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貯水塔のある風景 [随想]

貯水塔のある風景

 私は買い物に行くときは、徒歩十分で着いてしまうスーパーではなく、丘を越えた隣の町のスーパーまで歩いて行くことにしている。何ゆえそのようなことをしているのかと言えば、一つには運動不足の解消である。そして、もう一つは週の五日間通勤途中に見る風景に多少でも変化をつけるためである。隣町へ歩いてゆく途中には、オベリスクのように貯水塔が建っている。この塔は、当然のことながら遠くからでも見える。私は、この塔の存在が気になって仕方がない。

 どこかの貯水塔では、鼠が沈んでいたこともあった、と言う話は、その水を飲むものがいることを考えるとぞっとする。タンクが錆びたり、塗料が剥げ落ちたするのは、日常的なことではないのだろうか。

 昔、水道が普及していない地域では、掘抜き井戸があった。そして、井戸にはいろんなものが落下した。野良猫が転落したり、鶏の雛が落下したり。言うまでもなく、井戸の近くを歩く昆虫や風の日に飛来する埃や塵はその中に落ちる。私が子供のころ、蝉を捕まえて遊んでいて、井戸の側へ行ったとき、手を離した瞬間、蝉が飛び、何を間違ったか、方向感覚を失い、井戸の底へじじじじじ・・と鳴きながら吸い込まれていった。その井戸水を私たちは飲んでいたのだが、別段病気もしなかった。

 消防団の火の見櫓に登ったことがあるが、あの程度の高さのものでも、小学生の頃脚が竦み、どうしても半鐘のぶら下がっている上までは行くことができなかった。兄は、平気で登って、半鐘に触って来たりしていたのだが。

 馬鹿と煙は高いところが好き、と言う表現がある。猫も高所好きである。私の友人に、勿論人間である、高いところが得意で、おらぁちっとも怖くねぇ、なんぞと言っている画家もいる。馬鹿と煙は高けぇところがお好きなのよ、俺みてぇに、と彼が自分で言いながら、五メートル以上ある天井の梁を平気で歩いてみせた時に、なるほど思った。実際に目の前である現象が起きると、それがただの諺、表現であることをやめて、血の通った現象、表現になるのである。無痛症という病気があるが、転ぼうが、ぶつかろうが、骨が折れていようが、血が滴っていようが、本人は痛みを感じないので、常人では考えられないことを平然とやってしまう。これは極端な例であるが、それにちかい鈍感さは、日常どこででも見かける。

 さんざん周囲から仕事の仕方、行動、口のきき方などについて嫌味を言われていても、すべて他人事と捉えてしまう、鈍感な人間は多い。いくら数学や物理の授業で公式をならっても、いざ問題を解かせられるとちっとも解けない。なんとなれば、その公式を音声として、画像として、或いは文字としてしか捉えていないからである。公式の意味を捉えていないからである。公式を導き出した天才達の喜びを共有できていないからである。ここが頭のいい人間と、それ以外の一般的な頭の持ち主との大きな差が生じる点なのである。そも、人間が自分自身の問題として、物事を考えるためには、必要条件がある。興味があるか、必要であるか、必要と感じさせられているか。

 今日は、当初、「貯水塔」と言う短編小説を書くつもりだったのだが、いつのまにか随想になってしまった。また、改めて小説として書くことになるかもしれない。あぁ、もう買い物に行かねばならない時刻だ。 

 


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