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個性的であろうとすることと没個性 その2 [変化]

 個性ということを考えていたら、個性とは何かについて定義をしていないことに気付く。今更ながら、岩波国語辞典と岩波小事典『哲学』を引用してみる。「個性:①他の人とちがった、その人特有の性質・性格。個人の特性。②個体に特有の性質。」(国語辞典)「個体について、そのありかたが特殊・独自であることの性質をいう。中世の唯名論のあとをうけるルネサンス自然哲学、またライプニッツのモナド論でのこれの強調は地上的・感覚的事物の思想的是認から科学的把握への道をひらき、ロックでは時間・空間が<個性の原理>とされた。個性の主張は普遍性への背反をふくむが、背かれるのは老朽した普遍性であって、じつはそこに同時に新しい普遍性開発の努力があった。このことは近代形成期の政治・教育・宗教諸思想(マキャベリ、ルター、ルソー)の(人間)個性の主張にもみられる。19世紀半ばからは市民社会の老朽現象(人間の類型化、マス化)にともなう個性の喪失が問題にされる。」(小事典「哲学」1976年第一版19刷)
 そして、思い当たったのは、個性も単に個体だけに使われるものではないと言うことである。つまり、集団にも個性がある。小さい集団では、まず家族、一族、そして村、都市、更に地方、国、文化圏へと広がってゆく。家族には遺伝子を共有する個体の小さな集団が出来、家族としての特性が形成される。それは別の言葉では文化とも呼ぶことができる。個人の個性とは、個人に於ける特有の文化である、とも言える。
 次に考えなければならないのは、個性にも強弱があると言うことである。私はこれを振り子の振幅で喩えることにする。振幅の大きい個性が、より個性的、灰汁が強い、我が強いなどと評される。鼻持ちのならない人間、誰もが崇拝して信者になってしまうほどのカリスマ性を持った人間もいれば、他方、謙虚さゆえ、或いは自信のなさゆえ、その存在があまり目に付かない人間もいる。地方、国の文化に置いてもこれはあてはまる。
 先々週に「生物史から、自然の摂理を読み解く」ブログ記事で面白いものがあった。MASAMUNEさんと言う方が書いている。リツォラッティらの発見したミラー・ニューロンと模倣との関係について言及した後、次のように締めくくっている。
 <現代では「ヒトの真似はイヤだ!」なんていう方もいますが、それは間違い!
  ヒトの進化の過程から考えてみると、真似をいっぱいして、充足+進化していくのが本来のヒトの生き方だと言えますね>
 
*ちなみに、wikipediaのミラー・ニューロンの説明のなかで、ミラー・ニューロンの不全と自閉症との関連性の可能性について言及されている。自閉症の子供は、他者を模倣することができない。認識⇒理解⇒模倣という過程がないようである。
 
 個性を語る上で、法隆寺の棟梁、西岡常一さんの話は是非書いておきたい。「『木は生育の方位のままに使え』と言うのがあります。山の南側の木は細いが強い、北側の木は太いけれども柔らかい、陰で育った木は弱いというように、生育の場所によて木にも性質があるんですな。山で木を見ながら、これはこういう木やからあそこに使おう、これは右に捻じれているから左捻じれのあの木と組み合わせたらいい、というようなことを見わけるんですな。これは棟梁の大事な仕事でした。・・・・製材の技術は大変に進歩しています。捻じれた木でもまっすぐに挽いてしまうことができます。・・・木の癖を隠して製材してしまいますから、見わけるのによっぽど力が必要ですわ。」(『木のいのち木のこころ』新潮文庫pp20-21)「(弟子は)自分で考えて習得していくんです。それを生徒がやっと考え出したときに『何やっとるねん、早ようせい。愚図やな』、『そんなときはこうや』、こういって先生や親は考える芽を摘み取ってしまうんですな。」(同上p75)「人はみんな個性があって、それぞれ違いますのや。・・・教育といいましたら、本当は個性を伸ばしてやることと違いますか。・・・」(p83)
 そしてローレンツからの引用。「青年が伝統に疑いを抱くのは当然のことなのです。・・・けれど、一つの文化というものは、新しい情報の獲得と知識の保存という二つのメカニズムの平衡の上に成り立っています。この二つはともに必要です。伝統は知識を保存するメカニズムなのです。」(『文明化した人間の八つの大罪』p126)
 
 私のとりあえず辿りついた結論はこうである。生物はそもそも細胞分裂して、その個体を増やしてきたことを考えれば、同一種のものは他の種からみれば、限りなく個性がなく同じように一見みえる。しかしながら、いかなる、たった一つの個体でも、その個体の発生した遺伝的環境、生活環境によって、個性を持たずにいることはできない。これは広義の個性である。しかしながら、この個性には振幅があり、平均値からすると大きく逸脱しているものがあり、それをより狭義の個性と呼ぶ。この個性には好い物も好ましくないものもある。
 「個性を重視する教育」「個性を重視する社会」自体は悪いことではない。大いに推奨すべきである。しかし、上記の狭義の個性のない者に、それを期待したり養成しようとすることは誤りだと思う。狭義の個性は、なるべくしてなるのである。放置しておいても、自然発生するものなのである。自然発生しないものはその個性がない、ということである。政治的、経済的、心理的な抑圧のために、自然発生している個性が開花できない例は、枚挙に暇がないことは分かっているが。貧困ゆえに、或いは戦争ゆえに、本来は花開くべき才能が、インドやアフリカやアンデスの寒村で、一度も機会を与えられずに死んでしまっているだろう。
 
 <個性の主張は普遍性への背反をふくむが、背かれるのは老朽した普遍性であって、じつはそこに同時に新しい普遍性開発の努力があった。>上記の小事典に書かれていることについて少し考えを述べてみたい。これは芸術を例に考えれば納得のゆくことある。バロック音楽があり、モーツアルトが登場し、新たな音楽を書き始める。今までの音楽の作り上げてきた普遍性、論理とは異なる、新たな作曲方法で書き始める。続いてベートーベンが登場し、同じく過去の音楽を取り入れつつ、一部破壊してゆく。これは新たな偉大な個性がいかにして新たな普遍性を開発してゆくかの例である。モーツアルトもベートーベンも、否、芸術家は誰も普遍性などということを考えて創作するのではない。自分の好きないように書いているだけである。学問もそうだと思う。ダーウィンだって、自分の好きなことをやっていて、偉大な進化論に行き着いたのである。
 個性とはそもそも内発的なものであるから、外から引き出すことはできないのだと思う。助長という言葉のように、苗の生育を早めようとして穂先を引っ張り出したら、苗は枯れてしまうことになる。ヒントや助言を与えることはできても、育つのは個性を持った個体である。他者のために食べることも眠ることもできないのと同じ理屈である。
 そして、ヒントや助言を与えるのが教育である、知識の基礎を作り上げるのも勿論重要な教育の要素であるが。狭義にしろ広義にしろ、個性は尊重されなければならない。しかし、それは既に述べたように外から手を貸して作られる物ではない。他者によって作られた時点で、個性が消滅、消えてしまう。
 恐ろしいことは、いつの間にか進入している、グローバリズムによって均一化された文化が、地域独特の個性的な文化を飲み込んで、いつしか破壊してしまうことである。既に、日本中似たような景色が広がってしまっている。商店街を撮った写真だけで、その都市を当てることは難しい。外来魚たちが日本の湖沼や河川の生態系を狂わせているように、均一化が進行している。「青年が伝統に疑問を抱くことは当然のことなのです。」(K.L.)自分達の文化・伝統に疑問を抱くのは、新たな個性を持った青年たちの特徴である。しかし、それが商業主義によって冒された広告によって左右されるものであったりした場合には、問題は深刻である。「伝統は知識を保存するメカニズム」(K.L.)だからであり、伝統という依拠すべきものがなければ、新たなる普遍性は画餅にすぎなくなってしまうからである。
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mimimomo

おはようございます^^
確かに個性は自分で作り出していくものだと思います。今の日本の状況は
作り出す環境が与えられず、それは国事態が没個性かしているように思えるからです。例えば柔道・・・あるいは同じでない様子の人をシカトする《もっともこれは表面的なことですが》。
・・・中途半端なコメントですみませんね・・・これだけの記事に短いコメントで色々言い表すのは苦手です。
by mimimomo (2008-09-08 05:52) 

doudesyo

今晩は。
いろいろな視点から類推しすぎるとかえって意味がぼけてきませんか?あまり深く追求したことがなのでコメントには値しませんけど、個性と没個性の証明から始めるとなると大変だと感じます。
哲学的な論述?で個性を考えるのか、社会事象をこの個性で捉えようとしているのか、それとも別に意味が出てくるのか、大変面白い展開をしそうで楽しいです。日頃から真剣な態度で考えていらっしゃいますので頭が下がります。
法隆寺の棟梁西岡常一さんは、テレビや本で分かる程度ですが、とても共感できます。木組と人組の関係を深い洞察と経験からくる確かな計画力と発想で考察している理論にとても感心し感銘を受けたことを思い出しました。
すみません、いろいろと考えることが多すぎて、まとめることもできそうもありません。ここでコメントはやめておきます。
by doudesyo (2008-09-08 21:06) 

yoku

>個性とはそもそも内発的なものであるから、外から引き出すことはできないのだ

>ヒントや助言を与えるのが教育である

難しいテーマで私ごときには、理解不能ですが、持って生まれたその人
独特の性格は変えることは出来なくても、いち早くその個性を発見し
可能性を引き出すといったように、つまり教育の原理だと思いますが
如何でしょう。

by yoku (2008-09-09 05:04) 

旅爺さん

人のブログを見ていると爺のブログは少し個性が強いような気がします。
by 旅爺さん (2008-09-10 06:41) 

にすけん

 最近、文化の個性という点で面白い現象が起こっていますね。

 グローバリズム意識の普及と通信機器の急速な発達により、様々な文化において原産地なりの個性が薄くなった感があります。
 ですが、こと携帯電話については日本は『ガラパゴス状態』と言われています。
 ゲームやくだらないメール機能など他国とのニーズの違いが大きくて、どんどん世界標準から外れた方向に進化してしまい、メーカーとしては国内外の仕様差が大き過ぎて、対応がつけづらいというのです。
 このグローバル時代、よりにもよって通信機器そのものでこんなことが起こるというのも興味深いではありませんか。
by にすけん (2008-09-10 10:34) 

アヨアン・イゴカー

お茶屋様、Krause様、僕もくま私もくま様、ミモザ様、olive様、moonrabbit様、夢空様、アリスとテレス様、xml_xsl様、mitu様、えれあ様 nice有難うございます。

mimimomo様
>国事態が没個性化
仰るとおりだと思います。伝統を重んじない文化は、自らが退化してゆきます。世界基準はそのまま、没個性の基準になる場合もあります。何を以って世界基準とするかを考えておかなければ。例えば、大学の評価などもそうでしょう。

doudesyo様
ここでは別段証明をしようと考えていたわけでもありません。興味のあること、共感したことなどを並べてみて、どのような方向に向かうのか、成り行きに任せてみました。
実は、縄張りと言う意識と個の関係、それに伴って変化する個性と言うものも考え始めている状況です。これはかなり広がりそうな問題です。

yoku様
大切なことは個性をつぶさないことだと思います。個性とは、別の言葉では、自己とは何かと言う大きな問題でもあります。汝自身を知れ、と言う言葉があっても、そんな大それたことは、一生掛けても、なかなか分かったと思えるものでもないと思います。人間は考え続ける葦であれば、それでいいのだと思います。

旅爺さん様
自覚されている通り、旅爺さんさんのブログは愉快です。個性的だと思います。その調子で面白い記事を、これからもお願いします!

にすけん様
>こと携帯電話については日本は『ガラパゴス状態』
知りませんでした。私は携帯電話を持ちませんので。もしも、日本人のニーズが他国民と異なり続けていれば、日本人の個性がゆるぎないと言う証拠になるでしょうが、実際はどうでしょうか。
私は個性と、隔離、孤独と言うものと関係があるのではないかと思います。「ガラパゴス状態」と言う表現を使われましたが、「ガラパゴス状態」を作り出すことで、文化の特異性、特異な個性がうまれるのではないかと思います。
他からの隔絶、孤立ということは、他者の持っている知識、文化の欠如であり、その欠如(即ち必要)があらたなる発想を強制的に生み出す原動力となります。情報や知識が満ち足りた世界では、人間は努力しなくなり、新たなものを生み出そうと言う意欲も低下してしまうのではないでしょうか。文化的な位置エネルギーの差、これは文化が個性をもつための重要な要素です。グローバリズムの発展は、そのまま文化的エントロピーを増大させることになるのかもしれません。
by アヨアン・イゴカー (2008-09-11 00:50) 

すうちい

ヒトの基準(平均値と行ってもいい)がないので、すべてのヒトは「他の人とちがった、その人特有の性質・性格」を持っているわけで、つまりすべてのヒトは個性“的”なのか?

いやそれは“個性”であって、“個性的”ではないわけですか?

「模倣」はおっしゃるように小児期の重要な作業ですよね。
その模倣から離れてオリジナリティを出せるようになると“個性的”と言われるようになるのかな。
うーむ、すると模倣で終わるヒトは“個性的”ではないわけですな。

マスメディアが「小泉」「大連立!」と叫ぶと一緒に「小泉」「大連立!」と叫ぶヒトが没個性なわけか。って、書きながら何となく納得してみました。^^
by すうちい (2008-09-11 10:44) 

春分

多様性と効率は相反する面があり、個性は社会の邪魔であったりします。
ただ、画一化が進めば変化に脆くなり、致命的となりかねませんね。
世界はそんなものなのだろうと思います。
だから個性の程度はバランスされなければならず、また個性の必要性や
いかなる個性が必要かは時代や社会構造の文脈に照らして語られないと
ならないと思います。
以上が、少し公的・客観的にまず書きたい意見かな。
個人的には、「個性とはそもそも内発的なものであるから」に賛同します。
自分の個性というものは(優れて違うのなら多少いいかもしれませんが)、
不愉快な現実かもしれません。それでも変えようもないことでしょう。
by 春分 (2008-09-13 20:15) 

春分

某所のブログ記事まるまるコピー事件の件。
模倣するその「個性」はどこから来るものか。狂気ではあるけれども。
by 春分 (2008-09-13 20:23) 

アヨアン・イゴカー

すうちい様
広義では、万人が個性的だと思います。そして、狭義の個性は、限られた数の個体のみが持っています。なぜなら、振幅の大きくずれている人々、個体だからです。
広義の個性を持った人は模倣だけで終わってしまいます。狭義の個性を持った人は、独創性があるのたと思います。
そして、付和雷同する人々は、没個性的ではありますが、雷同すると言う傾向性があるのではないでしょうか?雷同しない人間ばかりの集まりの中にいれば、雷同人間は新鮮に映ってしまうかもしれません。

春分様
誰でも、自分と言う人間の殻から逃避することができません。
常に自分自身との戦い、自分自身を如何に律することができるか、それがその人間の大きさを決めてしまうことになるのかもしれません。

某所のものを無断借用をした人物。Mockingbirdのようなものかもしれません。 他者との同一化を起してしまう、認識障害があるのかもしれません。自分の物と他者の物との区別がつかない、なんの悪意もなく使ってしまう、食べてしまう、そんな個性なのでしょう。
名前は忘れましたが、ピカソやセザンヌなど多くのの偽作を見事に作る日本人がいました。画商や研究者たちが、どんどん騙されて翻弄された、殆ど喜劇の材料になるような実際の話でした。この呆れるほどの模倣力、これは才能であります。しかし、誰も彼の作品を欲しいとは思わないでしょう。なんとなれば、彼には個性がないから。他の個性とは歴然と区別できるような彼自身の個性がないから。新しい価値観を作り出していないから。

あくまでも狭義ですが、偉大な個性とは、新しい価値観、価値の創造とも言い換えることができます。

by アヨアン・イゴカー (2008-09-13 22:40) 

アヨアン・イゴカー

青い鳥様 nice有難うございます。
by アヨアン・イゴカー (2008-09-14 00:11) 

SAKANAKANE

今回の記事で、やっとアヨアン・イゴカーさんの考えが、分かったような気がしました。そして、ほとんど同感に思っています。
by SAKANAKANE (2008-09-16 19:57) 

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