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ドキュメンタリー映画『福島は語る』を観る [日記・雑感]

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 今日は、新宿のK's cinemaで明日まで上映されている土井敏邦監督のドキュメンタリー『福島は語る』を観てきた。14人の人々がそれぞれ別々の経験、現状を語る。原発の爆発による放射能のために、人生設計が狂わされてしまった皆さんの赤裸々な気持ちを知ることができた。たまたま自分は、直接影響を受けることのない場所にいるが、もし近所にホットスポットがあって退避、非難を余儀なくされたらと考えてみるが、それは仮定にすぎない、甘すぎる、そう強く感じた。
 農業を営んでいた人が、高濃度で汚染された土壌での農業ができなくなれば、生きてゆくことはできない。生徒のいない学校で先生であることはできない。生活の手段を奪われた時、どうすればよいのか。
 雨露を凌げる場所があり、空腹と喉の渇きを癒すことができ、寝て疲れを取ることができれば満足しなければならない、のでは決してない。仮設住宅での生活も、短期間であればやむを得ないので我慢する必要はあるかもしれないが。
、人は故郷や友達、先祖たちなどの思い出、人間関係、将来への展望などがあって生きるものである。それらを、自らが招いた原因でない原発の爆発によって奪われた時、何を希望として生きてゆくことができるのだろうか。この問いが、何度も何度も私の頭で繰り返される。
 12:20-15:20(途中10分休憩)2時間50分の長編であるが、一人ひとりの語りが重く、気付いたら終了時刻になっていた。見ながら、語られる内容に同意し、うんうん、そうだそうだ、と言う声が時々聞こえた。
 政府の対応は、沖縄の基地の問題、水俣のチッソの問題とも根本的に同じであると言う指摘もあったが、全くそうだと思う。3月3日放送の『こころの時代~宗教・人生~「終わりなき“平和への巡礼”」』で日本聖公会の植松主教が「許し」「謝罪」と言うものは言葉で、文書で、条約で取り交わしたら終わりと言うものではなく、永遠に続くものだという主旨のことを述べていた。私は、その考え方に全面的に同感で、謝罪は相手が気が済むまで継続しなければならないと思っている。一度謝ったからもういいじゃないか、何度も言うのはシツコイ、と言って居直ってよいものでは絶対にない。居直る人間は同じ過ちを繰り返す。謝罪を継続的な意味で捉えている人間は、何が間違っていたかをよく認識しているので、同様の過ちを繰り返すことはないだろう。謝り続けるということ、それは相手の言いたい放題に何でも応じるということではなく、自分が出来る範囲と言うことにはなるのだが。
 福島の被災者の方々の苦労は現在進行形であり、沖縄の基地問題も言うまでもない。現在進行形のものであるにも拘らず、耳にも目にも触れる機会が減ってしまって、多くの国民の記憶の彼方に退きつつあるのではないだろうか。しかし、決して風化させてはならない事柄なのである。問題に真剣に立ち向かい、それなりの解答を見つけ対処してゆかないと、同様の不幸が別の人々を襲うことになるからである。知恵のある人間は学習をし、将来に備えるのが普通である。私は普通でありたい。
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 K's cinemaでは明日3/15(金)まで上映。渋谷のユーロスペースでは朝10:30~13:35、3/22まで上映中。

 14人の方々について、しっかりと記憶しておく為に、パンフレットを購入してきた。
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