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北海道の思い出 その11 [北海道の思い出]

 洞爺丸台風 一九五四年九月二十六日 

 この驚異的な猛威を振るった洞爺丸台風については、母が何度も話してくれた。しかし、私は実態を十分に知らないまま、伊勢湾台風やキャサリーン台風などと同じ自然災害の一つと言う認識でいた。

この貨客船は、野口雨情作詩・本居長世作曲『あかいくつ』の情景を思い出させ、遠い外国への憧れと、漠然とした不安を掻き立てる言葉だ。童謡の本の挿絵にあった、小高い丘からの港の風景が、未知の国への旅をいろいろと想像させたものだった。

昭和二十九年八月に第九回国体が北海道で開催され、往航では青函連絡船の洞爺丸が御召船として使われた。洞爺丸は起工が1946917日、進水が1947326日、1121日より函館にて就航。三菱重工神戸造船所の建造、総噸数三八九八噸、定員一等44人、二等255人、三等829人、合計1128人の客貨船であった。煙突が四本ついた豪華客船を連想させる作りの船だった。

これからの引用部分は坂本幸四郎著『青函連絡船ものがたり』(朝日文庫)によるものである。

  洞爺丸台風  台風五四一五号・マリーと命名される。一九五四年九月二一日(マリーは米軍が台風に付けた名) 特徴  大型で猛烈に速い。進行速度北東五十五ノット。 午後十時三十九分「SOS.こちら洞爺丸。函館港外、青灯より二百六十七度八ケーブルの地点に座礁せり」 やはりSOSが出た。内容は、十時二十八分の鉄道電報と同文である。ただ、SOSなので、国際遭難周波数五百キロヘルツで発信している。この直後、洞爺丸は、今度は国鉄函館桟橋海岸局に、専用周波数四百七十八キロヘルツに切り換え、通報した。・・海保「洞爺丸、こちら函館海上保安。貴船のSOS受信了解。詳細なる状況知らせ」pp170-171午後十時四十五分。保安CQCQCQこちら函館海上保安。SOSSOSSOS連絡船洞爺丸報。二二三九JST(日本時間)、函館港外、青灯より二百六十七度八ケーブルの地点 座礁。付近の船舶注意あれ」 p172函館市内では昼頃から断続的に停電が発生し、桟橋の停電もその一つだった。この時停電がなく、洞爺丸が出航していたら、波に揉まれはしたであろうが、無事に青森についた。 洞爺丸の運命を決めた、二分間(の停電)だった。 p187  *補注「八ケーブルは一五〇〇メートルの距離。CQcall to quarters応答依頼の信号 ・・後日の解析で明らかになったことだが、午後五時頃、函館付近に現れた台風の目と思われた青空は、実は台風の目ではなかった。台風は午後六時、洞爺丸が出航スタンバイをかけた時刻に、渡島半島江差の西方百キロあたりの日本海にいた。しかも、百十キロあった速度は、午後三時半頃から急激に落とし、四十キロほどで進みつつあったのである。津軽海峡と函館湾は、台風の右側、つまり最も恐れた危険半円に入ったのだった。・・・午後九時には九六五ミリバールにまでなっていたのである。 pp205-206一等船室では乗客も職員も全員死亡してしまい、様子が全くわからない。二等船室では、宣教師ドナルド・B・オース師(三十二歳)が助かって記録がある。(『キリストの証人たち』四竈揚、関田寛雄編)師は、一年前から北海道帯広で布教していたが、長野県沓掛(軽井沢)で開かれる協力伝道協議会に出席するため、乗船した。 二等入り口広間には、どこから入って来るのか、早くから波が入って来て、走水していた。救命具を着けるよう指示があった時、女、子供が泣き出し、同僚の宣教師と一緒に、この人たちに救命具を着けてあげる。船が揺れるにつれて、波は飛沫を上げ、天井まで届いた。全部のドアにボーイが二人ずつ立っていて、ドアを開けさせてくれなかった。「なぜ通さない。人殺し」という怒声が起こる。船が横倒しになった時、売店が倒れてきた。急に壁が壊れて下部遊歩甲板の通路の波がどっと浸入してきた。師は波に飛ばされ、角窓に押し付けられ、泳げないのでそのままの姿勢で頑張った。二、三人の人が窓を開けた。窓から海水が激しく出入りし、ついに海中へ放り出された。 pp207-208 米軍関係以外の外人旅客は五名だったが、生存したのはオース師一名である。 乗客一一六七名のうち、生存したのは一一六名である。 p217 

ここで登場する宣教師オース師は、上美生の我が家に牧師さんとこの年に一度やってきたことがあった。彼は副牧師としての立場であった。カナダ出身のオースさんの実家は五百ヘクタールの農場を経営していたので、日本の農業経営に興味があったのかもしれない、とは父の話。母の思い出では、背が高く一八〇センチ以上あり、入り口では首を傾けて入って来た。どのようなものでもてなしてよいか分からず、とりあえずドーナッツ1954.JPGを作って出した。他に母が覚えていることは、彼が自宅では脱脂乳を飲んでいると言ったことと、賛美歌を一緒になって歌ったが、あまり上手ではなかったことである。姉にオースさんの思い出を訊くと、金髪だったこと、日本語が片言だったこと、そして頭を撫でてもらったことなどが分かった。

洞爺丸台風の翌日朝、母は何の用があったか、上美生へ行った。町では小学校校長が落ち着かない様子だった。教諭の一人の妻が、赤ん坊を連れて埼玉の実家に帰る際に、洞爺丸に乗船したからだ。結局、この母子は遭難し亡くなった。

ところで、母は家で、蚊の鳴くような音でしか聞こえない有線放送でニュースを聞いた。耳に入ってきたのは「大津さん」と言う人物が、生存者にいると言う知らせだった。そしてこの大津さんこそが、オースさんだったのである。

洞爺丸台風は郵便も運んでいたが、遭難によって届けられなかった郵便物が送り主に返送されて来た。母が内地に送った手紙も帰ってきた。一緒に、一枚の葉書が間違って届いたが、その文面が大変に親孝行の子供のものだったので、感動したそうである。

 一九五四年 三月 ビキニ米水爆実験で第五福竜丸被災       六月 周恩来、ネルー会談、平和五原則声明

         防衛二法案成立、自衛隊発足    

一九五五年 八月 原水爆禁止世界大会を広島に開く 

一九五六年 七月二十八日 三男誕生(三男だったが五番目に生まれたので、誰からも親しまれるように可愛い名前を選んだ)

※写真は、カナダ人牧師のオースさんが撮影。落葉松の防風林を背景に、ジープの前に立つシャツ姿の父、長姉、兄、次姉を抱く母、左の二人はGさんとT牧師。1953年9月の写真。


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コメント 7

sig

こんばんは。
洞爺丸事故の件は内田吐夢監督の「飢餓海峡」(1964)でしか知らなかったのですが、アヨアン・イゴカ―さんにこんな身近なエピソードがあったことに驚嘆しました。
by sig (2012-05-05 23:55) 

mimimomo

おはようございます^^
洞爺丸台風は名前しか知らないです。
今以上に昔は台風は脅威でしたよね。
by mimimomo (2012-05-06 08:32) 

Enrique

洞爺丸事故には,いろんなエピソードがあるようですが,アヨアン・イゴカ―さんのお身近でも大いにあったのですね。
北海道の作家のラジオドラマで,二人のギタリストの遭難がテーマの「アグアドの首」というのを知り,以前記事にしました。
http://classical-guitar.blog.so-net.ne.jp/2009-05-22
by Enrique (2012-05-06 18:13) 

唐糸

こんにちは。
ちょうど先日、紫雲丸の海難事故のことをネットで見てましたら、洞爺丸のことも出てきました。
当時の日本は船の事故多発で、今さらのように驚いてしまいます。

by 唐糸 (2012-05-07 18:55) 

アヨアン・イゴカー

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by アヨアン・イゴカー (2012-05-12 22:29) 

アヨアン・イゴカー

sig様
オーツ牧師の話は、母から何度も聞きました。そのため、洞爺丸台風は私にとっても特別の意味を持つようになりました。

mimimomo様
小学校の頃、図書館の図鑑の中に、台風の為に貫を雨戸の外に釘で打ちつけて準備をする九州の人たちが漫画で紹介されていました。台風には、特別な恐ろしさが伴っていました。
残念ながら、最近の台風や異常気象は、予測は出来ても、規模や破壊力が大きいので、その点、昔の台風よりも複雑で恐ろしく感じています。

Enrique様
ギターリストが乗っていたという記事を拝見しました。
千人もの乗客が乗っていた訳ですから、知らない話がもっと沢山ある筈ですね。

唐糸様
紫雲丸事故、早速wikipediaで読んでみました。対策が後手後手に回っていますね。全国の小中学校でのプール設置、体育での水泳指導が、この事故を機に進められたというのも興味深いです。
by アヨアン・イゴカー (2012-05-12 22:55) 

青い鳥

洞爺丸事故の話は私も大変な事故であったと聞いていますが
アヨアン・イゴカー様はオース牧師さんとのご縁で
事件のあらましをこんなにも詳しく知っていらっしゃるのですね。
オース牧師がお撮りになった写真も貴重な資料ですね。
by 青い鳥 (2012-05-13 11:03) 

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