蝶の幼虫 [日記・雑感]
今年から、我が家では、家内がナス、つるむらさき、ミニトマトなどをベランダで作るようになった。初年度なので、なかなかうまくゆかないものもあるが、育てる事が面倒でありながら楽しいようで、その世話をしている姿が私は好きだ。ナスは三個はちゃんと生り食べられたが、やたらに小さいものもできてしまったのも愛嬌である。ミニトマトなどは、今でも緑色のものが生っているが、あれは完熟しなそうだ。ツルムラサキも茹でたり、味噌汁に入れて食べたり、我が家で採ったものは好いものだと改めて思う。
三日ほど前のことだが、トマトの葉に青虫が一匹いた。彼女はそれを見つけると、葉っぱごと家の中に持って来て青ちゃんと呼んで可愛がっている。青虫なので青ちゃん。キャベツの葉を追加で入れると、二センチほどの大きさだったものがどんどん葉を食べ、黒い糞を落としながら、みるみる大きくなり三センチほどになった。
翌日、室内よりも日光に当てた方が好いだろうと言って、青ちゃんをいれた透明なプラスチック容器をベランダに置いておいたら姿が見えなくなってしまった。小鳥に食べられてしまった、と言って大いにしょげている。がっかりしつつも、土いじりなどをしていたら、青ちゃんが野菜の茎にいた。喜んで捕まえて、今度は脱走しないようにと、容器に蓋をした。青ちゃんは元気がない。動かない。どうも様子が変だ。蛹になるようだった。脱走したのも、蛹になるために、安全な場所を探していたようだ。
容器に蓋があって出られないので、青ちゃんは観念し、蛹になる準備を始めた。その様子を、彼女はスマホで撮影した。便利な世の中になったものだと、つくづく思う。
青ちゃんをみつけるよりも数日前に、庭を歩いていた黄緑色の大きめ幼虫は恐らくスズメガのようだったので、家内はすずちゃんと呼んでいたが、そちらはとっくに姿が見えなくなってしまっていた。
彼女に刺激を受けたので、今後は、特にスミレを食べにくるアサキマダラの幼虫を見つけたら、同様にして私も観察したいと思っている。散歩の途中ルリタテハの幼虫を見つけたこともあるが、下手にご同行頂いて死んでしまっても困るので、放置しておいても問題のなさそうなものだけにしておこうと思う。
写真は、家内が撮影した青ちゃん。
三日ほど前のことだが、トマトの葉に青虫が一匹いた。彼女はそれを見つけると、葉っぱごと家の中に持って来て青ちゃんと呼んで可愛がっている。青虫なので青ちゃん。キャベツの葉を追加で入れると、二センチほどの大きさだったものがどんどん葉を食べ、黒い糞を落としながら、みるみる大きくなり三センチほどになった。
翌日、室内よりも日光に当てた方が好いだろうと言って、青ちゃんをいれた透明なプラスチック容器をベランダに置いておいたら姿が見えなくなってしまった。小鳥に食べられてしまった、と言って大いにしょげている。がっかりしつつも、土いじりなどをしていたら、青ちゃんが野菜の茎にいた。喜んで捕まえて、今度は脱走しないようにと、容器に蓋をした。青ちゃんは元気がない。動かない。どうも様子が変だ。蛹になるようだった。脱走したのも、蛹になるために、安全な場所を探していたようだ。
容器に蓋があって出られないので、青ちゃんは観念し、蛹になる準備を始めた。その様子を、彼女はスマホで撮影した。便利な世の中になったものだと、つくづく思う。
青ちゃんをみつけるよりも数日前に、庭を歩いていた黄緑色の大きめ幼虫は恐らくスズメガのようだったので、家内はすずちゃんと呼んでいたが、そちらはとっくに姿が見えなくなってしまっていた。
彼女に刺激を受けたので、今後は、特にスミレを食べにくるアサキマダラの幼虫を見つけたら、同様にして私も観察したいと思っている。散歩の途中ルリタテハの幼虫を見つけたこともあるが、下手にご同行頂いて死んでしまっても困るので、放置しておいても問題のなさそうなものだけにしておこうと思う。
写真は、家内が撮影した青ちゃん。
宮沢賢治作品に基づく映像作品その6『注文の多い料理店』 [youtube]
一旦仮に作り終えていた作品が、本日やっと完成した。カットの撮り直し、間の調整、色の調整、背景画の差し替え、描き直し、紙人形の追加作成等々、気になった部分を直すためにあれこれ作業があった。毎回感じることだが、実際にやってみることで、頭で想像していたことが、その通りに行かないことがしばしばあり、それを解決するためにあれこれ考える、この作業が非常に有意義だ。必ず次回作品には同じ轍を踏まないで済むし、より良いものが作れるからだ。
次の作品はオペレッタ『かしはばやしの夜』を予定しているが、変わるかもしれない。それと、昨日『フランドン農学校の豚』の話を家内としていたら、そいういう賢治作品としてはあまり有名ではない作品を作るのもいいのではないか、と言われ、それも一案だと思う。
次の作品はオペレッタ『かしはばやしの夜』を予定しているが、変わるかもしれない。それと、昨日『フランドン農学校の豚』の話を家内としていたら、そいういう賢治作品としてはあまり有名ではない作品を作るのもいいのではないか、と言われ、それも一案だと思う。
『注文の多い料理店』途中経過 [日記・雑感]
『セロ弾きのゴーシュ』完成後、すぐに『注文の多い料理店』に取り掛かり、今月21日には一旦完成した。しかし、どうしても気に入らない何かがあるので、それを改善できるように寝かせてある。紙人形による表現に限界、壁を感じているのかもしれないが、これを越えなければ、その程度の作品になって終わってしまう。今回はショット、場面に合わせて、今までに比べて遥かに多くの紙人形を作っているのに、それでも何かが不足している。
気分転換に次の作品について、考え始めた。音楽は完成し、シナリオは終わっているが、絵コンテができていない『かしはばやしの夜』。賢治について少々調べていたら、上京した際に浅草オペラを見ており、賢治が準ペラゴロであったことが分かった。確かに『かしはばやしの夜』はオペレッタ風で、大正後期昭和初期の時代、空気を感じさせる。私が20代の頃最初に賢治作品でオペレッタを書こうと思ったのはこの作品だった。当時は、書くことはなく、後日曲集として書いたけれど。
※張り付けた絵は、絵コンテの表紙。
宮沢賢治作品に基づく映像作品その5 『セロ弾きのゴーシュ』 [youtube]
絵コンテを描き上げてから、早一月半。やっと、『セロ弾きのゴーシュ』を完成し、Youtubeにアップロードした。今回は、何か所か、一旦作った画像や映像を撮り直したり、紙人形や背景画を描き直したりした。音楽も足りなかったり、紙人形や場面とと合っていないと感じ、書き足したり書き直したり。紙人形で制作するという方法は、続行することになると思うが、今行っている紙人形と背景画、舞台装置では不足している点がいくつかある。それを一つずつ改良、工夫してより良いものを作りたい。
次回の宮沢賢治作品は、迷った結果『注文の多い料理店』にしようと考えている。
次回の宮沢賢治作品は、迷った結果『注文の多い料理店』にしようと考えている。
『セロ弾きのゴーシュ』絵コンテ完了 [日記・雑感]
YouTube『開かれなかった三人展』 [youtube]
昨年には制作を開始し、何度も中断し、再開し、書き直していた作品『開かれなかった三人展』を完成。この作品の基となっているのは、26年前の体験。
今は奥多摩でペン画家としてペン画を描いて、カルチャースクールで講師をしているモロさんが、30年以上前に新しい世界に踏み出そうとして描き始めた絵が数十枚あった。雅号は「伽童」であった。お伽の世界を羽搏きしながら遊ぶ童子、と言う意味を込められていたと思う。私はその絵がとても好きで、その多くを写真に撮った。それを詩人のN氏に見せた所、ピンボケ写真ばかりだったが、彼もいたく気に入り、早速詩を一枚ずつの絵に書いてくれた。この二つに、私が音楽を書いたり、モビールなどを作って三人展をするのはどうか、と私は考えた。そして、三人展の為に、いくつかの画廊を訪れた。が、オーナーの一人の対応にモロさんは立腹してしまい、計画は中止となった。その後も、詩人のN氏とは、永山の公園を散歩しながら、野外展覧会、移動展覧会もいいね、と話し合ったり、公園の管理をしている市の担当部署に電話してみたりしたが、結果的に実現には至らなかった。
あの時のことが、私はどうしても忘れられず、何とかして形にしたいと思っていた。そして、昨年その制作に取り掛かった。が、N氏とは連絡が取れなくなっているので、N氏の詩を使うことはできない。そこで、もともと添えられているモロさんの言葉を、詩として使用した。
伽童と言う雅号を入れてある絵は、すべてモロさんの作品。
それ以外の、背景画、紙人形、音楽はアヨアン作成。
現在のモロさんの活動は、下記のページでご覧いただけます。
https://ameblo.jp/comma13/
今は奥多摩でペン画家としてペン画を描いて、カルチャースクールで講師をしているモロさんが、30年以上前に新しい世界に踏み出そうとして描き始めた絵が数十枚あった。雅号は「伽童」であった。お伽の世界を羽搏きしながら遊ぶ童子、と言う意味を込められていたと思う。私はその絵がとても好きで、その多くを写真に撮った。それを詩人のN氏に見せた所、ピンボケ写真ばかりだったが、彼もいたく気に入り、早速詩を一枚ずつの絵に書いてくれた。この二つに、私が音楽を書いたり、モビールなどを作って三人展をするのはどうか、と私は考えた。そして、三人展の為に、いくつかの画廊を訪れた。が、オーナーの一人の対応にモロさんは立腹してしまい、計画は中止となった。その後も、詩人のN氏とは、永山の公園を散歩しながら、野外展覧会、移動展覧会もいいね、と話し合ったり、公園の管理をしている市の担当部署に電話してみたりしたが、結果的に実現には至らなかった。
あの時のことが、私はどうしても忘れられず、何とかして形にしたいと思っていた。そして、昨年その制作に取り掛かった。が、N氏とは連絡が取れなくなっているので、N氏の詩を使うことはできない。そこで、もともと添えられているモロさんの言葉を、詩として使用した。
伽童と言う雅号を入れてある絵は、すべてモロさんの作品。
それ以外の、背景画、紙人形、音楽はアヨアン作成。
現在のモロさんの活動は、下記のページでご覧いただけます。
https://ameblo.jp/comma13/
『セロ弾きのゴーシュ』より『印度の虎狩り』 [youtube]
このところ、『かしはばやしの夜』の曲を書いていて、昨日、20年前に書いておいた「柏の木大王の登場」(短縮版)もWAVEデータ化した。次は、台本を録音し、美術を作り、編集する作業。
並行して書いていた『セロ弾きのゴーシュ』のための幾つかの曲。昨日は、『柏の木大王の登場』が大体思い描いたような音になったので、ついでに『印度の虎狩り』を書き上げ、WAVEデータ化した。3分ほどのチェロの独奏曲だが、映像化の際には背景音楽として使うかもしれない。
今日は子狸とゴーシュの姿を想像しながら『愉快な馬車屋』を書き直しつつある。後は、冒頭の第六交響曲の練習風景、『郭公の音程練習』『子鼠のためのラプソディ』の三曲を書かなければ。それと、可愛い『三毛猫』にも書いておかねば。子鼠のためのラプソディは書いてあるが、新たに書き直す予定。
今年の桜 [youtube]
このところ、三つの宮沢賢治作品の映像用台本を書いた。賢治以外にも、最も大切と思っている作品の台本も書き直した。書いたのは『かしはばやしの夜』『グスコーブドリの伝記』『セロ弾きのゴーシュ』である。台本を書いていると、映像化するためには、どの部分をどのように表現するか、頭の中で可能性を探ることができ、制作予定がより具体的になって、意欲もわいてくる。
『かしはばやしの夜』は、20年以上前に、曲は殆ど書き終わっているが、今回は書いていなかったいくつかを二曲とりあえず書いた。『うこんシャッポのカンカラカンのカン』(ファンファーレのようなもの)『かしはたちの歌』。以前に書いたいくつかの曲を使わない可能性もある。
『かしはばやしの夜』はオペレッタのような作品なので、歌わなければならい曲が多い。そこで、録音しようと、昨日XGWorksで、再生ボタンを押したところ、雑音が酷いので、接触不良かとジャックを抜いたり差したりした。何と言うことか、音が出て来なくなってしまった。マニュアル通りに改めて繋ぎ直すが、音は出ないまま。音が出ないのが、音源としているYAMAHAのMU2000で、もう一つのVienna Instruments SEやMP3はXGWorksの画面で問題なく音が出る。一日あれこれやるが、直らない。今日も、直らない。暫く、放置し、落ち着いて挑戦してみようと思う。
そればかりか、昨日は最悪の日で、録音で使用しているTEACのTASCAM DR-2dにエラーメッセージ「system error 50」が出る。ネットで解決方法を調べた後、TEACの修理センターに電話。ネットに書いてあった通りで、SDカードの交換が必要らしい。それで使えない場合は、修理部品がこの機種ではないので、修理は対応していないとのこと。
今日は、真冬のような冷たい雨の寒い日で、気分まですっかり冷え込んでしまった。
それでも、土曜日に近所の桜を撮影して来たので、それをYoutubeにすることにした。XGWorksでMU2000の音源で一昨日書いておいた曲を、それでは音が鳴らないのでVienna instrumentsSEの楽器を割り当てて背景音とした。この曲は、お気楽で明るいので、別の作品で使用することになるかもしれない。
幻灯機
作業はいつも通り同時進行。宮沢賢治『雪渡り』を作ろうと思っていて、他の作業を毎日していたら、もう三月。季節外れなので、後にしようと思い始めている。
とはいいつつ、幻灯機が気になって少々調べていたら、その歴史も多少知ることが出来た。日本に最初に幻灯機が紹介されたのは18世紀。「影絵眼鏡」なるものがあった。19世紀には「ギヤマン鏡」という見世物。それが寄席に取り入れ「写し絵」とし、演目の一つとされた。幻灯機は明治時代になって普及し、明治20年代には幻灯ブーム、各地で幻灯会、学校では視聴覚教材としても使われた、と言う説明があった。
これで『雪り渡』の狐の幻灯会の背景が少し分かった気がする。オリンパスではティッシュボックスを使った幻灯機の作り方を紹介しているので、早速作ってみたが、有り合わせの材料だったこともあり、上手くできなかった。後日、少し時間を掛けて丁寧に作ってみようと思っている。
とはいいつつ、幻灯機が気になって少々調べていたら、その歴史も多少知ることが出来た。日本に最初に幻灯機が紹介されたのは18世紀。「影絵眼鏡」なるものがあった。19世紀には「ギヤマン鏡」という見世物。それが寄席に取り入れ「写し絵」とし、演目の一つとされた。幻灯機は明治時代になって普及し、明治20年代には幻灯ブーム、各地で幻灯会、学校では視聴覚教材としても使われた、と言う説明があった。
これで『雪り渡』の狐の幻灯会の背景が少し分かった気がする。オリンパスではティッシュボックスを使った幻灯機の作り方を紹介しているので、早速作ってみたが、有り合わせの材料だったこともあり、上手くできなかった。後日、少し時間を掛けて丁寧に作ってみようと思っている。