吉江俊夫伯父の思い出 その2 [回想]
2010年3月22日(月)
吉江俊夫伯父の思い出 その2新二伯父と私は硝子戸の多い建物に入る。受付には俊夫伯父の長男、次男である従兄弟達がいた。長男のHさんと三男のAさんには数十年ぶりに会う。私がまだ中学生だった頃会って以来である。
待合室には会葬者たちが徐々に集まって来ていた。ここで私は俊夫伯父の妻である伯母に、Hさん同様に数十年ぶりでお会いした。すっかり背中が曲がって、小さくなってしまわれていた。私は近く寄って挨拶をした。私が伯父の随筆集「小河内日記」の一話を元に、「T爺さん」と言う台本を書いて、それを何とか形にしたいと考えていると言うと、「本人もきっと喜ぶことでございましょう。」と上品な細い美しい声で言う。私は、久々に美しい日本語を聞き、このような日ではあったが、なんだか矢鱈に嬉しくなった。この伯母は正木不如丘(まさきふじょきゅう1887~1962)と言う医者でもあり文筆活動もした人物の娘である。不如丘は八ヶ岳山麓の富士見高原療養所の所長を務めていたが、一九二三年に小説「三十年前」「木賊の秋」を発表している。彼の作品は数十年前に一度テレビでドラマ化されたことがあるのだが、長男Hさんが、自分の祖父が原作者だったので見ていた。Hさんは原作の方が面白いと言っていたが、私は当時興味がなかったので見ていない。この不如丘のいた富士見療養所は「高原のサナトリウム」と呼ばれ、結核患者の療養所として有名だったそうだ。一九三三年には横溝正史が、一九三五年には堀辰雄とその許婚矢野綾子が入院している。そして、戦後この高原の療養所で俊夫伯父も勤務し、副所長も務めた。
待合室で、新二伯父や長姉と話しているうちにあっという間に時間が経った。告別式が始まるので移動するようにと言う案内で、私達は場所を移る。
斎場の中心には俊夫伯父の遺影が設置してある。その周りには生花が沢山置かれている。これは普通なのだが、何某一同とか株式会社何某と書いた花輪は三基しかない。伯父は虚飾を嫌う人で、そのようなものは送らないで欲しいと言っていたそうである。そういうところも、日頃伯父を敬愛していた私にとっては好ましい話である。
式が始まる。何度か合掌と拝礼を求められる。それはよかったのだが、お経の一部を法主の後について唱えるように指示された時、短いものではあるが、どのような漢字を書くのか見当も付かない音もあったので、殆ど皆もごもご言うか黙って繰り返した振りをしたりしているようだった。焼香は初七日の分も行ったので、二回である。
喪主の挨拶で長男のHさんが話をした。どのような経過で亡くなったのかを説明してくれた。彼も医者なので、説明は淀みない。「亡くなってからその顔を見たら・・・」ここで彼は言葉を詰まらせ、ややあってから「笑顔でした。二十年も自分を苦しめてきた(間)脚の病気から開放されて。今では上の世界で歩き回って、大好きな俳句を読み始めていることでしょう。」
精進落ちの料理も頂いた。尤も食べるよりは久々に会った従兄弟たちとの会話が楽しく、時間はどんどん過ぎてしまう。私がこの俊夫伯父の作品で、映像作品を作りたいと思っていると言うと、伯父の次男であるNさんが、できた時は連絡して欲しいと言うので、私もすっかりいい気分になってしまう。私のブログのハンドル名を手帳に書いて破って渡す。
帰りはM叔母と一緒になった。従兄弟のTさんが、その娘さんとK伯母の乗る車で、M叔母と私を上諏訪駅まで送ってくれると言うのである。外では小雨が降り出していたので、これは実に有難かった。両親と兄夫婦と長姉はタクシーで上諏訪駅まで。
17:44上諏訪駅発の特急に乗る。上諏訪から立川まで、私はM叔母から俊夫伯父についていくつか話を聞く。正木不如丘のことは、母からも聞いていたが、今回叔母から再度聞いて人間関係がよりはっきりした。
ここで私は伯父の短い随筆を一つ紹介しておきたい。今回、この文章を打ちながら、親の心、若者の心理、空間、情景などが的確に描き出されていると思った。場面が目に浮かんでくるのである。
『随筆 小河内日記』より
母ごころ
高校生のころの食欲は、すさまじいものがある。夜ごと、十一時ごろになると、長男と次男が我が家の食堂に現れては、食べ物をあさる。このころの年代は、残飯に冷味噌汁をかけてかき込んでも、おいしいものだ。それでよいのだと、僕は思うのであるが、妻は放ってはおけないらしい。
今夜も、玉うどんと油揚げを、それとなく冷蔵庫に入れていた。
その時刻が来た。例のごとく食堂のドアが開いて、音をはばかりながらあさっている。鍋の音、ガスの音、しばしの静寂の後「うまい」などとささやき合っているのが、居間まで聞こえてくる。
そんな気配を背に感じつつ、家計簿をつけている妻である。
次男は、明日高校恒例の九〇キロ競歩に参加する。
妻は、先程から、長い道のりを歩いている間に、ナップザックの細い紐が肩に痛かろうと気を配って、紐に取り付ける肩当をあれこれ工夫している。
「こんなの、みっともなくて要らないよ」と、言われるに決まっている。そうわかっていて、布を裁ち、ミシンを踏んで、電灯の下であれこれ苦心しているのである。
秋に入って、蝶の採集に凝っている小学生の三男を連れて、妻と入笠山に登った。山小屋に荷を置いてやれやれと腰をおろした僕は、目の前に広がるキャンプ場の草原を指さして、さあ捕っておいでと三男を送り出してやった。
松虫草や吾亦紅の咲き競う花野を、三男が歩いて行く。捕虫網が秋の日に白く揺れて、時々それが草に沈む。
茶を運んで来た小屋の主人と話しながらふと見ると、少し離れた所に、妻も花野の人となっていた。子の動きにつれて、立ち止まり、歩き、我が子をおのが視野の中に、自由に花野を泳がせているのであった。
―――夏爐 昭和四四年・一一(富士見高原日記)
*写真は、伯父が医学部の学生時代のもの。襟章はMedicineのM。
(なかなか格好いい伯父貴でしょう!)
偶然ですが、今日、堀辰雄の「風立ちぬ」を思い出していました。
by nyankome (2010-03-22 22:27)
医学生らしい凛々しいお写真ですね
by 雉虎堂 (2010-03-23 07:23)
おはようございます^^
人の死や、法要など日頃顔を合わせることのない懐かしい人たちに出会う場を提供してくれますね。わたくしあ実家が九州なので、そういう不幸でもないと兄弟にも会うチャンスがありません。昔の故人の話などそういうチャンスでしか聞けないですね。
『母ごころ』本当に情景が手にとるように分かります。
by mimimomo (2010-03-23 09:33)
こんばんは。
医師であり、文才も豊かで、すばらしい伯父さんですね。
「随筆 小河内日記」にお人柄がしのばれます。
by sig (2010-03-23 23:45)
富士見高原の療養所といえば、堀辰雄の「風たちぬ」の舞台ですね。
名作ですね。感動した覚えがあります。
このあたりは、土地勘が少しあり(側をよく通る)、なつかしく
記事を拝見しました。
by yoku (2010-03-25 08:49)
立派な伯父さんですね★
ご冥福をお祈り致します★
by アマデウス (2010-03-25 09:09)
亡くなってからというのが何とも残念ですが、それでもこうして色々と話を聞かせて貰えるというのは、嬉しい事ですね。
私も、1人暮らしを始めてからは、全くの不義理で親戚にも会っていなくて、それこそ親の葬儀でもないと、一生会う機会も無いかも知れません。
こういう部分では、昔の家族制の方が羨ましく思えますね。
by SAKANAKANE (2010-03-27 23:24)
nyankome様、ひろきん様、さとふみ様、kurakichi様、mitu様、雉虎堂様、kaoru様、flutist様、mimimomo様、takemovies様、Chinchiko-Papa様、zenjimaru様、いっぷく様、rebecca様、まっちゃん様、もめてる様、えれあ様、アリスとテレス様、uminokodomo様、doudesyo様、optimist様、sig様、てんとうむし様、Mineosaurus様、くらま様、旅爺さん様、kakasisannpo様、SILENT様、shin様、リュカ様、兎座様、ハギマシコ様、schnitzer様、アマデウス様、U3様、yoku様、よっちゃん様、めりっさ様、ゆきねこ様、aranjues様、サチ様、PENGUING様、SAKANAKANE様、toraneko-tora様、うに様、チョコシナモン様
皆様 nice有難うございます。
by アヨアン・イゴカー (2010-03-29 00:22)
nyankome様
堀辰雄「風たちぬ」、綺麗な文章ですね。学生の頃読んで、惹かれました。
雉虎堂様
有難うございます。
年をとってからも、立派な顔でしたよ。勿論、身内の欲目ですが・・
mimimomo様
従兄弟達とも、こんな機会でない時に会いたいものだと、こういう機会があると話しています。何と言うことでしょう。
「母ごころ」読み直してみて、心理が簡潔によくかけていると私は感じましたので、mimimomoさんにもそう仰って頂くと嬉いです!
sig様
この随筆を読んで思ったのは、やはり多くの人間と接していると、人間の深みが増すと言うことでした。一人ひとりが個別の人生を生きているわけですが、その人生を一つでも多く知っていることで、物の見方に重みが出る、とでも言えばよいのでしょうか。
yoku様
確かyokuさんは、以前の記事によると、信州で蕎麦を栽培しておいででしたね。
堀辰雄は、あの詩的な感性に微妙に影響を受けております。
アマデウス様
有難うございます。
伯父のことは、もう少しだけ書いて置きたいと思っています。
SAKANAKANE様
我が家は、まるで昔の家族のように、両親や兄や姉が直ぐ近くに住んでいます。精神的には、とてもよいと思っています。
西洋文明的な核家族は、個を重視しすぎる為に、集団の中で安心していたいと言う人間のもう一つの感情を抑圧してしまっているかもしれません。
by アヨアン・イゴカー (2010-03-29 00:40)
共通名詞がたくさん出てきて驚きました。
西永福、下諏訪駅、諏訪湖などなど。
西永福には住んでおりましたし、配偶者は医師でしたし、
下諏訪には彼の母の実家がありました。
正木不如丘というお名前も存じておりますが、伯母様が
その方のお嬢様だったとは!
富士見高原療養所が舞台の「月よりの使者」という映画が
あったそうで、そちらの原作者は久米正雄になってますね。
by 唐糸 (2010-03-31 14:11)
ナカムラ様、野うさぎ様、唐糸様、ミモザ様 nice有難うございます。
唐糸様
正木不如丘をご存知でしたか、驚きました。
久米正雄と言えば「受験生の手記」を大学生時代に読んだことがあるきりです。今年二月に、経堂にある古本屋で「学生時代」と言う文庫を買ってきました。
by アヨアン・イゴカー (2010-04-02 23:39)
はじめまして。
吉江俊夫様が亡くなる前の数ヶ月間、お世話をさせていただいた者です。
突然の知らせに唯々驚き、お通夜と葬儀でも事態が掌握しきれずにおりました。
吉江様が私の前からいなくなり気持ちの整理がつかない毎日ですが、いつもベッドサイドで詠まれていた様な俳句を自分も詠める様になりたいと、俳句を学び始めました。+
吉江様の作品の映像化、是非拝見したいと思います。
完成の折には教えていただけたら幸いです。
by 悠実 (2010-04-04 22:58)
悠実様
初めまして。伯父の世話をして頂いていたのですね。有難うございます。
亡くなる数ヶ月前に電話を掛けて話した時は、元気そうだったので、私も驚きました。
「T爺さん」の映像化、何とかしたいものです。
シナリオをまずはこのブログに発表しようかと考えたりしております。
by アヨアン・イゴカー (2010-04-04 23:27)