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劇団青麦座について [回想]

 私は、劇団木馬座を退職したあとも、自分は演劇を続けるつもりでいました。少なくとも、三十代になったら、作家として、活動したいと、漠然と考えていました。劇団を去ってから、私は海運ブローカーとして働き始めました。
 木馬座退職後、私はずっと姪っ子や甥っ子のために、人形劇を上演したいと思っていました。そして形になったのが、グリム童話の『ヘンゼルとグレーテル』だったのです。台本、人形の頭、大道具、小道具、衣装、舞台そのもの、照明、音響、必要なものをすべて作りました。勿論、兄弟や将来の妻の協力も不可欠でした。この芝居は、まあまあ好評だったと思います。この芝居の上演をしった未来の妻の従姉妹より、彼女の子供が通っている幼稚園で、この芝居を上演して欲しいとの要望がありました。義兄に協力してもらい、そのバンに舞台の道具一式を詰め込み、ある日曜日か土曜日か、公演に行きました。音の録音状況が悪かったため、初演したクマ木工と言う木造の部屋より遥かに広い空間では、音はよく通らなかったと思います。上演後に、園長先生より、音量について、小さすぎてよく聞こえなかったと言うご指摘がありました。それでも、我が家の敷地外でも上演できたことは、とても良かったと思っています。
 この本厚木の方にあった幼稚園での公演の際、園長先生より、劇団の名前はなんですか、と問われ答えたのが「劇団青麦座」と言う名でした。私は、大学卒業後劇団木馬座に入社した頃、短い詩を書き始めていました。その一つに『生命の泉』と言う作品があります。麦秋と言う言葉がありますが、麦は五月頃、青々と生え、空に向かって成長します。その溢れ出る活力を、私は、生命の泉だと思いました。あの青々した麦のエネルギー、それを劇団の名前にしました。
 そして、海運不況のために一九八六年十二月に語学学校へ転職しました。すぐにやめて独立する予定でしたが、ずるずると働き続け、実際は今現在も働いているという状況であります。一九九七年には、会社も随分陰気な雰囲気に包まれ、まるで閉塞感に満ちた出口のない職場になっていました。退職を何度も考えました。しかし、如何せん、独立できる才覚がありません。つい頼るのは、昔取った杵柄でした。大道具や小道具をやるか、どさ回りの小劇団でも作って、食べるだけを稼ごうか、と。その時に考えていたのか、この劇団青麦座でした。この回想にある写真は、その看板の構想を練っていた時のものです。


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