊めてくれる家はなかった。困り果てて、教会に行き、そこで泊めてもらうことになった。Search in the east area.JPG

時間はどんどん過ぎてゆくばかりだった。占いを信じない二人だったが、易者に占ってもらうことにした。苦しい時は、突破口を求めて何か精神的な支えが欲しくなるものである。父は帯広で、母は上美生で易者を訪れた。易者達は別々の場所で、同じ解答を出した。「東の方角を探せ。」

そこで、父は東の方角で捜索を続行することにした。父は札内川を渡った。そして、ついに兎馬を見つけたのである。親子そろって、大津牧場に帰っていたのであった。皆が渡る筈がない、渡れる筈がないと言っていた札内川を親子で渡り切っていたのである。馬は社交的な(gregarious)動物であり、故郷を良く覚えていると言うが、兎馬親子はこれを証明して見せたのである。シャーロック・ホームズの冒険の一編『白銀号』に於いて、ホームズが馬の性質を説明する部分があるが、その分析通りだった。故郷の仲間の所へ帰っただけなのである。川を渡った後に、投げ縄の名手によって捕獲されたのだった。二人の易者の言葉通り、東の方角に兎馬はいた。こうして、逃亡を始めてから二週間後に、長い馬探しはやっと終わったのだった。

馬が見つかったと言う吉報は、珍しい人が母の所へ齎した。

()その人は、両親同様に世田谷区から疎開してきた、木彫彫刻家であった。「馬、見つかったらしいよ。」と偶然来訪した際に教えてくれたそうだ。そして、その日兎馬に跨った父が凱旋将軍よろしく帰宅した。捜索に出掛けた際のみすぼらしさとは打って変わって、髪も整え、髯も剃り、洋服も着替えきれいになって帰ってきた。帯広の寺岡さんと言う方のところで、汚れたものを全て着替えてきたのであった。

この兎馬進纓号については、こんな話もある。厩舎には馬栓棒(ませんぼう)と言う横棒が置いてある。これは馬の寝床とでも呼ぶべき空間と厩の廊下との間の仕切り棒である。通常はこの馬栓棒は二、三本で十分なのである。こんな横棒が渡してあるだけで、馬にとっては十分な障害になって、とてもこの棒をどけて廊下に出ようなどとは思いつきもしないのである。ところが、ある朝、厩番が厩舎に入ってゆくと、脱走名人兎馬は、五本も渡してあった馬栓棒を易々と銜(くわ)えて外し、廊下をうろついていたと言うから驚きである。脱獄名人白鳥の脱獄場面を彷彿とさせる。名うての厩破りだったのである。さすがは名伯楽、度量が大きく過ぎ去った過去の罪は水に流し、前科については一言も言及しなかったようである。

一九四八一月 財閥支配力排除法公布    十月 極東国際軍事裁判最終判決一九四九三月 ドッジライン(日本経済安定策)発表    四月 一ドル三六〇円の単一為替レート設定    七月、八月 下山事件、三鷹事件、松川事件    九月 シャウプ税制勧告文発表    十一月 湯川秀樹博士ノーベル物理学賞受賞 一九四九年六月六日 長男誕生(祖父一郎が尊敬していた東北大学の八木秀次博士の子息の名前より)

 


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北海道の思い出 その8-1 [北海道の思い出]

 兎馬の逃亡   一九四八年 

終戦後間もない頃、北海道の農家ではまだ機械化が行われていなかった。勿論内地もそうである。北海道では、トラクターが導入される前には、馬を耕作に使った。だから、これから開墾をしなければならない夫婦にとっては馬が不可欠であった。一九四六年四月初旬、耳寄りな情報を入手した。軍馬の払い下げの記事を新聞の片隅に発見したのである。その公告では、(せん)美里(びり)にいる軍馬を一般人に先着順で安く払い下げるという。この仙美里は戦時中には軍馬の補給基地だった。そのために、近くを爆撃されたこともあった。

父は新聞記事を読んだ翌日四時に起床して、芽室の町役場まで歩いて行った。一番乗りである。そして望み通りその軍馬を手にいれることが出来た。父の情熱が好印象を与えたとは思うが、それ以上に、まだ二十一歳と若かった父が、大量の牧草(ティモシーやアルファルファ)の種を購入しており、種を蒔いて馬の飼料として準備をしようとしていた計画性などが考慮されたようである。父は持参した資金で牧草の種を早期に購入しておいたが、その後インフレになり貨幣価値が下がった。そのため金で持っているよりも物で持っている父は断然有利になった。第一次世界大戦後のドイツのインフレを思い出す。父が言う諺にこういうものがある。上農は雑草を見る前に除く、中農は雑草を見てから取り除く、下農は雑草を見ても何もしない。父は計画性と先見性があると思う。

 *敗戦直後のインフレーションは大変なものだった。橋本寿朗著『戦後の日本経済』(岩波新書)八十五頁によると、卸売物価指数は一九四五年を百とすると、四六年四百六十四、四七年千三百七十五、四八年三千六百五十一、四九年五千九百五十一、五〇年には七千四十五となった。 

この戦利品であるところの軍馬は、軍隊の牧場で兵糧攻めにあったと見えて、帰り道途中で路傍の腐れかかった藁縄をたべる始末だった。父の話では、この馬は軍馬になるまえの状態で、牧場に放し飼いにされており、どちらかと言えば野生化していたらしい。

さて、この馬はアングロ・ノルマン種で、名前を玉野と号した。馬齢三歳。余談ながら、馬齢は馬の歯を見ることによって知ることができる、と専門書には書いてある。もっとも予測できるのは八歳までで、それより年をとるとよく分からない。永久歯が生えてくることによって、また歯の形が年と共に少しずつ変形してくることによって判別するのだ。「歯を極簡単に調べようと思ったら、一方の手で上顎をもう一方の手で下顎を掴み、親指を前歯の後ろに差し込む。下の方の手で押し上げると、馬は下顎を下げるので、簡単に調べることができるのである。年齢を知ることが出来るようになるためには幾分経験を要求される。八歳までなら、合理的な正確さでもって決定できる。云々。」(本は表紙が欠落しているので題名が分からないが、多分アメリカで出版された本だろうと思う。第四章の小見出しはJudging Farm Animals/The Anatomy of the Horseとなっている)

JUDGING FARMA ANIMALS.JPG玉野号は、素性は立派なアングロ・ノルマン種とわかっていながら、軍馬は軍馬であった。農耕馬ではなく、開墾や耕耘ができなかった。即戦力にならない。この玉野号の調教をすることになったのが、町会議員S松氏だった。町会議員にとっても、この馬の調教は大変だった。馬の躾は馬に任せると言う方法があり、トロイカのように三頭立てにし、新米を先輩二頭の間に挟みこみ、否応なく命令を覚えさせた。母によると、玉野号は調教が終わった後でも、母が胴引き(馬具の一つで、馬の胴体と馬車などを繋ぐ道具である)を付けに近づくと、蹴り上げる振りをしたそうだ。動物の直感で、自分のことを恐れている相手のことは分かるようで、びくびく逃げ腰の母を脅かしたのである。馬はある程度の記憶力も判断力もあり、愛情をもって育てれば、人の言葉や態度を理解するようになるそうだ。飼いならす場合にも、決して虐待は禁物で、綱などで尻を叩いたりすると、蹴り癖、噛み癖、後退きなど悪癖をつくる原因になってしまうそうだ。玉野は調教が上手くいっていなかったのかもしれない。

翌年、一九四七年八月下旬に、当年子(とねっこ)(その年に生まれた仔馬)を連れた母馬に乗った救い手が現れた。田氏である。彼は上美生にあった田商店の主人の弟で、伯楽(ばくろう)をしていた。持ちかけられた話は、玉野号と母子の馬とを「ばくろう」(北海道弁で交換しよう」の意)と言うものであった。但し、単純な交換ではない。玉野号は三万円だが、母仔馬は四万円相当である。だから差額の一万円を現金で払って欲しい。

この取引はかなり危険を孕んでいたが、若夫婦に期待も持たせてくれたようである。その期待のほどは、母が世田谷の祖父と祖母に宛てて送った馬の系譜付き書簡から窺える。仔馬は翌年売れば一万円、二年後だったら二万円になるだろうから、先が楽しみである、等々。散々梃子摺らされた玉野の後だったので、夢もみたくなるのが道理である。商談は即成立。八月二十八日のことである。

この馬の名は進纓号(しんえいごう)、八歳、栗毛のハックニー種。より正確に言うと、四分の一ハックニーの血が混じっていた。系図には父母と、もう一世代前まで記載されていた。中半血内国産洋種、雌、特徴流星珠目正下。どのような名馬だったのか、親の顔が見たいところであるが、進号の写真すらない。顔立ちは宛ら杵のようで、兎に似ていた。そこで、兎馬と言う渾名を頂戴することになった。

ところで馬の種類は、先に馬齢について一部分を引用した、父が学校の図書館から拝借したままの本(Judging Farm Anilals)の分類によると、四種類ある。第一種は(ばん)()或いは農耕馬、第二種は軽い馬車を引く馬、第三種は重い馬車を引く馬、第四種が乗馬用の馬である。小学館百科事典によれば、日本では三種類に分けるのが一般的であるようだ。軽種のアラブ種、サラブレッド種、アングロアラブ種であり、競走馬、乗用馬である。次の種類は重種で、シャイヤー種、ペルシュロン種、クライズデール種、蒙古馬等であり、輓馬や農耕馬である。シャイアー種やペルシュロン種は、私が中学二年生の一学期に東京の(きぬた)図書館で家畜の図鑑を見ていて、その隆々たる筋肉をもつ馬を飼いたいというに強い願望を抱かしめた。第三種は中間種であり、アングロノルマン種、アメリカントロッター種、ハックニー種である。アングロノルマン種には更に輓馬型と速歩型の二種類ある。ハックニー種は軽馬車用、乗馬用。玉野号はアングロノルマン種であるから農耕に適していたと考えられる。一方進号の方はハックニー種の血を引く雑種で、八歳だったので、この買い物は果たして得だったのかどうかは分からない。八歳を超えると歯をみても馬齢は分からないと言うことになっているので、私は伯楽が八歳と言ったところが気になる。寿命が五十歳位であることを考えてみれば、大問題ではないのかもしれないが
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北海道の思い出 その7 [北海道の思い出]

今日は挿絵を描くことができない。戦後の日本への物資の援助がどのようなものか、話だけしか分からないからである尚、次回公開予定のその8は、私が最も書きたかった話である。乞うご期待。 

ララ物資

 

 戦後の日本は大変な食糧難を経験したが、アメリカが主体となり、援助を行った。具体的な数字は注の通りだが、ララ物資、ガリオア物資などについて、具体的にどのような援助があったのかを訊いてみた。はっきりと記憶しているのは父と姉(M)であった。援助は、配給と言う形で行われた。配給されたのは、町役場或いは農協が代行していたのかもしれない、と父は言う。姉の記憶では、小学校に沢山物資の詰まった大きな袋が届けられ、そこから子供たちに援助物資を配った。チェダーチーズ、粉ミルク、衣料、コンビーフの缶詰などがあった。赤味がかったチーズは見たことがなく、父に尋ねたら「これはチーズだ。」と教えてくれた。このチーズは意見が二分して、「石鹸のようで食べられたものではない。」と言う派と、父や姉のように「こんな美味しいものたべたことない。」派とがあった。ちなみに、姉が缶詰などに張ってあった色の異なる手と手が握手しているデザインのラベルが印象的で良く覚えているとのことだ。この物資が一体ララ物資だったのか、ガリオア物資なのか、それともユニセフのものなのかは分からない。

 ララ物資と言うと、忘れてはならない人がいる。浅野七之助(1894-1993)と言う盛岡出身で一九一七年に渡米した新聞記者である。彼は戦後祖国の惨状を知り在米日系人らに呼びかけて、食料品、衣類、薬品を集めて、日本戦災救済運動を始めたが、これが後にララへと発展し、ララ物資として日本に送られたそうである。

 そのほか救援物資と言うと、MSA物資と言う表現も忘れてはならない。朝鮮戦争の勃発(一九五〇年)により、在日米軍の主力が国連軍として朝鮮半島にゆくことになったこと、よく一九五一年に対日講和条約と日米安全保障条約が調印されたことの流れから、一九五三年には米国が日本に対し相互安全保障法(MSA Mutual Security Act)に基づく経済援助、武器援助を検討し始めた。

 MSAは、当時新約聖書マタイ伝第七章第七節「めよ、らばえられん。」ともじられていたそうである。MSAの多くは学校給食に回ったと言う。また、キューバ産の精製されていない赤砂糖には小さな虫が入っていることもあり、腹を壊すことがあるらしいと言う噂があった。また、小麦なども米国での余剰分が送られてきたので、中には黴が生えているものもあったらしい。母によると、一度米国産の豆の配給があったが、日本一美味しい豆を生産している北海道の人々の舌を基準にすると、全然美味しくなかった。

 援助物資の中には、化学肥料も含まれていた。横文字の印刷された布袋に詰められた塩安や硫安を農協に行き農業手形で購入した。また、化学薬品ではDDTが当時人体への影響を全く考慮せずに使われた。発疹チフスの流行が心配されたことも理由の一つであった。母は一九四九年に二歳半になる美里を連れて上京したが、青函連絡船に乗船する際に函館で頭から、また(うなじ)から背中に向けてDDTを噴射された。DDTを噴射したのは婦人会の人々のようだったが、赤ん坊も真っ白にされた。家畜の援助については、品種改良用に種牛が送られてきた。また、山岳系のブラウンスイス種、上質の牛乳の出るジャージー種などが送られたと思うが、やはり乳の量ではホルスタインに敵わないので、定着しなかったようだね、とは父の話である。

 一九四六年 ララ(LARA)物資による救援開始  一九四七年 ガリオア物資(Government Aid and Relief in Occupied Areas占領地域救済基金)の救援始まる(1947-1951      LARAとは、Licenced Agencies for Relief in Asiaの略(アジア救済公認団体)であり第二次世界大戦後、アメリカ、カナダ、メキシコ、チリ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー等の諸国から集められた対日援助物資の窓口を一本化するために組織された団体である。一九五二年に打ち切られるまで、食糧、衣料、医薬品などが配布され、一四〇〇万人がその恩恵を受けた。一九四八年には、東京、大阪、名古屋、京都、横浜、神戸の六大都市で約三〇〇ヶ所の保育所でララ物資による給食が開始された。当時の日本は、敗戦の後遺症が尾を引き、国民の生活は荒廃し、その日の食糧を獲得するの精一杯の状況であった。とりわけ生活が著しく困窮した児童に向けて、ララ物資やユニセフによる緊急援助や母子福祉に対する援助は、混乱する日本社会に歯止めをかけた。      国際NGOによる支援(ケア)終戦後、日本は深刻な食糧・物資不足にあえいでいたが、米国の民間援助団体CAREの食糧・医療・医薬品・学用品の無償配布は、多くの人々に明るい希望の光を投げかけた。CARE(Cooperation for American Relief for Everywhere)は、もともとは一九四五年に、やはり戦災に見舞われたヨーロッパの困窮者に食糧や衣料などの援助物資を発送するために設立された世界最大の団体。日本では一九四八年(昭和二三年)から一九五五年までの八年間、学童、青少年を対象に食糧、衣料、医薬品、学用品などを無料配布した。八年間にわたった日本への援助総額は5千万ドル(約一八〇億円=当時)にも及んだ。ケア物資の例を挙げてみると、食糧では、全脂粉乳、チョコレート、干しぶどう、小麦粉、砂糖、缶詰等。生活必需品では、石鹸、缶切り、木綿地シーツ、シャツ、毛布等。衣料や寝具類のパッケージも援助品目にはあり、縫い針、ハサミ、メジャー、縫い糸、安全ピン、ボタンなどがセットされていた。このようにして、日本への援助が終わった三十二年後の一九八七年には、援助側の一員となるべくケア・ジャパンが設立された。昨今の我国の経済協力には、世銀の融資のみが日本の再建に大きく関与していたことが云われているが、それよりもいち早く日本国民に直接援助を行っていたNGOがあったことを知る必要がある。      GARIOAEROAガリオア・エロアとは、米国の占領地域における飢餓救済、社会安定のための食糧、医薬品、肥料などの物資による援助のことである。(略)因みに、ガリオア物資による援助の対象品目としては、米(110,566t)、小麦(5,059,307t)、塩(516,312t)、砂糖(796,956t)、缶詰(161,935t)などの食糧に加え、パルプ・紙(3,254t)、肥料(3,135,360t)、化学医薬品(10,990,988t)、牛など動物(10,179頭)。(「戦後二十年史」・日本評論社より)以上*印のついた注釈はホームページ「援助の歴史」(www.juwa.co.jp/alice/006/ap006.html)より      橋本寿朗著『戦後の日本経済』が引用している「供給指数からみた戦時・戦後の消費水準」(1934-36の平均を100とする)によると、一九三七年に主食・副食が105/101あったものが、一九四五年には78/60となり、四六年には56/58、四七年75/53、四八年77/63、四九年83/68、五〇年83/82と言う推移になっている。      農業手形第二次世界大戦後農家が疲弊し、農業資金調達に困難をきたしたために創設された手形で、昭和二十五年(一九五〇年)にはじめられ非常に広く利用されている。これは一般農家は主要食糧の収穫代金や農業共済金を引き当てとして、農業協同組合や小売業者から融資を受け(借用証書を提出する)、農業協同組合や小売業者は、この借用証書の限度内で農業協同組合連合会や銀行から必用に応じて融資を受けることが出来る制度で、この小売業者や農業協同組合が融資を受けるために振り出す手形が農業手形である。農業協同組合連合会は、この手形を農林中央金庫に提出して金融を受けることができる(手形を割り引いてもらう)。わが国の農業生産は非常に重要なので、日本銀行としてもこの農業手形をとくに優遇しているが、昭和二十七年以後、農業手形は農家五人以上の連帯責任とすることになっており、とくに確実性が強くされている。◇紅林茂夫◇(小学館日本百科大事典)一九四六年  長女M誕生(この名前の「里」は、新約聖書第五章第四十一節の二里行者から取られているとの説明である。「人もし汝に一里ゆくことを強ひなば、共に二里ゆけ。」
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