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北海道の思い出 - 追加 [回想]

 私は自分の生まれ故郷を何とか意識の中に留めておくために、『北海道の思い出』と言う百頁ほどの文章を書いた。最初は主に母から聞いた話を、次に多少本を読んだり、図書館で調べたりしたことを、そして事実関係を確認するために父から話を聞いたことをまとめた。まだ、不足していることは分かってはいるが、自分にとっての完全を期するために準備ばかりしていると、本来の目的を忘れたり、本来の目的を達成する前に記憶が薄れてしまうといけないので、一旦は本と言う形にすることに決めた。
 先ず最初に、父の考え、決断について書いておきたい。

 父は子供の教育、将来を考えて、十六年やってきた農業を止めることにした。理由としては、私の兄が農業嫌いだったことが考えられる。長男だった父は、当然のことながら自分の長男に農業を継がせようと思っていた。しかし、兄は発明家である祖父一郎の所へ遊びに行くと、自分も祖父のような発明家になりたい、と夢を語った。父にとっても、祖父のようになりたいと考える息子の気持ちを優先したくなったのかもしれない。
 十五ヘクタールあった農地、二頭の馬や造ったばかりの堆肥場、ガソリンで動く発動機、脱穀機など、すべて一切合財を売却して、一財産を作った。北海道から内地へ戻ることになった夏或いは秋に、我が家と隣の新家との間にあった落葉松の防風林が、ブルドーザーによって引き抜かれた。その山吹色の重機を見て、違和感を持ったのを覚えている。その力に感動するよりは、懐かしい景色を壊してゆく破壊力に馴染めなかったのではないかと思う。
 世田谷の祖父のところへやってきたのは、一九六〇年の十二月のことだった。出発の前夜は近所のお世話になった斉藤さんのお宅に一家で泊めてもらい、料理をご馳走になったと記憶しているのだが、正しいかどうか。北海道の十勝ではすっかり雪で覆われていたので、私たちは馬橇に乗って駅まで行った。芽室からはディーゼルカーで帯広へ行ったはずである。帯広からは蒸気機関車に引かれた汽車に乗って、函館へ。津軽海峡を青函連絡船で渡る。まる二日を掛けて私たちは上野駅までやってきた。
 上野駅からどうやって世田谷の祖父の家まで来たのかは私は覚えていない。

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いっぷく

そうとう悩んだ末の決断だったでしょうね、すべてを処分して生活の場も移動するのは容易な事ではないのは想像つきます。
まだ青函トンネルが無かった頃なんですね。
北海道での農業生活はあこがれる面もありますが、それは現実を知らないものが描く安易な想像でしかありません。
記録しておくのはあいまいな記憶を整理する事にもなりますね、
なかなか出来ない事です。
by いっぷく (2008-04-21 10:14) 

アヨアン・イゴカー

いっぷく様 そうとう悩んだ結果だったと思います。
終戦直後に北海道に渡ったので、未経験の農業は苦労の連続でしたが、父は世田谷から行った開拓団の中では、地元の農家の方々に助けて頂きながらそれなりの農家になったようです。
by アヨアン・イゴカー (2008-04-22 09:36) 

mistletoe

こんにちは。
いっぷくさんがおっしゃるようにお父様、相当なご決断だった事でしょう。
蒸気機関車に乗って二日かけて東京までいらっしゃったのですね。

北海道出身で今、療養中の叔母の事を思い出しました。



by mistletoe (2008-04-24 16:24) 

めぎ

心にずんときました。
by めぎ (2008-04-25 05:47) 

旅爺さん

古里の我が家が消えて行き、遠くの地に離れた想い出は消えないでしょう
今の地が自分の古里と思えるのは年月を要しますね。
by 旅爺さん (2008-04-25 09:37) 

すうちい

なじんだ景色が壊されていくのを見るのはつらいですね。私も2才からの長い時を過ごした家を10年前に壊して引っ越す時、つらかったです。“物”ではなく、“記憶”が壊されるんですよね。
by すうちい (2008-04-26 20:00) 

アヨアン・イゴカー

mistletoe様 父は当時35、6歳でした。転機が訪れる年頃なのでしょうか。急行を使わないと、丸2日掛かりました。急行料金は馬鹿にならない金額だったのだと思います。何しろ両親と子供4人ぶんですから。長姉は既に世田谷で数年前から生活を始めていました。

めぎ様 コメント有難うございます。

旅爺さん様 私はすでに川崎に暮らして45年以上になるのですが、生まれ故郷は永遠に忘れられないようです。特に、展望に乏しい川崎市政では環境も守られず、少しも愛着が湧きません。かといって、生まれ故郷の北海道は、すっかり大農法になって、畑になり跡形もないそうでう。

すういち様 北海道から引っ越してきたばかりの時は、北海道にいた時間の方が長かったので、まだ北海道滞在時間の方が長いと意識していたのですが、滞在時間が逆転してしまうと、だんだん意識からも離れてゆくようになりました。
by アヨアン・イゴカー (2008-04-27 12:29) 

miron

情景が目に浮かぶようでした。
落葉松の防風林が、ブルドーザーによって引き抜かれた。
という所が、特に心にしみました。北の大地で開拓を始められた苦労も大変なものだったのでしょうが、去っていく時は一段と辛かったのでしょうね。
by miron (2008-05-10 09:29) 

アヨアン・イゴカー

miron様 コメント有難うございます。
青春時代に経験したたものは、一生忘れることができません。この北海道での十六年間は、人生におけるたった十六年間ですが、人間性を大きく形成し、変形した星霜だったと思います。
by アヨアン・イゴカー (2008-05-11 08:18) 

春分

背景を理解していないのですが、東京の発明家の子供が北海道の農家で
あることの方が少し不思議な気が致します。それをかつてお書きになった
のですね、きっと。
by 春分 (2008-05-17 17:07) 

アヨアン・イゴカー

春分様 コメント有難うございます。事情を簡単にご説明します。
北海道へは終戦直後渡ったのです。戦時中に食料難を解消する為に、拓北開拓団と言う「満蒙開拓団」のようないい加減な組織が政府によって作られたのです。そのため、世田谷からも北海道へ開拓の夢を持って参加した人々もいました。銀行員、証券会社のサラリーマン、画家など、素人集団が、農業を始めようとしたものですから、その大半が失敗し、財産を失い、希望も失い、早々に内地へ引き上げてきたのです。両親は、しかしながら、16年間そこで耐え、それなりの評価を受けるまでになっていました。
今年こそは、この『北海道の思い出』を自費出版する予定です。
by アヨアン・イゴカー (2008-05-18 12:18) 

sig

こんばんは。
この記事を探し当てました。
アヨアン・イゴカーさんの、ある意味で根源的なものを築かれたこのお話は、ぜひ進めていただきたい気がします。
私のブログははっきり「自分史」をうたっていますので、生まれたときからのことを書きとめてきていますが、おそらくアヨアン・イゴカーさんのようなドラマチックなものではないと思います。
発明家の祖父さんのことを、もっと知りたいです。
by sig (2009-08-01 00:42) 

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