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吉江俊夫伯父の思い出 その3 [回想]

2010-5-16日曜日

吉江俊夫伯父の思い出 その3

 伯父のことは、それほど知っている訳ではないので多くを語ることができないのが残念である。そのため伯父に関係のある人々の話になってしまう。

伯父の妻の父親は正木不如丘(俊二)であったが、この人物が有名だったらしいと聞いていた私は、若者に特有の反発を覚え、敢てその人を知ろうとしなかった。従兄弟が不如丘の作品がテレビで放送されると言っていた時も、全く関心がなかった。そんなものどうでもいいではないか、と言う反応をしたのである。私と言う人間は、兎に角へそ曲りなのである。しかしながら、今回は葬儀の始まるのを待っている時に伯母と伯父の話を少しだけしていて、この品の良い伯母の父親に対して大いに興味を持つことになった。

早速私は、正木不如丘の作品を図書館から二冊借りてきた。一冊は『思はれ人(結核医の手記)』(一九五四年)、もう一冊は大衆文学体系10(田中貢太郎・正木不如丘)である。『思はれ人』は、医師として働きながら随筆を書いた俊夫伯父の『小河内日記』や『折りに摘む』に共通するものがあるだろうと思って借りた。後者は二段組で七百頁もある本だが、最初の六百頁は田中貢太郎の長編小説である。当然ながら最初の六百頁は全く読まなかった。不如丘の作品は5つ入っていたが、その内の『木賊の秋』『三十前』『行路難』の三作品を読んだ。興味を抱いた部分のみ書いておくことにする。

『思はれ人』には有名人では竹久夢二、呉清源、徳富蘆花のことが出てくる。富士見療養所に患者としてやってきた人々の思い出が先の二人である。竹下夢二はやはり病的なところのある人物だったようである。呉清源は藤沢九段と名勝負をした福建省出身の棋士である。調べていたら、この藤沢九段は藤沢庫之助(朋斎)(1919-1993)であり、二〇〇九年五月に亡くなった棋士藤沢秀行(1925-2009)の甥であることが分かった。昔は兄弟が多かったから、甥の方が自分よりも年上であることもある訳である。一九四〇年に結核で療養所にきた時の思い出が綴られている。徳富蘆花の主治医だったために、面白い挿話を紹介している。ベストセラーとなった『不如帰』はフジョキと蘆花家では呼ぶ慣わしになっていたそうである。

 「ふじよきはね、いやほととぎすか、あれは気に食わんので、ふじよき、つまり出直せの意味でうちではふじよきという事にしたんじゃ。」翁がこう云った時、夫人は心の底からうれしそうであった。(p163 

この結核医の手記は、作者の思い出が書かれているのであるが、当時の時代も描かれていて非常に興味深い作品であった。伯父の随筆集も同様に時代を反映しているので、それが面白い。

tokusa 2010-5-16 sunday.JPG『木賊の秋』は不如丘が富士見高原の療養所で芝居にして上演したこともある作品である。物語の初めに、これは悲しい物語である、と書かれているので、どんなに悲しい物語なのだろうかと読むのを躊躇った。しかし、読み進んでゆく内に、私は不如丘は生来楽観的な人間であると強く感じた。地主だった家が、小作にまでなってしまい、父は木賊を刈るのを怠った為に村を出てゆかざるを得なくなり、残された兄と妹が狭苦しい家に住んでやっとの生活をしている。兄は結核を患い、満足に野良仕事もできない。しかし、妹には良い婿さんが来そうである詩、最終的には明るいものを予感させる物語なのである。

『三十前』は不如丘流の『坊ちゃん』である。福島県での副院長をした経験を元に書いているようであり、いろいろな事件が起こる。痛快である。しかし、である。痛快すぎるのである。不如丘は東京大学の医学部を優秀な成績で卒業したエリートだったためか、どうも物語の展開が上手くまとまり過ぎている観が否めない。

『行路難』も、『三十前』の続きのような、無手勝流の医師の話である。これも結構痛快である。これらの物語が書かれたのが一九二三年のことで、大正デモクラシーの時代でもあり、治安維持法の制定される前の日本の世相が見られる。米騒動やロシア革命の影響などである。

さて、不如丘の本はこの位にしておいて、伯父の話しに戻らねばならない。このような義父を持つことになれば、その影響を受けぬことはないであろう。富士見高原療養所の初代院長だった不如丘の病院で、最終的には副院長になった伯父は、噂によれば、千葉大学医学部で一、二番目の成績だったと聞いたことがある。伯父は鶏の癌の研究で博士号も取っており、大学に残ると言う話もあったそうである。が、生活の方が優先されて、富士見高原療養所に勤務したらしい、と母から聞いている。

伯父は絵も好きだったらしいのだが、画家の弟からあれこれと批評されてしまうので、俳句をもう一つの生甲斐にしたようである。俳号は十志である。

私は芭蕉の紀行文が好きであるが、それは文章の中に俳句が鏤められているところも、その大きな魅力である。伯父も随筆に俳句を入れておいてくれたらもっと楽しい作品になっただろうにと、少し惜しまれる。

 *身内の人々へのお願い。もし、伯父の情報について誤った事実があった場合には、直ぐにお知らせ下さい。
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コメント 8

SILENT

随筆に俳句が盛り込まれていたら 俳文となるのでしょうか
ここ一年俳句にはまってしまっています。
奥の細道も 俳文だそうですね
by SILENT (2010-05-17 09:17) 

sig

こんにちは。
お身内にそういう方がおられる場合は、あとの人たちがその人となりをなんとかまとめておきたいものですね。ご存知かもしれませんが、戦前・戦後における演劇・映画の製作者本田延三郎氏のお嬢さんが数年前に「父の贈り物」「母の贈り物」を著わし、その延長線上で丸山定夫とともに広島で被爆した「仲みどりをさがす旅」という著作を上梓されました。それぞれ大変な労作ですが、特に「父の贈り物」は身内のことながら日本の文化史を彩る人物として当時の日本の見事な演劇・映画史となっています。
by sig (2010-05-17 09:22) 

mimimomo

おはようございます^^
親戚に多才な方がいらっしゃると良いですね~ 家の家系には語るに値す人など居ないようです(__;

by mimimomo (2010-05-18 05:52) 

doudesyo

おはようございます。
何となく福島県にも関わりがありそうだったので、調べてみたら、1916年(大正5)福島市福島共立病院副研究所へ留学。と「富士見高原病院」(http://www.lcv.ne.jp/~kougen/institution/museum01.html)に初代院長を「初代院長 正木俊二 について」と出ていました。いま福島市には共立病院はありません。(いわき市にはあります)
こちらにゆかりの方だったんですね。^^;
by doudesyo (2010-05-18 06:14) 

青い鳥

正木不如丘(俊二)様のこと、私もネットで調べました。
信州のご出身だったのですね。
教育実習生として来ていた後の島木赤彦との出会いで俳句に目覚めたとか、
人との出会いは大切なものと改めて思いました。
アヨアン・イゴカー様の多方面にわたる芸術分野への挑戦は
やはり血筋なのでございましょうね。
by 青い鳥 (2010-05-19 11:04) 

アヨアン・イゴカー

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by アヨアン・イゴカー (2010-05-23 13:07) 

アヨアン・イゴカー

SILENT様
私は、寸鉄のような俳句が一旦好きになりましたが、好きでなくなりました。理由は、文字の制限がありすぎて、表現しきれない部分が多すぎると考えたからです。
しかしながら、俳文は大好きです。そして、俳文の中に鏤められている俳句は素晴らしいと思います。なんとなれば、その俳人の意図がよりよく分かるからです。

sig様
自分でも、最近は、自分が語り部のような気がしてきました。so-netの第二ブログで父方の祖父を紹介しようとして、途中になっています。それでも、私は続けなければならないかもしれないと感じています。

mimimomo様
私が子供の頃憧れていたのは、母方で画家の吉江新二伯父です。相変わらず、子供の時に受けた影響から自分は自由にはなれないのだろうと思います。

doudesyo様
私には直接の血のつながりはありませんが、親しみを覚える従兄弟の祖父だったと言うことで、正木不如丘が今回一挙に身近になった気がします。

青い鳥様
「思われ人」(結核医の手記)の中に、島木赤彦の思い出が語られています。
伯父や伯母に話を聞いていると、自分と共通するものを見出して、血なのか、と思うことがあります。私は芸術的傾向を母方から、発明の才能(何かを作りだす能力)は父方から受け継いだのだと思っています。
by アヨアン・イゴカー (2010-05-23 13:24) 

0fighter

5月16日付のブログ拝読。実は5月に103歳で他界した私の祖母の祖母
の実家が正木家で、祖母は正木不如休氏の「はとこ」にあたります。祖母の実家も正木家と同じ信州で、小さい時はよく遊んでいただいたようです。いつも「正木の俊さん」と懐かしげに話しておりました。ブログを拝読しなつかく思いメールいたしました。祖母の実家には芥川龍之介の本物の写真があったとのことでしたが、多分「正木の俊さん」から頂いたもではないでしょうか?ただ、残念なことに我が家にあるのは、正木氏から頂いたという「高原診療所」の本と祖母の祖母が正木家から来たこと証明する古い戸籍だけです。


by 0fighter (2010-07-25 17:36) 

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